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失った記憶、消えない愛。  作者: 言ノ悠
第一章 〜「記憶にない世界と一途な君」〜
3/30

003話

 

 歩くたびに、足元からかすかな擦過音が響いた。

 白く簡素な履き物が、床の金属板とわずかにこすれる。

 脱ぎ捨てても構わないような軽さだったが、滑り止めの工夫がされていて、意外と足に馴染んでいる。


 着ているのは、白を基調とした薄布の衣だった。

 身体を覆うには充分だが、防御力などは期待できそうにない。

 病室で目覚めた患者のような姿。けれどここは、病院などではなかった。


 廊下は広く、天井の照明が等間隔で並んでいる。

 白い光が足元を照らし、進行に合わせるように一つずつ点灯と消灯を繰り返す。

 左右の壁には、銀色のパネルが均等に並び、いくつかの小さなランプが赤や緑に点滅していた。


 壁の端には、配線をまとめた細いチューブが走っている。

 通気口からは一定のリズムで微かな送風音が聞こえ、空気は静かに循環していた。

 どこを見ても、人の手で丁寧に整備された痕跡がある。


「封印室は、この通路の最奥にありました。ここは中央管理棟の地下十階にあたります」


 隣を歩くレイが、自然な調子でそう言った。

 彼女の足取りには迷いがなく、歩幅も無理がない。

 長い年月、この場所に通っていたことが感じ取れる所作だった。


 前方には、すりガラスのように曇った扉が見えてきた。

 中央に一本の光の筋が走っており、近づけば自動で開く構造のようだ。


 誰もいないはずの施設だった。

 けれど、照明は規則正しく反応し、空調は整い、床には一つの埃もない。

 五十億年ものあいだ放置されていたとは思えないほど、空間は静かに保たれていた。


 扉の前に立つと、静かな駆動音と共にそれが左右に開いた。

 わずかな風が顔を撫でる。空気が動いたのは、久しぶりにこの部屋が開かれた証かもしれなかった。


 中はやや暗く、室内の照明が徐々に反応を始める。

 足元から天井にかけて、間接照明のような光がゆっくりと立ち上がり、空間全体をやさしく照らしていく。


 目に飛び込んできたのは、整然と並ぶ収納ユニットの数々だった。

 金属製の棚に収められた小型の装置や、封印された箱のような保管ケースが、規則的な間隔で配置されている。

 壁の一角には、立てかけられたままの黒いコート。その下のケースの中には、色の違う剣らしきものが二本、専用の台座に置かれていた。


 それらは、どれも見覚えがないはずなのに、どこか“俺のもの”だと感じさせる不思議な雰囲気を持っていた。


 俺は思わず呟いた。


「ここまで全部、レイがひとりで管理してたのか?」


 レイは小さく頷くと、少しだけ視線を逸らした。


「最低限の整備だけです。私は技術者ではありませんから、内部までは触れていません」


 レイは少しだけ視線を伏せた。声の調子も、どこか柔らかく変わる。


「それでも、目を覚ました旦那様が、錆びた剣や埃まみれのコートを見てがっかりするのは、嫌だったんです」


 そう言って笑う彼女の表情には、気負いも誇張もなかった。

 それがどれだけの労力だったのか、想像もつかない。

 けれど彼女にとっては、それが当然だったのだと感じられるだけの静けさがあった。


「五十億年、ずっとこの建物を?」


「さすがに毎日ではありません。気が向いたときに、ですよ」


 軽く肩をすくめて見せる彼女に、言葉が返せなかった。

 その身に永遠の命があるとはいえ、ただ時を過ごすことと、思い続けることとは別の話だ。


 扉の近くには、操作パネルのような端末が備え付けられていた。

 レイがそこに軽く指をかざすと、台座のひとつが静かにせり上がる。

 中央の台座に置かれていたのは、先程も見ていた一対の剣だった。

 黒と鈍い銀を基調とした外見には、飾り気はない。

 刃はやや短く、両手に一振りずつ持つことを前提にしているように見える。


 柄には金属が厚く巻かれていて、どこか殴打用の武器を連想させる重みがあった。

 それは、斬るだけのためではないようにも思える。その形状に見覚えはなかったが、なぜか視線を外せなかった。


「……こちらは、かつて旦那様が使われていた剣です」


 レイはそっと一歩前に出て、台座の縁に手を添えた。

 傍らに掛けられていた布の端を軽く撫で、視線を剣へと戻す。


「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、触れていただければ、きっと体が思い出します」


 俺はゆっくりと、片方の剣に手を伸ばした。

 柄に触れた瞬間、ひやりとした冷たさが皮膚を伝い、それと同時に腕の奥へと妙な感覚が走る。

 重さはあるが、手に持てないほどではない。


 何となく握ってみる。

 バランスも重心も悪くはない。だが、しっくりこなかった。

 構えているつもりなのに、どこか不自然で、手と武器の噛み合わせがずれているような違和感が残る。


 試しに刃の向きを変えて握ってみた。

 すると、それまでの違和感がすっと消えた。

 なぜかはわからない。ただ、そちらの方が自然だった。

 まるで、もともとそうやって構えていたもののように。


 何も思い出せないまま、握った場所だけが手に馴染んでいく。

 その感触に、胸の奥がかすかに反応するのを感じた。


 しばらくその心象を確かめていたが、やがて俺はゆっくりと剣を台座に戻す。

 それは鞘ではないが、剣はぴたりと凹みに収まり、ぐらつきもしなかった。


 剣を戻す手つきに、どこか懐かしさがあった。

 意識していないのに、自然に動けているのが不思議だった。俺の武器なんだと否が応でも理解させられる。


 視線を隣へ移す。

 立てかけられていた黒いコートが、わずかに揺れている。


 そっと手を伸ばし、布地に触れた。

 厚手の素材だが、想像していたよりも軽い。

 表面にはわずかに艶があり、内側は滑らかで柔らかい。

 防寒や耐久の目的があるように思えた。


 何気なく肩にかけてみる。

 すると、驚くほど自然に馴染んだ。

 コートの裾に腕を通す。袖の長さも、裾の重みも、まるで自分の動きを先回りしていたかのようだ。


 鏡があるわけでもないのに、姿が想像できる。

 目の前の二振りの剣と、このコートを身に着け、戦場に立っていた“かつての俺”が。


 記憶は戻らない。

 それでも、何かが確かに、自分の中に残っている。

 そんな気がした。


「旦那様、こちらを」


 レイは丁寧な所作で、剣鞘の帯を両手で差し出してきた。


 俺は無言でそれを受け取り、腰に巻きつける。

 柔らかな革の感触が手に伝わり、左右に鞘を取り付けられるよう金具が調整されていることに気づく。

 初めてのはずなのに、手が迷わない。


 その様子を見ていたレイが、今度は足元に目を向けた。


「……それと、外用の靴も。こちらを」


 彼女が差し出したのは、黒く引き締まった印象のある、重厚なブーツだった。

 金属の補強が施されており、足首をしっかりと保護する造りになっている。


 俺はそれを受け取り、簡素な履き物を脱いで履き替える。

 内側には柔らかな素材が使われており、外見に反して履き心地は軽やかだった。

 足に吸い付くように馴染む感覚が、妙にしっくりくる。


 しっかりと帯を締め終えると、レイが両手で二振りの剣をそっと持ち上げ、俺の前に差し出した。

 それを順に受け取り、静かに構えを確認する。


 そして、左右の鞘にひと振りずつ、剣を収める。

 刃が吸い込まれるように滑り込み、金属が鞘と触れ合うわずかな音が、耳に心地よく響いた。


 レイが小さく微笑んだ。


「よくお似合いですね」


 その言葉に、少しだけ間を置いて返した。


「そう……だろうか?」


「はい。とても似合ってますよ」


 声には、どこか安心したような響きがあった。


「ありがとう」


 短く答えると、レイはふと視線を扉のほうへ向けた。


「旦那様。もしお体が大丈夫でしたら、少しだけ、外に出てみませんか?」


 その問いかけは控えめだったが、ほんのわずかに期待が滲んでいた。

 何かを見せたいのか、それとも、この場所に閉じこもったままでいてほしくないのか。


「外……か」


 その言葉を反芻させながら、無意識に視線を足元に落とす。

 記憶を失った今の俺にとって、外の世界はまるで知らない場所だ。

 恐れとまでは言えないが、正体の知れない重さが胸の内をかすめた。


「案内、してくれるか?」


 それでも何故だか、一歩を踏み出そうと思えた。

 過去の俺は、外に出るのが好きだったのかもしれないな。


「もちろんです。それでは、私も装備を取って参ります。少しだけ、お待ちください」


 レイは軽く礼をして、静かに廊下の奥へと歩き出す。

 その背中は、張りつめた何かをほどいたように、わずかに軽く見えた。


 胸に手を当てた。

 この鼓動が、何に反応しているのかはわからない。

 けれど、外に出れば──何かが変わる気がした。

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