026話 Feat.ユリ
「……大丈夫か?」
我の様子を見て、シンはとても心配そうな表情をしていた。彼の瞳に映る我は、彼の指を咥えながらも、その衝動に耐えられずジタバタとしていたから、そうやって心配されるのは無理もない。
だが、そうやって身体が勝手に動くことを、我は止めることができない。久方ぶりに血液を吸ったことと、その血液が極上であったことが重なって、我の身体は反射的に動いてしまっているのだ。
「らい……ひょう……ふ……」
我は辛うじてその問いに答えた。だが、そんな我とは全く対照的に、彼は顔色ひとつ変える気配もなかった。
血を吸って身体が発熱するのは、実は我には初めての感覚だ。これは吸血する者が、今回は我だが、吸血される存在よりも、生物の格が低い場合に起こる現象だ。
我は、神すらも屠ることができる異端の吸血鬼であったから、そんな我よりも格が高い者の血を口にしたことはなかった。
彼は、我よりも核の高い存在なのだと、改めて認識した。
神を敵に回す可能性を提示しても、我関せずな存在だから、この結果にはある種の納得感すら覚えた。
我より格上の存在など、神を除いて初めて出会った。だからこそ、とても魅力的な異性に見えてしまう。血を貰うだけの相手だから、そんな気の迷いは持つべきではない。
指先まで感覚が戻った。力を入れて、自分の身体が動くかを確認する。
ばきっ
大きな音が聞こえた。視線を音の方向に向けると、指先が地面に食い込んでいた。
この部屋は強固な大理石で構築されている。もし仮に我が封印を破ったとして、弱っている状態では外に出られないようになっている。
それがこんなにあっさりとひび割れてしまった。これは素晴らしい。何でもできてしまいそうだ。こんな素晴らしい血を持つ彼と、一回切りで終わりにするのは勿体ない。もっと彼の血が吸いたい。
……まずい、人らしくない、怪異らしい発想になっていた。非常に思考の方向が良くない。
咥えていた指を解放した。
「ありがとう。助かった」
自らの思考を正す為に、我は彼に感謝の言葉を述べた。そして、彼の身体から少しだけ距離をとった。それにも関わらず、彼の血を吸いたいという欲望が消えることはなかった。
手を足も動く、腕も脚も思い通りだ。だからこそ、彼を組み伏せようと一考してしまっている自分がいる。それはダメだと告げる自分と、更に齧り付いてしまえと告げる自分がせめぎ合っている。
「……大丈夫か?」
彼は再び不安そうな表情で、我に近付いてきた。
「……ではない」
我は近付いてきた彼に対して、辛うじて自分を抑えることに精一杯だった。否定の声すらも掠れてしまった。
「何かできることはあるか?」
彼の声色は優しく、我の耳には甘美に聞こえてしまっている。襲い掛からないように、自身の身体を抑えることすらも、段々と苦しくなってきた。身体の自由が効かなくなってきた。
我は何とか首を横に振って、再び彼から距離を取った。
「……レイ、どうしたら良いと思う?」
彼は隣に立つレイに問い掛けていた。そのやり取りは辛うじて、我にも理解できていた。
「更に血を与えた方が良いと思います」
「そうか。じゃあ……」
彼は、我の犬歯で少しだけ血が滲んだ人差し指を、再び我の前に見せびらかした。そんな事をされては、内に秘める衝動を抑えることなど、できるはずもなかった。
我は彼の指を咥えて、再び舐め始めた。じわじわと溢れるように流れる彼の血液は、幾度となく舐めても飽きることなく、我の意思ではもはや、我の身体を制御できなくなっていた。
「……暇だな」
彼の呟きが耳に届く。
「……のようですね」
彼女の視線が我に向けられたのも理解した。だがしかし、それでも我は血を舐めるのを止められなかった。人有るまじき姿であることを理解しているのに、止めることができなかった。
「……すまない。時間を取らせた」
我がその指を離せたのは、既にそれなりのときが経った頃だった。
全力で頭を下げて謝る以外に、今の我にできることは何も無かった。
「気にするな。また欲しければ言ってくれ」
彼はとても軽い口調で、気取ることもなく言った。我は気にしていたが、彼は何も気にしていなさそうだ。むしろ、我な方が無闇矢鱈に気にし過ぎていると思えてきた。
「身体は、動くか?」
「あ、ああ」
「レイ、彼女に服を」
「それなら、大丈夫だ」
我は毛布を片手に立ち上がり、身を包んだ毛布の代わりに、深紅の血布で造られたドレスを身にまとった。
「綺麗だな」
シンは我の姿を見て、素直な賞賛を口にした。それは皮肉の籠らない言葉で、少しだけ胸が鳴った気がした。
「……ほう」
レイは我の姿を見て、とても興味深そうに声をあげた。何かを観察するような、何かを気にしているような、そんな表情をしていた。
「ユリには、何かやりたいことはあるのか?」
だがしかし、そんな彼女の表情は関係ないと言わんばかりに、シンは我に向かって口を動かした。
「すぐには、これといって思いつかないな」
こうやって封印が解かれたことこそが、我にとっては幸運以外の何物でもない。こうやって極上の血液を飲んだことこそが、我にとっては快楽そのものであった。
「なら、俺たちと来ないか?」
「……良いのか?」
まるで、快楽に溺れた怪異のように、我は彼の提案に聞き直していた。
「もちろんだ」
「そう、か」
我にとっては不都合の存在しない提案。だがしかし、彼らにとってはどうだろうか?
メリットは存在するのだろうか?
デメリットばかりではないだろうか?
さすがに、おんぶに抱っこでは、我のプライドが許さぬ。
「旅は道連れ、とも言うだろう?
せっかくの縁だからさ」
彼は気のいい表情をして、そう言った。その気兼ねない様子を見て、我は自分のプライドだとか、どうでも良くなってしまった。
何も気にせずに、彼の提案を受け入れることにした。石橋を叩くのも程々で良いと、そう思えるようになっていた。




