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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第三章 〜「半怪半人の者と異常者な君」〜
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024話 Feat.ユリ

 ”究極の忘却”──彼がそう評したそれは、ありとあらゆる存在の全てを否定する存在なのだと、理屈ではなく本能が理解した。我が身に怖気が走るほどの恐怖が、そこにはあった。

 彼の手のひらに収まるほどの黒い渦が、やがて我が身を飲み込んだ十字架に触れた。我は恐怖で叫びそうになった。声が漏れそうになった。だが、堪えることはできた。

 その黒い渦は、触れた先から十字架を削っていく。我が身がより多く外に露出していく。このまま、我の身体ごと消えてしまうのではないかと、そう思わざるを得なかった。だがしかし、次の瞬間には我の身体を覆っていた十字架の全てが消えた。


「っつ……」


 十字架が消えて、我の身体を一瞬の浮遊感が襲った。上手く地面に着地することはできず、そのまま地面に崩れ落ちた。長い封印のせいか、身体に全く力が入らなかった。


「やっぱり、概念的な拘束を消失させれば、物理的な拘束も消失したな。予想通りだ」


 その言葉を聞く限りは、十字架が突然消えた今の状態は、彼の意図通りなのだと理解できた。概念的な拘束とは恐らく、神の加護とか呪いとか、その手の類なのだろう。


「旦那様、あまり彼女の身体を見るべきではありませんよ。美しい肢体なのは理解しますが、失礼ですよ」


 彼にレイと呼ばれた美しい黒を身に纏う女性は、我に大きな毛布を掛けてくれた。衣服を一切纏わない我を気遣ってくれたのだろう。我はその毛布で、自らの身体を覆うために手を動かそうとしたができなかった。手が思うように動かなかったからだ。


「あぁ、そうだよな。ユリもごめん。レイに任せても良いか?」


「承知しました。お任せください」


 彼は我から視線を切って、身を逸らすためにくるりと反転した。その代わりにレイが、我に視線を合わせるように地面にしゃがみ込んだ。


「ユリ、立てますか?」


 その言葉に応えるために、自分の身体に力を入れようとしたが、やはり我の身体は何一つとして自由が効かなかった。

 そこで吸血鬼の体質を思い出した。吸血鬼は最強の怪異であるが、最強たる所以である”力”を引き出すには他人の血が必要だ。そして、我は永いこと何も口にしていない。食物も血液も喉を通っていない。であれば、何一つとして力が入らないのも道理なのだ。


「不甲斐ないが、一切力が入らん」


 だが、その道理を口にする気は無かった。口にしてしまえば、我を拘束から解放した彼は、何か行動をしてしまうだろうと思ったからだ。だが、彼から血を貰うわけにはいかない。シンとレイは我の目からは、現状がとても幸せそうな夫婦に見える。彼を愛した彼女からしたら、見知らぬ他の女の血を飲む彼を生理的に受け付けないだろう。


「……長い封印の影響でしょうか?」


「さてな。恥ずかしい限りだ」


 レイはどのように行動するか悩んでいるようだった。今の我には他者から血液を与えられる以外に、自らが立ち上がる術が思い付かない。

 それはつまり、他人が吸血鬼の体質を知っていれば、同じようなことを思いつくのは自然なことで……


「ユリは吸血鬼……で合っているよな?」


 後ろを向いた彼は、唐突にそんなことを言った。彼らが”我は吸血鬼である”と知っている前提で話を進めていたが、我こそは吸血鬼だと宣言した覚えはない。


「ああ、そうだ」


 否定する理由はない。だから、我は大人しく頷いた。


「吸血鬼なら、回復するために他人の血が必要なんだろう?」


 彼の言葉は、短い対話で知った彼の性格を思えば、至極当然の疑問だった。


「……否定はしない」


 否定すべきか悩んだ。だがしかし、それはすぐに看破されてしまう気がした。だから、我は大人しく事実を肯定した。


「なら、なんで、さっき原因がわからない風な態度を取ったんだ?」


 彼は全く気持ちがわからないと言いたげであった。我が勝手に気にしているだけなのかもしれないが、他人を不幸に堕としてまで、自分が幸せになりたいと思わないだけだ。自分の幸せを強く信じることが、今の我にはできないだけだ。でも、それを素直に口に出すのは憚られた。


「血が欲しいと言えば、貴様は我に血を与えるだろう?」


 だから、我の口から辛うじて言葉にできたのは、皮肉交じりの問い掛けであった。


「そう考えるかもな」


 だが、彼はその皮肉すらも全く無視して、単なる事象の一側面として受け入れていた。


「それはいかん。

 愛する者を持つ存在から血を貰うなど、あってはならぬ」


 吸血鬼の吸血行為は、相手を眷属にするという意味合いもある。それ故に、他人の家族を自分の物に強奪してしまう結果に至ることもあるのだ。

 事実、吸血鬼と呼ばれる種族は、自らの仲間を増やすために眷属化を行う者も存在する。だから、我は彼から血を貰うべきではないと強く考えている。


「何故だ?」


「己の弱さを理由に、他人に不義理をさせるほど、我は堕ちたくはない」


 彼はまるで理解してなさそうだが、我はそれを譲る気はない。


「何を気にしているかはわからないが……レイ、どう思う?」


「必要であれば、良いのではないですか?

 旦那様は私を気にする必要はありません。それから、彼女の身体を毛布で隠したので、こちらを向いても大丈夫ですよ」


 これもまた、我の漠然な理解だが、レイは彼の言葉を否定することがない。彼に聞かれれば、御身のままにと尊重してしまう。それは正しく彼を愛した者の形だとは思えなかった。正しく彼女は狂っていると感じている。


 彼は我に向き直った。彼の瞳は星空のように美しかった。吸血鬼の本能のままに彼と対峙するのであれば、彼の血は酷く美味しそうに見える。

 今の我は動くことができないからこそ、彼を美味しそうに見えてしまう今を、正しく飢餓状態であると認識できる。

 だからこそ、獣には堕ちたくない。完全な怪異にはなりたくない。我は人として生きていきたいのだから。


「……じゃあ、ユリに血を与えてしまっても構わないか?」


 彼は我の想像通りに、レイに問いかけていた。我は思わず、そんな質問をした彼に侮蔑の視線を向けてしまった。

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