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【初稿】失われた記憶、消えない愛。取り返す記憶、紡がれる愛。  作者: 言ノ悠
第一章 〜「記憶にない世界と一途な君」〜
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002話

 色と形を取り戻した視界に、一人の女性の姿が映った。

 彼女は、俺が横たわるベッドのすぐ隣で、小さな椅子に静かに腰かけていた。

 黒い瞳が、息を呑んだまま、こちらを見つめていた。

 わずかに身じろぎをした拍子に、肩に掛かっていた艶やかな黒髪が、静かに背へと滑り落ちていく。


「旦那様っ……!」


 その声は、高鳴る鼓動のように胸に届いた。

 色のない音は、優しさに包まれ、柔らかさに滲み、そして強い喜びで染まっていた。

 そのとき、俺の耳は確かに、感情という色を取り戻していた。


 ふと、染み渡るほどの温もりに視線を向けた。

 彼女は俺の手を握っていた。

 あの温もりは、彼女のものだったのだ。

 その暖かさだけではなく、火傷してしまいそうな激情が、震える右手から鮮明に伝わってきた。


「お目覚めに……なられたのですね……」


 彼女は、握っていた手を放って、衝動に駆られるように、俺に身を預けてきた。

 鼻腔をくすぐった香りは、言葉にできないほど懐かしく、胸の奥を締めつけた。


 口の中に広がる、味のない唾をひとつ、ゆっくりと飲み込む。

 そのあとで、俺は彼女の身体を正面から受け止めた。


「……聞こえていますか? お体の具合は……?」


 声を出そうとしても、うまく言葉が出てこない。

 何を話せばいいのかもわからなかった。


 それでも、目の前のこの人が、自分にとって無関係な存在ではないということだけは、はっきりと感じていた。


 ゆっくりと、身体を起こす。

 筋肉の動きは滑らかだった。思ったよりも軽かった。

 目の前には大きな鏡が立て付けられていて、灰色の髪と星空のような瞳の、細身の男性の姿が映っていた。


「あなたは、誰だ」


 掠れた声だった。

 それでも、彼女にはちゃんと伝わったらしい。

 少しだけ表情が揺れて、それから、静かに笑みが戻った。


「私の名前は、レイです。

 貴方の妻として、長くお傍にお仕えしておりました」


 妻、という言葉が胸の中で何度も反響した。

 重たく響いたはずなのに、どこか温かかった。


 けれど、やはり記憶は戻らない。

 名前も、顔も、思い出せなかった。


 それでも、彼女は責めなかった。

 悲しみも見せず、ただ、受け入れるようにそこにいた。


「覚えていなくても大丈夫です。

 貴方が目を覚ましてくださっただけで、私は……それだけで十分なのです」


 声がかすかに揺れていた。

 彼女は目元をぬぐい、もう一度、微笑んだ。


 その笑顔は、あまりにも優しくて、言葉にならなかった。


 少しの沈黙のあと、彼女は小さく息を吸い、語り始めた。


「旦那様はかつて、全てを飲み込まんとする力を、その身に封印し、全宇宙の存続を守りました」


 突然の、常識では通用しないような、そんな内容に俺は黙りこくるしかなかった。

 彼女の言葉はあまりにも現実離れしていて、まるで物語の登場人物にでもなったような気分だった。


 それでも、目の前の彼女は真剣だった。

 どこにも誇張や冗談の気配はなく、ただ静かに、真実だけを伝えている目だった。


「ですが、そのあまりにも強大な力を抱えた旦那様は、力を御する代償として意識を失い……

 そこから、およそ五十億年が経過しています」


 その長過ぎる年月に、思わず目を見開いた。

 口の中がひどく乾いていることに気づいた。

 問いかけるつもりはなかったのに、言葉が勝手にこぼれていた。


「……なぜ、そこまでして俺を待っていた」


 返ってくるまでに、少しだけ間があった。

 レイは視線を落とし、指先を静かに胸元で組み合わせた。


「それが、私のすべてだったからです」


 声は、とても静かだった。

 風も、音も、気配すらないこの空間で、彼女の声だけが確かに響いた。


「私は、旦那様に命を拾っていただきました。

 私という存在そのものを、出会ったあの日に、貴方が認めてくださったからです。

 ……それだけです」


 静かに紡がれたその言葉たちが、この胸に深く沈んだ。

 語られたことの意味は、そのほとんどは理解ができなかった。

 それでも、一言ひとことが、俺の心を確かに揺らしていた。


 知らないはずなのに、懐かしさがこみ上げる。

 何も覚えていないはずなのに、その言葉が、嘘じゃないとわかる。

 その声を否定することが、どうしても俺にはできなかった。


 ふと、何かが小さく引っかかった。

 理解ではない。納得でもない。

 ただ、ひとつだけ、確かめておきたくなった。

 だって、そこには明確に、非常識な事実が隠れていたから。


「……でも、どうやって、五十億年も生き長らえたんだ?

 俺も……そうなんだろうけどさ」


 レイは、ほんの一瞬だけ視線を逸らし、それからふと微笑んだ。


「あら……新婚旅行のことまでお忘れですか?」


 彼女は唇の端を少しだけ持ち上げて、まるで拗ねたふりをするような、それども、その瞳はどこか楽しげで。


「一緒に、不老長寿の薬を探したじゃないですか。

 途中で雨に降られたり、嵐に巻き込まれたり、そんな森の中で焚き火をしたり、火が上手く付かなかったりしたのに……」


 少し顔を傾けながら、両手を腰の後ろで組む。

 思い出を語るその姿は、まるで昔話を懐かしむ少女のようだった。


「……その思い出、私、けっこう気に入ってたんですよ?」


 レイは少し視線を下げ、照れ隠しのように小さく笑った。

 その笑みには、かすかに寂しさが混ざっていた。


「その旅路の最後に、私たちはその薬を作ることに成功しました。

 なので、私はこうやって、旦那様の目覚めを待つことができました」


 真っ黒な瞳から、一筋の雫が線を描いた。


「……本当に……待ってたん……です……」


 白い頬を伝う雨粒は、やがて地面へと落ちた。

 その数瞬が過ぎても、俺はやはり、言葉を紡ぐことはできなかった。

 何も知らないはずの俺が、胸の奥を締めつけられる理由なんて、どこにもないはずなのに。


 それでも、今の彼女を、黙って見ていることだけは、どうしてもできなかった。

 だから、俺はそっと、彼女の手を取った。細くて、温かい指先が、微かに震えていた。


「……いつか、君との記憶を思い出してみせる。

 これからも、俺と一緒に居てくれるか?」


 それは理屈じゃなかった。

 綺麗な顔がぐちゃぐちゃになった彼女に、本能的に突き動かされた俺が発した言葉だった。


 しばらく、俺たちはそのまま手をつないでいた。

 何も言わず、何もせず。ただ、時間だけが静かに流れていく。


 やがて、彼女がそっと顔を上げた。

 その表情は酷く儚げで、とても、うつくしかった。


「……旦那様、起き上がることはできますか?」


 そう言いながら、レイはふわりと微笑む。


「お目覚めになった記念に、少しだけ……見ていただきたいものがあるんです。

 きっと、貴方にとって、大切なものだったはずですから」

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