017話
「旦那様、大丈夫ですか?」
レイがとても心配そうな顔で俺を見ていた。
そんなに危ないことをしたつもりは無かったが、この"究極の忘却"は、安易に使ってはいけない力だと改めて感じた。
「大丈夫だ。心配かけたか?」
「いえ、問題ありません」
彼女は首を横に振った。
「そっか」
俺は彼女の心境には触れないことにした。だが、視線を冷え切った地下街に移したとき、先ほどまで抱いていた感情とは異なる、新たな興味が胸に湧いた。
「俺はもっとこの街を歩きたい。付き合ってくれるか?」
人の気配はあるのに、命の呼吸が聞こえない特殊な街並み。人々の手が重なった軌跡は、とても美しいと思った。
「もちろんです」
彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
「こんな都市があったなんて、何だか神秘的ですね」
天使との戦いの興奮がようやく落ち着き、俺とレイの間に穏やかな時間が流れ始めた。
真っ暗な空間の中で、俺たちの周囲だけが光に包まれている。その小さな明かりの輪の中で、彼女の横顔は静かに和らいでいた。
「そうだな……にしても、どの建物も少しずつ形が違うんだよな」
石造りの家々は似ているようで、窓の形や扉の厚み、屋根の角度などが一つずつ異なっていた。
だがそれらは、あまりに整然と並んでいるため、遠目には同じようにも見えてしまう。
「なのに、建物の並び方は、まったくと言っていいほど変化がありませんね」
彼女の言葉に頷きながら、俺は道の両脇を見渡す。
等間隔に続く建物群。幾何学的な配列。
それは几帳面な管理者の存在を思わせる静かな証だった。
しかし──
「こんなに整ってるのに、城や屋敷のような場所は見当たらないな」
都市を保つための“中枢”が見えない。管理者がいたはずなのに、その痕跡がどこにもないのは奇妙だった。
「住民たちが全員、似たような建物に暮らしていた……それだけで片づけるには、何かが足りない気がします」
レイもまた、同じ違和感を抱いているようだった。
「もう少し、歩いてみるか」
無意識のうちに、足が前へ出る。頭ではなく、心が先に動いている。
この整い過ぎた街の中にある“違和感"を、確かめたいという思いが、この体を導いていた。
「ふふっ」
背後から、上品な笑い声が聞こえた。振り返ると、レイが微笑んでいた。
「……どうした?」
「いえ、楽しんでくださってるのが分かって、少し安心しました」
彼女の言葉は柔らかく、どこか温かかった。
「そんなにつまらなそうに見えてたか?」
俺は三回ほど瞼を上げ下げしていた。
レイとの旅は、まだ始まったばかりだが、いつも楽しいと思っている。新しい発見ばかりだからな。
だからこそ、そうやって言われたことに、驚きを隠せなかった。
「いいえ、ただ……この地下に降りたのは、私の提案だったので」
「──?」
俺が行きたがったから、レイが付き合ってくれてるものだと認識していた。だがしかし、確かに自分で"行きたい"と言った覚えはない。
なんか微妙に記憶に靄がかかる。
……まあ、気にしなくて良いだろう。余程の問題があれば、レイが指摘をしてくるはずだから。
「そうだったかもな。
レイに連れ出されたこの旅は、俺にとって楽しいことだらけだから、気にするなよ」
だから、いつも通りに振る舞うことにした。
「それなら、良かったです」
他愛のないやり取りを重ねながら、俺たちはまた歩き始めた。
建物の隙間に、ぽつんと壊れた椅子が残っていた。
風化していたが、そこに誰かが座っていた記憶が確かに刻まれているような気がした。
人はいない。でも、誰かが生きていた。
そんな感覚だけが、薄く、微かに、都市の空気に混じっている。
左右に道が交差するこの街は、まるで測量器で設計されたかのように正確だった。
乾いた足音が、石畳に軽く響いては、すぐに静けさに吸い込まれていく。
角を曲がらず、一直線に進み、突き当たりへと辿り着く。
その後は一本ずつ道をずらしながら、丹念に調べていくように歩いた。
まるで、見落としを恐れるように、一歩一歩を確かめるようにして。
整然と続く街路の終端で、ふと足元に違和感を覚えた。
石畳の一部が、不自然に凹んでいる。その隙間から、段差のような灰色の影が、わずかに顔を覗かせていた。
「……レイ」
呼びかけると、彼女もすぐにそれに気がついた。
俺たちは二人で膝をつき、手で土埃や瓦礫などを払いのける。
すると、その下から現れたのは、さらに地下へと続く階段だった。
最初の数段は露出していたが、それより下は、崩れた石材や砂利などで、部分的に埋もれていた。
「……何だか、不思議な構造ですね」
レイが俺の隣で、そっと声を漏らした。
「そう……だな」
膝をついたまま、階段の奥をじっと見つめる。
深い闇の奥から、何かが静かに手招いているような錯覚すら覚えた。
この階段は、確かに“道”として続いている。
だが、それは今まで見てきたこの都市の風景とは、どこか質感が違っていた。
これまでの建物も、それぞれに堅牢で丁寧な造りだった。
だが、目の前の階段に使われている石材は、明らかにそれらを凌駕している。
手のひらでそっと触れる。
ひんやりとした大理石のような感触。表面には磨かれた光沢がわずかに残っていた。
崩れた都市の風景の中にあって、この階段だけが、まるで時を止めたように静かで、美しかった。




