011話
残骸の影にあったのは、人ひとりが通れるくらいの扉だった。
それは細く古びていて、立て付けすらもまともに機能していなかった。
「開けてみますか?」
レイと目が合った。彼女は少しだけ腰を折るようにして、下から覗き込んできた。
「ああ、開けてみよう」
距離が近い、そう思いながらも、濁り気のないその黒い瞳を見つめ返した。
すると、彼女は満足したような表情をして、俺から距離を取った。壊れかけた扉の前に立つ。蹴飛ばした。
周囲には錆が飛び散る。ばたんと金属の板が倒れる。板が倒れた甲高い音だけが響いた、冷たい空間がぽっかりと口を開けた。
次の瞬間、古く冷たい空気がゆっくりと流れ出す。土と鉄が混ざったような匂いがした。
「地下?」
「……のようですね」
彼女は思案顔をした。こういう時に美人なままなのは、顔が非常に整っている証拠だろう。
真っ暗な空間に、古びた石積みの階段が吸い込まれるように続いていた。
奥はまったく見えず、物音ひとつすらも反響しないほどに静かだ。
人工物であるのは間違いが無いのに、命の気配が全くと言っていいほどに、感じられなかった。
「少し危険かもしれませんが、この先に進んでみますか?」
レイの忠告は極めて冷静だった。その表情には動揺の一つすら含まれていない。あくまで忠臣としての申し出であった。
一方で、俺はその不思議な空間に強い興味を惹かれていた。
何故なら、自身が目覚めた施設以外で、ここまではっきりとした人工物に、今までの道程で出会って来なかったからだ。
「俺は行ってみたい」
素直な願望を口に出した。この異質な空間がどのように構成されるのか、この瞳に映してみたかった。
すると、彼女の口元が少しだけ緩んだ。何故かはわからないが、少しだけ喜んでいるようだ。
些細な表情の変化だが、この数日間で見分けることができるようになった。
と言っても、彼女が何を喜ぶのか、嬉しがるのか、俺にはやっぱり理解が及ばない。
喜んでくれるのなら、何も問題は無いんだけど、気にならないわけじゃない。
……まあ、聞くだけ無粋だとも思っているから、わざわざ聞くことはしないのだが。
「では、行ってみま……何か、来ます」
レイは言い掛けた途中で、強い警告の色を含んだ声を発した。
彼女の表情も、先程までとは打って変わって、険しく張り詰めていた。
「え……?」
そんな彼女の形相に、俺は慌てて周囲を見回した。
だが、視界に入るのは草木ばかりで、風の音すらない静けさが支配している。目の前の残骸以外に、気配を感じさせるものは何もなかった。
「……なんだ、あれ」
その次の瞬間だった。視界の隅で、空気がわずかに揺れたのを感じた。
揺れた空間へと視線を向けた時、小さな光点がその場に浮かび上がった。
「魔法陣です。……数が増えていますね」
レイはわずかに目を細めながら、冷静に状況を読み取っている。彼女の表情からは焦燥や緊張の色は感じ取れなかった。
彼女の手には普段使いしている槍が、気が付いた時には握られていた。その様子を見て、俺も二振りの剣を取り出した。
やがて浮かび上がった光点は、分裂するように増殖し、連鎖的に広がり始めた。
散った光たちは、俺たちの周囲を取り囲むようにして、淡く浮かぶ幾重もの魔法陣へと姿を変える。
それは地表だけでなく、空にも出現し、まるで逃げ場を塞ぐようで。
そのひとつひとつが、脈動するように輝きを強めていった。
「……召喚ですね。構成は古いですが、かなり大規模です」
レイの口調はいつも通り落ち着いていたが、手の内に収めた槍には、既に殺気が宿っていた。
鋼が静かに息を呑むような、研ぎ澄まされた気配だった。
俺には、彼女みたいな殺気を出すことはできないが、彼女の足を引っ張るわけにはいかない。
それぞれの手に握られた剣を、もう一度だけ丁寧に握り直した。
「召喚って……何が来るんだ?」
「不明です。ただ、これだけの数と規模です。単独で扱える術式ではありません。誰かが組織的に“仕掛けた”ものでしょう」
そう言いながら、レイは俺のすぐ隣に音もなく立った。そして、背中を俺に預けるようにぴたりと身を寄せた。
「旦那様、任せましたよ」
「まあ、頑張るよ」
そうは言ったが、明らかに魔法陣の数が多過ぎる。
この状況を、あっさりと解決できるとは、とてもではないが思えなかった。
「あれ……泥?」
それぞれの魔法陣の中心で、泥が盛り上がるようにうねった。その泥はやがて、人の形へと変容していった。
最初に立ち上がった”それ”も、後から立ち上がった”それら”も、全てが二足歩行の正しい人の概形を保っていた。
でも、それらはあくまでも概形であって、細部の顔のパーツ、目も鼻も口もなかった。当然ながら髪もなければ、性器などの性別的な特徴も一切含んでいなかった。
だが、人類種と違うのはそれだけではなかった。
腹部にもぽっかりと穴が開いていて、それなのにも関わらず、その周囲は心臓のように脈動していた。
この世のものでないことは、一目瞭然であった。
ひとつ、またひとつと数を増すたび、胸の奥にじわじわと冷たいものが這い寄ってきた。
「……これは、神罰兵ですね」
レイはわずかに眉をひそめた。長く美しい黒髪がふわりと風に凪ぐ。
「神罰兵って?」
初めて聞く言葉だった。
「神々が、下界に“罰”を与えるときに使う兵士です。自我はなく、命令そのものが形を持った存在です」
彼女の話を聞くだけでも物騒な存在だとわかるのに、目の前に広がっているのは一、十、百、千……
「数が多過ぎないか?」
「……否定はしません」
空にも大地にも、人の形をした泥がびっしりと、おぞましいほどに並んでいた。それらは、ただ黙してそこに立つだけの存在ではなかった。
音は、なかった。
だが確かに、それらは動き始めた。
最初の一体が、不気味にも首をあり得ない角度に捻じ曲げた。その様子が、まるで伝染するかのように、すべての泥人形の顔が俺たちに向けられた。
一斉に彼らは足を踏み出した。
地表の兵士たちは、泥でできたはずの足で、確かな重さを持って、規則正しい音を鳴らす。
空中の兵士たちは、背に翼すら存在しない身体で、滑るような動きで空間を漂い始める。
波のように向かってくる泥の塊に、背筋が粟立つのを感じた。
「……起動しましたね。完全に一体化していますね」
レイの言葉の通りで、その泥人形たちは、もはや大きな生命体のひとつのようにすら見える。
もちろん、それらが生命体でないことはわかる。あまりにも無機質過ぎるからだ。
だがしかし、少なくとも、一つ一つの個体が勝手に動いているわけではなさそうだ。
「旦那様を、無傷のまま守り切れるか……」
今までの旅路の中で、どんなに大きな獣であっても、一度も怯むことなく槍ひとつで打倒してきた。
だからこそ、そんな彼女の声音は、とても珍しく感じられた。
「痛いのは嫌だな」
俺は、双剣を前に構えた。
泥の塊は、泥と言うこともあって、足の進みはとても遅かった。でも、止まる気配はなかった。
一体でも十分に異様だった。
それが、視界を埋め尽くすほどの密度で、四方から押し寄せてくるのだから、世紀の恐怖映像と言ったって過言ではないだろう。
「この非常事態に、罪悪感を煽るのは止めてください」
レイが悪態をついてきた。弱気になっているかと思ったが、その様子なら心配する必要はなさそうだ。
俺みたいに、戦闘に関して初心者ってわけでもないから、要らない心配だったかもな。
神罰兵たちは、地上から半円を描くように前進し、空中の兵はその外側をなぞるように動いていた。
彼らの動きはやがて一点へと収束し、俺たちの立つ場所を中心に向けて包囲が完成していく。
空と地上が別々に動いていながら、全体ではひとつの攻囲陣形となった。
「これ……全方向から来るつもりか?」
その動きには、ただ機械のような精密さがあった。
泥でできているから、怪しい術の類なのはわかるが、俺には仕組みが全く想像が付かない。
「ええ。挟撃の形ですね。おそらく時間差で中央に圧をかけてきます。数だけで終わらせる気はなさそうです」
俺は、ごくりと喉を鳴らす。
無音の静けさが、一瞬だけ重くのしかかる。
次の瞬間、地上の兵士たちが、突如として両腕を持ち上げた。
それと同時に、空中の兵士たちも、ゆっくりと姿勢を傾けた。




