表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
失った記憶、消えない愛。  作者: 言ノ悠
第一章 〜「記憶にない世界と一途な君」〜
1/30

001話

 

 そこは、静寂に沈んでいた。


 音も、光も、熱も──なにもなかった。

 立体の線は失われ、色も奥行きも感じられない。

 時の流れさえ、どこか遠くで凍りついているように思えた。


 姿も形もないこの場所で、それを見つめているのが“自分”だという確信だけが、意識の底に静かに波紋を広げていた。


 だがしかし、そんな自分の名も、記憶も、何ひとつとして語れるものが無いことに気が付く。

 けれど、それでも「俺」という存在だけが、確かにここにあった。


 俺は手を伸ばした。

 ここに”俺”が在るのなら、何かが掴めるような気がしたから。

 でも、伸ばしたはずの腕に重さはなく、形もなく、動きに伴って、周囲をわずかに揺らめかせるだけだった。


 今度は呼吸を試みた。

 だがしかし、肺が動いた感覚はなかった。

 それどころか、吸い込んだはずの空気の感触すら得られなかった。


 そんな状態に、不安はなかった。

 恐怖も、怒りも、感情が色付くことはなかった。


 だがしかし、疑問だけは浮かんだ。

 俺は確かにここにいるのに、周囲は何も変わらないからだ。


 確かに腕があるはずなのに、何も掴むことが出来ない。

 確かに肺があるはずなのに、何も吸い込むことが出来ない。


 じゃあ、俺はなんなんだ?


 俺の意識はここに在るのに、結果が正しく返ってこない。

 その事実は、俺の存在そのものが、間違っているんじゃないかとすら感じられた。


 立ち上がることもできない。

 口を開くこともできない。

 鼻で息を吸うこともできない。

 耳を澄ますこともできなければ、目を凝らすこともできない。


 これじゃあ、存在していないのと同じじゃないか。

 じゃあ、俺のこの意識は、ここに存在しないもの……なのか?


 そんな疑問と疑念に、まるで返事をするかのように、存在していないはずの俺の胸の奥に、大きな沈黙の穴が姿を現した。


 それは、強く、大きく、万物のすべてを吸い込まんとする究極の忘却であった。


 俺はその存在を知っていた。

 だがしかし、記憶には一片の痕跡すらなかった。

 たった一つの道筋ですら、見つけることができなかった。


 それは俺を吸い込もうとはしなかった。まるで、既に吸い込み終わったかのように。


 ……ん?


 そのとき、不意に、手のひらに温もりが宿った。

 それを見ようとしても、俺の視界には捉えることはできなかった。

 まるで、それは違う世界の"できごと"のようだった。


 さらに、俺が今いる世界の外側から、声が聞こえた気がした。


 何も無いこの世界を、少しずつ剥がすように、その温かさが染み渡る。


 だがしかし、その温かさはぱたりと止んだ。

 そしてまた、行ったり来たりする波のように、そっと戻ってくる。


 その温もりが、俺という存在の周縁にまで満ちたとき──

 何ひとつとして応えることのなかった世界が、一斉に色を取り戻しはじめた。


 視覚、聴覚、触覚、嗅覚──そして、口の中の乾いた味覚が、色鮮やかに染め上げた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

小説家になろう 勝手にランキング

ブクマ・ポイント評価お願いしまします!
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ