001話
そこは、静寂に沈んでいた。
音も、光も、熱も──なにもなかった。
立体の線は失われ、色も奥行きも感じられない。
時の流れさえ、どこか遠くで凍りついているように思えた。
姿も形もないこの場所で、それを見つめているのが“自分”だという確信だけが、意識の底に静かに波紋を広げていた。
だがしかし、そんな自分の名も、記憶も、何ひとつとして語れるものが無いことに気が付く。
けれど、それでも「俺」という存在だけが、確かにここにあった。
俺は手を伸ばした。
ここに”俺”が在るのなら、何かが掴めるような気がしたから。
でも、伸ばしたはずの腕に重さはなく、形もなく、動きに伴って、周囲をわずかに揺らめかせるだけだった。
今度は呼吸を試みた。
だがしかし、肺が動いた感覚はなかった。
それどころか、吸い込んだはずの空気の感触すら得られなかった。
そんな状態に、不安はなかった。
恐怖も、怒りも、感情が色付くことはなかった。
だがしかし、疑問だけは浮かんだ。
俺は確かにここにいるのに、周囲は何も変わらないからだ。
確かに腕があるはずなのに、何も掴むことが出来ない。
確かに肺があるはずなのに、何も吸い込むことが出来ない。
じゃあ、俺はなんなんだ?
俺の意識はここに在るのに、結果が正しく返ってこない。
その事実は、俺の存在そのものが、間違っているんじゃないかとすら感じられた。
立ち上がることもできない。
口を開くこともできない。
鼻で息を吸うこともできない。
耳を澄ますこともできなければ、目を凝らすこともできない。
これじゃあ、存在していないのと同じじゃないか。
じゃあ、俺のこの意識は、ここに存在しないもの……なのか?
そんな疑問と疑念に、まるで返事をするかのように、存在していないはずの俺の胸の奥に、大きな沈黙の穴が姿を現した。
それは、強く、大きく、万物のすべてを吸い込まんとする究極の忘却であった。
俺はその存在を知っていた。
だがしかし、記憶には一片の痕跡すらなかった。
たった一つの道筋ですら、見つけることができなかった。
それは俺を吸い込もうとはしなかった。まるで、既に吸い込み終わったかのように。
……ん?
そのとき、不意に、手のひらに温もりが宿った。
それを見ようとしても、俺の視界には捉えることはできなかった。
まるで、それは違う世界の"できごと"のようだった。
さらに、俺が今いる世界の外側から、声が聞こえた気がした。
何も無いこの世界を、少しずつ剥がすように、その温かさが染み渡る。
だがしかし、その温かさはぱたりと止んだ。
そしてまた、行ったり来たりする波のように、そっと戻ってくる。
その温もりが、俺という存在の周縁にまで満ちたとき──
何ひとつとして応えることのなかった世界が、一斉に色を取り戻しはじめた。
視覚、聴覚、触覚、嗅覚──そして、口の中の乾いた味覚が、色鮮やかに染め上げた。