プロローグ
30も半ばの平凡な契約社員の内田奈緒は、結婚の挨拶で母の元を訪れるが、そこで初めて相手が妻子持ちであることを知り破局してしまう。仕事も辞め家から出ない娘を心配した母親は、ホテル王で会長である知人の誕生パーティに無理やり奈緒を連れ出し、奈緒はそこで初めてホテル王の孫息子である櫻井彰人に出会う。この時はまだ、後にこの人物と結婚することになるとは思ってもみなかった。しかもそれが"愛人を囲う為にする偽装結婚”だなんて。
「それじゃぁ今夜、婚姻届けを出しに行きましょう」
数十枚に及ぶ“契約書”を束ねて、トントンと角を揃えながら
櫻井さんはわたしの目を見てニコリと笑う。
「……今日、ですか?」
「ええ、なるべく事は急いた方がいい。貴女モテるでしょう?」
束ねた契約書は、少し後ろに控えていた加藤と呼ばれたスタッフに手渡される。
「パーティの時に貰った名刺とは、どれだけ交流を?」
「一件も、交流してません」
「そう、じゃぁその名刺たちも、僕に預けていただいて構わない?」
「どうするんですか?」
「“僕の妻には手を出さないで”と連絡を」
正直、貰った名刺はどうしようかと困っていたから、捨てといてくれるならありがたい。しかも虫除けまでしてくれるなんて願ったり叶ったり。それから私は別にモテるわけではなくて、ただ……
「今その名刺たちは……」
「今は持ってません。家にあります」
「ですよね、では小山に送らせますので、その時にでも小山に預けるか、役所に行く際に僕に直接、預けてくださってもかまいません」
これまた櫻井さんの少し後ろに控えていた小山と呼ばれたスタッフは、櫻井さんに目配せされて少し頷き、そして私に向き直ると、恭しく頭を垂れた。
「夜はこちらがお迎えに上がります。お時間いただいても大丈夫ですか?」
「はい、何時でも」
「申し訳ない、仕事が終わり次第になるのでお待たせしますが」
「構いません。お待ちしています」
笑顔を作って見せると、櫻井さんも笑顔で応えてくれる。
セレブの笑顔って機械仕掛けのようであまり好きではないんだけど、櫻井さんの笑顔は年の割に屈託がなく嫌味がない。言い方は悪いかもしれないけど、セレブのくせに庶民くさい笑い方をするから……少しホッとする。
「ありがとう。ではまた今夜」
「あ、あの、櫻井さん、もうひとつお聞きしたいことが」
立ち上がりかけた櫻井さんが、また椅子に座り直し
「櫻井さん、ではなく名前でお願いします。貴女も今夜から櫻井になるんですから」と笑ってから、どうぞと、私に話しを促す。
「それでは失礼して……彰人さん」
「はい、なんでしょう」
自然と口角の上がった、優しい笑み。……貴方の方がよほどモテるでしょうね。
「彰人さんの“お相手”の事については、今後お聞きしても?」
櫻井さんは笑みを崩さない。
「もちろん。今夜の道中でお話ししましょう」