バイト先
俺の横にいる先輩は堂々と前を見て、いや、俺を見てついてきていた。ずっと視線を感じている気がする。勘違いだったら、先輩のような方を相手にこんな妄想をしている痛い奴になるけど。視線を感じているだけで、実際に見ているかの確認をする勇気はない。
悶々としている俺と、なにを考えているのかわからない、それでもきらきらと光を浴び続けている先輩との様子はきっと異様なものだろう。
先輩が話しかけてきたときは驚いた。俺のバイト先に行きたいといったときはさらに衝撃を受けた。なんで先輩は俺のバイト先になんて来たいのだろう。なにか裏があるわけでは無いと思うけれど、俺みたいなのに興味を示すのは何か目的があるからなのだろうか。確かに俺は見た目からして弱いけれど。この人にも嫌われないように行動しよう。
俺のバイト先は姉が営んでいる小さなカフェだ。女性に好評なカフェで、景観やメニューにも手を込んでいる。女性が苦手、というよりも話すことが壊滅的な俺は、姉の慈悲で裏方を任せてもらっている。
小さなカフェということもあり、マイナーな客がほとんどである。おかげで同じ高校の生徒などは来たことがない。俺にとってはとてもありがたい仕事場だ。
少しの間沈黙が続いた。俺は琉詩と入れるだけで満足だった。
沈黙を破ったのは琉詩だった。
「あ、えと。俺のバイト先って、姉が経営しているんです。」
俺に気を使ってくれたのだろうか。
琉詩は会話を引っ張り出してくると俺に少しの微笑みと共に話しかけてくれた。
琉詩にとって居づらい空間になっていることに俺は今気づいた。俺は、琉詩と一緒にいて、琉詩の近くでしか得られない需要を脳内に焼き付けることに必死になっていた。
琉詩を思うあまりに琉詩を考えてやれていなかった自分に気づき、俺に向けようと努力するこの微笑に申し訳なくなった。
しかし、琉詩と会話をしたことにより、琉詩への好感が高くなっていた。
「そうなんだ。楽しみだな。」
俺が返答を返すと、照れくさそうにはにかむ姿を見せてくれた。この笑顔の向く先が俺だけではないことに嫉妬ともとれる感情が脳を支配しようとしていた。
「お姉さんってどんな人なの?」
琉詩のこと、琉詩の周りのこと、全てを知り尽くしたいという不純な俺の心とは裏腹に、周りの温度を上げて話す琉詩は、俺の人生で一番の光芒だと改めて感じた。
琉詩から聞く話だと、お姉さんはなかなかに強気な女性のようだった。
俺、ずっとお姉ちゃんに振り回されてて、と話す琉詩は頬に空気を溜めて膨らませていたが、しかし、とても楽しそうだった。いや、俺から見れば、とても愛らしく感じた。柔らかそうな頬に指を這わせたくなる衝動に駆られた。
姉という存在は、一人っ子の俺には想像を容易くすることはできなかったが、琉詩がこんなにも楽しそうに話すのだから、姉という存在もいいものなのかもしれないと思った。
新騎先輩は俺の話全てに相槌を返してくれた。俺の話など興味もないかもしれないが、顔もそらさずに、時には質問を投げかけてくれる先輩に、つい俺は楽しくなって話し続けてしまっていた。
俺ばかりも申し訳ないと思い、先輩にも何か聞こうと探していると、気づかぬうちに目の前には、女性受けのよさそうな可愛らしい容姿をした小さな建物が建っていた。
気づいたらついていた、という初めての経験に俺は数秒時が止まってしまっていた。
俺が立ち止まり、建物を見上げると、先輩も倣って目線を持ち上げた。
「あ、ここです。お姉ちゃんのカフェ。」
この後どうしようかと横に立つ先輩を見上げると、制限のかかるクールな尊顔をまたもや緩く動かしていた。
俺はこの表情だけで顔に熱の溜まり場を作ってしまっていた。
地面とにらめっこをしながら先輩の次の行動を待っていると、先輩は、一言告げ、スクールバックを優しく方にかけてくれた。
「ありがとう。るうちゃん、バイト頑張ってね。じゃあ。」
先輩は、自身の顔の位置より高めに上げた手を俺に向け、大きな歩幅を動かして帰ってしまった。
少し期待していたみたいだった。先輩の背中に心が動揺したのが分かった。初めて話した先輩だったのに、目的もわからないのに、俺は私情を楽しく話してしまうほどにはこの人の雰囲気が気に入っていた。 先輩がもう少し一緒に居てくれるのではないかと疑わなかった数秒間。先輩のことすら見ずに地面と会話をしていたことに後悔が募った。
今までの出来事は俺には初めての経験だったはずなのに、この取り残されたような寂しくなる感覚は何だろう。誰かと帰るという経験のない俺には先輩のような人はまだ早かったのだろうか。それとも、友達のいる人たちは、毎回こんな気持ちを感じながら過ごしているのだろうか。
俺は、背中を数秒見つめていたあと、カランカランという音と共にお姉ちゃんに声をかけた。
「お姉ちゃん。ただい…ま…」
扉を開けた瞬間、思っていたより、近くにお姉ちゃんの姿が待機していた。
「琉詩おかえり。今のはどなた?琉詩のお友達…なの?すごくイケメンさんだったけど。」
カフェの前で立ち止まった俺と先輩を見たお姉ちゃんは、完全に疑いの眼差しを俺に向けていた。信じられないというような顔だった。まだ俺も状況を飲み込み切れていないのだ。
お姉ちゃんは絶対ないというニュアンスでお友達という疑問を俺にかけていたが、俺はそのお友達という単語に目を輝かせた。
「おともだち……。友達ってこんな感じなのかな。」
切り替えようにもずっと名残惜しそうにあの瞬間を頭の中でこだまさせると、その日一日は気持ちが落ち着かないまま過ごすことになった。
あのカフェに入ってもよかった。
新騎は琉詩と別れ、余韻を味わいながら一人歩みを進める。
実際には入りたいという気持ちの方が割合を多く占めていた。
しかし、お邪魔する勇気がなかった。要するにただの意気地なしだ。琉詩に近づきたいと懇願する気持ちを持っていながら、この先に踏み込んでいく心の準備が足りていなかった。
俺は今日最後の琉詩を瞳に、脳内に焼き付け、その場を後にした。そして、おもむろにスマホを取り出すと、「るうちゃんと初めて話した」という項目の隣に「るうちゃんのバイト先 かわいい小さなカフェ」と付け足した。自分で入力したその文字を何度も眺めて感に堪えない姿は自分でも見ていられないほど酷い姿だったと思う。
翌日も先輩と一緒に歩いていた。先輩がまた会いに来てくれたことが嬉しかった。
しかし、かっこよくて人気者の風格を放つ先輩のことを数時間程度では慣れるはずもなく、隣で足を動かすことで精いっぱいだった。
昨日、バイトの後も先輩との時間を思い出していたが、冷静になった後に思ったことがあった。あれ、部活は?
汗すらも輝く髪が重力の抵抗もなく垂れさがる。先ほどまで運動していただろうジャージ姿。それに、 同じバスケ部の颯真はあの日も今日も部活へ向かっていたはずだ。
俺を貫いてくる視線を素知らぬふりすると、控えめに疑問を渡してみることにした。
「あの、新騎先輩?部活って、どうしたんですか…。」
俺の疑問に対する返答は想像を超える速度で返ってきた。
「サボった。」
新騎は一切表情を変えることはなかった。琉詩を見る普段よりも甘く緩んだ表情から。
俺は部活に入っていないのでよくはわからないが、そんなに簡単に休めるものなのだろうか。
「え、大丈夫なんですか…?帰っちゃって…。」
「うん。大丈夫だよ。」
なぜか自信満々な先輩に、俺も大丈夫なのだろうと納得してしまいそうになった。
疑問を振り払うと、俺は向き直って歩き出した。
二人の空間には昨日と同じく沈黙が流れていた。
新騎と歩くことに緊張して体をこわばらせる琉詩。そんな琉詩をいとおしく甘い視線で見守る新騎。どこか釣り合っていないように思える二人だが、新騎はそれすらも愛おしく受け止めていた。
琉詩は気づかないが、確実に二人の後ろ姿には愛が満ちていた。今はまだ新騎の一方通行の愛だった。