初めて話した
放課後はいつもと変わらず、バスケに時間を割いていた。
バスケットボールが床と反発している音が体育館中に響いている。
準備運動が終わったあたりで俺は壁にもたれかかり、休憩を取ろうとしていた。
「黒木先輩。お水どうぞ。今日はとても暑いので、お水こまめにとってくださいね。」
体育館に響く太い声とは対照的に頭に響く高い声が新騎に話しかけてきた。
「うん。ありがとう。」
俺はお礼の言葉と交換で水筒を受け取った。水筒を渡すという仕事を終えた後も動こうとはしない女子マネに疑問を持ち始めようとしていた瞬間だった。
「あ、琉詩。」
俺は後輩のその一言を聞き逃さなかった。それを知ってからというもの何度も頭の中で反芻させていた名前だ。
小柄な後ろ姿が校門に向かって歩いていくのをしっかりと瞳に抑えた。少し癖のある髪が風に靡いて愛くるしく揺れていた。
「颯真、俺帰るわ。蓮に言っといてくれ。」
「えぇっ!帰るんすかっ!部活中に帰るってありなんすかっ!」
俺と同様にサボっていた颯真に一言告げた後、目を見開いて叫んでいる後輩と女子マネを置いて、スクールバックを持ち、ジャージのまま飛び出した。
蓮というのは俺の中学からの友達だ。バスケ部に誘ってきたのもこいつだった。こいつがいるものだから、今までやめられないでいる。本気で取り組む友人を前に辞めるのも悪いという理由もある。
新騎の後ろ姿をもの足りない表情で見つめる少女。
颯真と琉詩と同じクラスのバスケ部の女子マネだ。新騎の背中を消えるまで見つめる眼差し。それの意味を知っている人間は少女の背後で同じように見つめている。
背後からの足音に肩が持ち上がった。何かを追いかけているのか、時間に迫られているのか。地面を踏みしめるように音を立てていた。
後ろからの足音には毎度緊張が走る。自分の隣を誰かが通り過ぎる瞬間は体に力が入ってしまうものだ。とはいえ、足音が自分に関係あったことはない。
たまに颯真が声をかけてくれる時は、自分に向けられているという事実に、いつも緊張が緩く抜けていく感覚になる。
俯きがちに過ぎ去る影を待っていた。しかし、その足音は琉詩の背後に近づくにつれてテンポを落としていき、ついには琉詩の背後で鳴りやんだ。
「琉詩君、だよね。」
背後から、というより上から、聞き覚えのない声が降ってきた。俺の名前のはずなのに知っている声ではないから、少し身構えた。
自分の名前に反射的に振り向くと、顔の整った先輩だと思われる人が自身を、汗で濡れた髪でさらに輝かせた状態にして俺を見下ろしていた。見ただけで俺とは違う人種だと理解した。人気かつクールという言葉を具現化したかのような人だと感じた。制限のかかっている表情が俺を見て唇を緩く持ち上げた。
瞬間目が合うが、いたたまれなくなり目をそらして会釈を返した。
「琉詩だから、るうちゃんでいい?」
「るう、ちゃん…?」
その一言でクールという雰囲気が少し崩れ落ちていった。低い声から出る可愛らしい発音。
「俺、黒木新騎っていいます。この前颯真の隣でるうちゃんの笑顔くらった先輩。今日一緒帰ってもいいかな。」
「え、がお…?」
低い声とは相対的な明るい口調なのに、なぜか緊張が伝わってくる話し方だった。
返答など待っていないというような疑問形。確実に一緒に帰る気である真剣な顔だった。
俺は昔からこんな感じの真剣な表情に弱かった。真剣な人を否定することなどできなかった。たとえ自分が真剣な時に笑われたことがあったとしても、自分が嘲笑する側には到底なれなかった。自分が否定できないのは自分も否定してほしくないと思っているからだろうか。自分が嫌なことは相手にするなとはよく言われたものだ。
目の前で俺と目線を合わせようとのぞき込んでくるこの人から逃れるように視線をずらすが、俺はこの人に見覚えがあることに気が付いた。
数日前、シフトに合わせた時間で下校をしていると、昇降口と校門との間に見える体育館から俺を呼ぶ声が聞こえた。振りかえると、顔面にヒマワリを咲かせた颯真がこちらに手を振っていた。颯真はいつも俺のことを見つけると声をかけてくる。どこか他人行儀な友人よりか格段と良いものだ。
青春を過ごしている颯真、もといバスケ部は外を眺めているという画すらもきらきらと輝いていた。そして、その時に颯真の隣にいた、立ち姿ですら存在感を放っていたのが目の前で自慢のスタイルを見せつけているこの人、黒木新騎先輩だった。
ユリみたいな人だと思った。高貴で美しく、人を惹きつける。何もしていなくても周りには常に人が集まる。俺とは正反対な容姿が眩しかった。
あの時は先輩の顔に視点を合わせることはできなかったが、立ち姿や雰囲気だけで物語る威力があった。
しかし、それが目の前に現れると、思っていた数十倍の迫力がある。目がぼやけて、体が後ろへ引っ張られる気分になった。肌が逆立つ感覚が小鼻から始まり、つま先まで巡っていく。
俺は迫力に怯えながらも、ふと頭に浮かんだ疑問を脳内で複雑に動き回らせていた。この人はなぜ俺に話しかけてきたのだろう。俺に話しかけてきた先輩なんて初めてかもしれない。疑問を感じながらも、話しかけてくれたことで感じた少しの喜びが思考を遮っていた。
俺が固まっているのをよそにして、先輩は一人で話にひと段落をつけると俺の肩掛けのスクールバックを奪い取り歩き出した。
とんとんと進んでいく一方通行の会話に、俺は頷いて先輩の後をついていくしかなかった。
手ぶらになった腕を前後に動かして、だいぶ早い先輩の後ろ姿に追いつく。
新騎は、自分の歩幅の倍以上を使った足音と共に横に並んだ琉詩を確認すると、ペースを落として、琉詩の歩幅に合わせた。
満足げに緩んだ顔で俯くスミレを見つめた。琉詩の小さくて控えめで可憐な姿がスミレのようだという意味だ。
新騎の整った容貌は、緩みがより魅力を倍増させ、破壊力をカンストさせていた。
顔が見えなくても可愛い。あの日、風と戯れていたふわふわの髪は今日も健在であった。髪の束がそれ ぞれに風を受けている。一本一本をこの指で丁寧に分けて、一生を懸けて数えたい。この髪が色を変えて いく瞬間までも全て見届けたい。
小さな肩が、冬の寒さの中で誰かを待っているかのように持ち上がり、より小さくなっている。
新騎がスクールバックを持っているせいか、居場所をなくした両手はズボンを掴み、シャツのボタンを掴み、時には両手をこすり合わせている。自分のせいだとはわかっていても可愛らしくてずっと見たくなってしまう。
急に現れた年上の存在に不安になっているのだろうということも分かっている。それでも離れたくない俺の我儘に罪悪感が押し寄せ、眉根が下がる。嬉しさとの矛盾が一分一秒止まることなく繰り返された。
琉詩は、ちらちらと俺の様子を確認するために顔を上げるが、俺がずっと見つめていることが分かると、すぐに地面と見つめあってしまう。
会話とはどうするものだっただろうか。普段、友達と話している内容はここにはあっていなよな。声を出せず、横並びの小動物のような琉詩を見つめているだけで虚しくも時間は過ぎていった。
少しの間、沈黙状態で歩いていると、琉詩が顔を少し上げ、唇を開いた。
その動作にも胸が高鳴る。今日の昼間、琉詩達の教室を覗いていた時の光景。それを思い出すと魅力的な花唇がゆっくりと鮮明に思い起こされ、同時に今の光景が刻まれていく。脳内のカメラモードで連写を繰り返した。
「先輩、」
「新騎。」
琉詩に被せるように求められていない返答を返す。
譲れない俺の願望が脊髄から零れ落ちた。
「あ、新騎先輩。」
「うん。どうしたの。」
「俺、バイト先に行くんです。あの、先輩…。あ。新騎先輩はどちらの方向なんですか…。」
先輩といった直後、俺の視線に気づいたのか、言い直してくれた。慌てた姿も健気で可愛い。
俺は、バイト先という言葉に幾度目かの脊髄反射を起こした。
「バイト先までついてっていい?」
琉詩は小さな歩幅で歩く足の動きを止めると、虚を突かれた表情で俺を数秒見つめていた。今までで一 番、顔を見せてくれた数秒だった。夢を見ているようだと思ったが、夢というものはいいところで終わる ものである。
琉詩は目が合っていることを自覚すると、薄く桃色に色づく肌を俺からそらした。
俺は、琉詩から返ってくるだろう答えを待った。俺のどんな問いに琉詩がどんな返答をしようとも、俺が琉詩から手を引く選択肢はないと断言できる。琉詩を見てからというもの、運命や奇跡、などというワードに縋るようになってしまっていた。こんなにも女々しかっただろうか。愛しいものを見つけると性格までも改良が入ってしまうのだろうか。
「俺のバイト先、あ、新騎先輩のような方には面白くないところだと思いますけど…。…でも、新騎先輩が行きたいっていうなら、お、俺は全然大丈夫ですよ。」
目は合うことはないけれど、こちらに向けてくれる顔が可愛い。
なるべく人を傷つけないようにと、言葉を選んで話しているのが分かる。これは、確実に今後誰かに騙される。それか、誰かの正直な意見に傷つけられるのだろう。と俺の予感が言っていた。
言葉を選ぶということは、他人からの言葉に恐れているということだろうか。この小さい姿態は俺が守りたい。ガラスのように割れやすく、風船のように連れていかれそうなこの子の心を。俺は軽くこぶしを握り締めた。
再び小さく動き出す琉詩に、俺は確実にただの笑みではない別の何かを含んだ笑みを表情に出さないようにこらえながらついていった。
新騎は、るうちゃんと呼ぶことにしたこと、そして初めて話した日として「るうちゃんと初めて話した」日をメモ欄に記すことを決意し、後からの楽しみが増えたことに胸を躍らせた。