8>> グリド
グリドはグリドで全然想像もしていなかった事態にずっと驚いていた。
グリドはハーゼン侯爵家の次男として生まれた。兄が一人の二人兄弟だ。
家を継ぐことが決まっていた兄と違ってグリドは婿に行くことが決まっていたので昔から気楽な人生だった。
この国では七十年以上も前に『当主は男であるべし』という考えが禁止となった。婿養子となった男が当主となり、妻の家を乗っ取る事が多々あった為だ。その為に『当主は男』ではなく『当主は長子』優先で考えられるようになった。長子でなくても『直系(血縁者)が当主』である事が法律で決められた為に、嫁入りや婿入りな時点でその家の継承権は無いものとされた。だからグリドは二番目に生まれた時点で重い責任からは無縁の立場だった。
グリドはそれを喜んでいた。
両親は自分を可愛がってくれる。
兄も弟の自分を可愛がってくれる。
そんな家族が自分を変な家に婿に出す訳がないと考えていたグリドの思い通りに、グリドの婿入り先は侯爵家に決まった。
グリドの将来が安泰になった瞬間だった。
婚約者に決まったアリーチェに不満はなかった。婿に貰ってくれるのだ、不満なんて持つ訳がなかった。
むしろ勉強熱心で真面目なアリーチェが仕事の全部をやってくれるのなら自分はどうやって人生を楽しもうかと考えていた程だった。
そんなグリドが婚約者の妹であるルナリアを意識し始めたのは、やはり婚約者とのお茶会の席でだった……
淑女の笑みを浮かべて世間話で自分と親交を深めようとするアリーチェに対して、ルナリアは常に本心から笑っていて可愛く元気で明るかった。面白い事が好きなグリドとはアリーチェよりもルナリアの方が話が合った。
親交は……やはり話の合った者同士の方が深まりやすい。
アリーチェが可愛くない訳では決してない。だが、ルナリアの笑顔がグリドを楽しい気持ちにさせた。
コロコロと耳に馴染むルナリアの声がグリドの心を刺激した。
アリーチェの事を『親が決めただけの婚約者』だと認識していたグリドの心には、『自分自身と向き合ってくれている(様な)ルナリア』は簡単に入り込んでしまった。
グリドは『恋』を、してしまったのだ。
婚約者の妹に…………
そしてその気持ちを後押ししてくれるかの様な時間がグリドにはあった。
アリーチェとのお茶会の席。
必ず妹のルナリアは居た。
最初はグリドも『いつまでいるのかな?』と思ったが、その内ルナリアが居ると思うと少し嬉しくなった、そして……
「アリーチェ、勉強の時間よ」
「はい、お母様。
それではグリド様。今日はありがとうございました。楽しい時間でしたわ」
顔を出した母親に促されてアリーチェは席を立つ。お茶の席で婚約者の妹と二人で残されたグリドも席を立とうとしたが、そんなグリドを侯爵夫人が微笑みながら引き止めた。
「婚約者をすぐに帰したとなれば、ハーゼン侯爵家の方々を不快にさせてしまうかもしれませんわね。
ルナリア、お姉様の代わりにグリドくんのお相手をして差し上げて。
グリドくんも、嫌でなければルナリアとお喋りしてあげて欲しいのだけれど……いいかしら?」
それはグリドからしても嬉しい提案だった。
婚約者の親がこう言っているのだから拒否するのもおかしいだろうと、グリドはルナリアとの時間を楽しんだ。
母親がずっとその場に居たので逢瀬にもならない。
『義兄となる男』と『義妹になる女』が仲良くしてもおかしくないだろうという気持ちを免罪符に、グリドとルナリアはアリーチェのいないところで親睦を深めた。
そして……当然のように気持ちを我慢できずに恋仲になった。
◇ ◇ ◇
いけないことだとは分かってはいたが気持ちを抑えられなかった。
むしろ……『いけないこと』だったからこそ、恋心は燃え上がったのかもしれない……
そんなグリドに悲しそうなルナリアの声が、囁くように耳から頭に浸透する……
「お姉様なんて嫌い……」
あぁやっぱり……
そうグリドは思った。
ルナリアとアリーチェは一緒に居ても義務的な会話しかしていない。大人しいアリーチェはともかく、感情豊かなルナリアがわざとアリーチェと目が合わないようにしていることから、この姉妹の間には何かあるのだろうとグリドも思っていた。
違和感を感じていた事に答えを貰ってグリドはすんなり納得した。
そしてその言葉を受けてグリドのアリーチェへのイメージが変わった。
──アリーチェは妹に嫌われる程に嫌な女だったんだな──
──そんな女が婚約者なんて嫌だな──
──それならルナリアの方が良いに決まってる……──
『許されない関係』に『でもアリーチェに問題がある』という免罪符が付いた瞬間だった。
アリーチェを嫌うルナリアの話を聞いてアリーチェに不満を持つようになったグリドは、自分の婚約者がルナリアであればいいのにと思った。
そこに『当主の仕事』や『義務』などという考えは無い。
ただ『婚約者がルナリアだったらいいのに』としかグリドは考えていなかった。
そしてそんなグリドの考えをまた後押ししてくれる存在があった。
婚約者の母親だ。
「こんなに愛し合っている二人を引き裂くなんて可哀想よ。
幸いルナリアにはまだ婚約者がいないんだもの、グリドくんをルナリアの婚約者にすればいいのよ。
そうすれば全てが丸く収まるわ。
グリドくんの婚約者となったルナリアが跡継ぎとなり、この家を継げばいいのよ!
婚約者が姉から妹に代わるだけだもの、大した問題じゃないわ!」
サバサのその言葉はグリドを勇気付けたし、グリドの両親を説得するのにとても有益なものとなった。
──令嬢たちの母親がそう言うのだから、エルカダ侯爵家では話がまとまっているのだろう。グリドが婿に入れるのならばそれでいい──と、グリドの父はその提案を受け入れた。
グリドは歓喜した。
ルナリアと結婚できる!!
好きな女と結婚できる!!!
舞い上がっていたグリドにはその後聞かされた「アリーチェは家を出た」という話は謎でしかなかった。
「何故アリーチェは家を出てしまったんだ? そんなにすぐに嫁ぎ先が見つかったのか?」
そんな脳天気な事しか考えられなかったグリドには、その後の日々は青天の霹靂であった。
常に幸せそうに微笑んでいたルナリアは常に疲れた表情をするようになった。
何故か義母となる侯爵夫人とは会えなくなった。
義父となる侯爵閣下は目の下に隈を作っていた。
そして、
グリドにも仕事がたくさん回ってきた。
◇ ◇ ◇
あれ?
婿入りってもっと楽じゃなかったのか?
そうグリドは思ったが、言える雰囲気ではなかった。
ルナリアは常に疲れていた。
話を聞いたら夜中まで勉強しているという。何故そんな事をと聞くと、「自分が次期当主だからしなきゃいけないの」、と言われた。
そう言えばそうだな、とグリドは思った。
ロッチェンからも、「アリーチェが時間を掛けて覚えてきた事をルナリアは今から覚えなければいけないのだ」、と言われればそうなのかと思った。
そして、
「アリーチェが長年かけて覚えてきた事をルナリアは今から覚えなければならない。だからグリドくん。君もルナリアを支えるために頑張ってくれ」
そう言われてしまった……
そう言われてグリドが思った事は……
──なんでアリーチェは出て行ってしまったんだよ……──
だった。
アリーチェが居たらこんな大変なことなんてしなくていいのに……
そんなグリドの雰囲気が伝わってしまったのか、ルナリアがグリドを見る目に不信感が浮かぶようになった……
ルナリアは既に愛や恋だけを考えていられる立場ではなくなった。
現実を知ったルナリアが動くのは早かった。
グリドは婚姻の際に普通では出されないような契約書にもサインさせられた。
浮気すれば即離婚。家族を邪険にしたら即離婚。冷たくしたら即離婚。脅し暴力即離婚。百日連絡無ければ即離婚などなど、細かい事から話題に上げる事すら失礼だろうと言いたくなるような内容の事まであった。
そしてその全てで猶予もなく即離婚な上に多額の慰謝料を払う事と書かれていた。
率直に、酷くないか? と思ったが、サインしなければそこで婚約は解消だと言われてしまえば、グリドにはサインするしかなかった。
それを愚痴った兄には当然のように、
「お前が嫌がっている意味が分からん。絶対にしないと決まっているのだから、逆に命をかける契約をしても困らないだろう?」
と首を傾げられた。グリドは自分がおかしいのかと悩んだ。
しかしそんな悩みなんか霞むぐらいの事になった。
噂の的になった次男をハーゼン侯爵当主は切ったのだ。
グリドの父は息子の婚約者の変更はちゃんと話し合われて円満に決まったものだと思っていた。
しかし蓋を開けてみれば婚約者の変更後に元婚約者が実家を出た上に他家の養子になった。
これで、『アリーチェの変化は婚約者の変更が理由ではない』とは言えないだろう。当然、その原因となった元婚約者の親にも噂の目は向けられる。
ハーゼン侯爵家は『婚約者の妹に手を出す男を育てた家』という目で見られるようになった。
面白おかしく「ハーゼン侯爵家の紳士教育は奇抜ですなぁ(笑)」と噂される事をグリドの父は我慢できずに、『あれは息子が勝手にやった事。そんな事をする子はうちの子ではありません!』と世間へと縁切り宣言をしたのだ。
これにはさすがのグリドも慌てた。
ルナリアに離婚されれば自分は帰る家すらない“平民”となる上に、慰謝料を肩代わりしてくれる人も居ないのだから当然慰謝料が払えず、最悪エルカダ侯爵家の手により強制労働所送りにされるかもしれないのだ。
苦し紛れにグリドはルナリアに、離婚したら君も困るだろう?──子供が生まれなければ侯爵家が困るだろう?──と言ったのだが、ルナリアは疲れた顔をして、
「そうなったらそうなったで……いいかもしれないね……
わたくしが修道院に入れば噂もきっと消えるもの……親戚の誰か……そういえばおばさまの孫がいたような……」
そんな事をルナリアが考えだしたので、慌てたのはグリドの方だった。
◇ ◇ ◇
ルナリアがそれだけ疲れているのだと知ったグリドは、自分の将来の為にも要らない考えを捨てて頑張る事を決めた。
アリーチェが帰ってきてくれたら早いと思ったが、エルカダ侯爵家ではいつの間にか『姉』の話はタブーのような扱いになっていた……
書類を提出するだけの婚姻を済ませたグリドはエルカダ侯爵家の一員となり、本格的に侯爵家の仕事を手伝うことになる。
子供に爵位を譲ったら引退して旅行にでも……なんて考えていたロッチェンを前線で酷使しながら、ルナリアとグリドも頑張って醜聞まみれのエルカダ侯爵を維持した。
そしてそんな中でも嬉しいことは起こる。
ルナリアが妊娠したのだ。
盛大に喜んだグリドはルナリアの為に仕事を頑張った。当主代理は義父が担っていたが、ルナリアが復帰した時の為にグリドも義父から積極的に助言を受けた。そんなグリドを友人がからかったりもしたが、子供が生まれると考えただけで周りからの嫌味や嘲笑も気にならなかった。
そして長男が生まれた。
グリドにとっては男でも女でもどちらでも良かったのだが、ロッチェンやルナリアは男児であった事に思いの外安堵している様だった。
それを不思議に思ったグリドだったが、そんな事よりも重大な事に気付いてしまった。
──跡取りが生まれたということは……っ、
私は『用済み』となるのではないか?!──
自分が『種馬』であると理解していたグリドは、その危険性に気付いて戦いた。
婚約者変更後からのばたばたでルナリアと自分の関係は『最愛の人』から『協力者』のようなものへと変わってしまっている気がしていた。愛しているのにどこか隙間がある。婚約者になったばかりの頃やその前の“結ばれざる関係”だった時にはあった、燃えるような渇きにも似た欲求も感じなくなっていた。自分にもだが、ルナリアからの態度や視線からもそれが分かった。
だからこそ、グリドは自分の立場の危うさをヒシヒシと感じた。
自分への恋慕が無くなってしまったルナリアが一言、
「もう夫は要らないわ」
と言えばグリドは即平民だった。
そんな事は絶対に回避したいグリドは頑張った。
良き夫、良き父親、頼りになる男手、で在るべく頑張った。
それは甘やかされて楽して生きる事しか考えていなかったグリドには精神的にもつらい事だったが、後がないと考えていたグリドにはやらねばならぬ事だった。
そんな日々を送る中で、ルナリアの第二子の妊娠が発覚した。
グリドは更に頑張ったが、ルナリアはどこか暗く、気持ちが不安定になりがちだった。
そんなルナリアを側で支えたグリドは遂に、二人目の子供を抱くことができた。
それは本当に可愛らしい女の子だった。
「あぁ、リア。本当にありがとう!
私に息子のみならず、こんなに可愛い娘まで授けてくれるなんてっ!!
あぁ、リア。私の最愛の人。
愛しているよ。
私の言葉じゃ信憑性がないかもしれないけどね」
そんな戯けた事を言ったグリドの言葉を、ルナリアは聞いてはいない様だった。
「リア……? ルナリア?」
グリドの呼びかけにルナリアは空を見つめて怖がるように自分の体を抱きしめて言った。
「あぁ……だめよ……だめなのよ……
娘は……次女はだめなのよ…………」
「ルナリア?」
グリドにはルナリアが何を言い出したのか分からなかった。
◇ ◇ ◇
「次女じゃ、だめなの……っ、
わたくし、わたくしはっ、育てられない……っ!!」
そう言って泣き出してしまったルナリアにグリドは困惑して焦った。
胸に抱いている産まれたばかりの娘は大人しく寝ている。その子を労るように大切に抱きながら、グリドはルナリアを宥め寄り添おうとワタワタした。
「な、何がダメなんだ?
それにこの子は“次女”じゃないよ?」
「次女よ! 二番目に生まれたんだもの……っ」
「でも一人目は男の子だったんだから、この子は“長女”だよ?」
「長女…………」
「そう。一人目の女の子なんだから、長女だよ?」
「でも……」
何かに怯えて苦しそうに涙を流すルナリアにグリドはオタオタすることしかできなかった。それでも、『自分の伴侶』を守らなければと足りない知識で考えを巡らせた。
「リア、ルナリア。
大丈夫だから、安心して。ルナリアは一人じゃないだろ? 私が居るよ。頼りないけど、ルナリアを一人にしたりしないから。安心して。
不安なら人を呼ぼう!
お義父様を呼ぶ? それともうちの母様がいいかな? あ、兄様! いや、兄様じゃ駄目か、お義姉様(兄の嫁)の方が話が合うな、お義姉様にしよう!
ルナリアは今ちょっと不安になってるだけだよ。出産したばかりだもの。疲れが溜まっちゃってるんだよ。だから変なこと考えちゃうんだ。今だけだよ。だから気にしなくていい。大丈夫だから。ね?
いや、お前が言っても説得力ないよ! ってなるか! ゴメンね!
すぐにお義姉様に来てもらえるように連絡するから! 今はルナリアは安静にするんだよ?
あ、子持ちのメイドたちに側に居てもらおうか! そうだな! そうしょう!
誰か! 子持ちの女性たちを集めてくれる? ルナリアの側に居てもらって!」
そう声を上げたグリドの声に反応したのか、抱かれていた娘がワアアンと大きな声で泣き始めた。
「あ! ごめん! ごめんね!!
父様が悪かったね! あぁっ!?
どうしよう……っ?!」
娘を抱きながら慌てるグリドにルナリアは最初唖然とした。そして……なんだかグリドのその姿が面白くて、涙を浮かべながら少し笑ってしまった。
「ほら……私に抱かせて」
そう言って微笑みながらグリドに両手を差し出すルナリアに、グリドの方も困ったように、それでも笑いながら娘を母親に差し出した。
「…………かわいい」
母親に抱かれた途端に泣き止んだ娘の顔を見つめながら、ルナリアは呟いた。
その姿をグリドは微笑ましく見守る。
「凄く可愛いよ……
ありがとう、ルナリア」
グリドの言葉にルナリアは眉尻を下げながら笑った。
ルナリアの恐怖は、母親に似ている自分が『母親のようになる事』だった。
鏡を見ればどんどんと母親に似てくる自分にルナリアは恐怖していた。
何も知らずに母に依存していた自分が、もしかしたらその依存する気持ちすらも母親から植え付けられた感情だったかもしれないと思うと、底知れない恐怖がルナリアを襲った。
母親と自分は違うと思っていても、でももしかしたら、と考えてしまう。自分はあれだけあの母の側にいたのだから、あんなにお母様が好きだったんだから……と……
第二子を妊娠したと知った時、この子も男児であればと何度も願った。“次女”では駄目だと何度も思った。
次女だと自分も母親のようになるかもしれないから……
しかしグリドは言う。
『一人じゃない』と『誰かに頼れ』と。
そしてグリドが言うように、ルナリアには助けを求めれば手を差し伸べてくれるだろう人たちの顔が思い浮かぶ。
その事が、『自分は母親とは違うんだ』と思わせてくれる……
ルナリアの不安が徐々に薄れていく気がした……
「……信じて……るから……」
娘を見ながら溢れるように囁かれたルナリアの言葉は小さかったが、それでもちゃんとグリドの耳には届いた。
「頼りなさには自信があるが!
家族を守る自信だけは山より高いぞ!!
私は絶対にルナリアと子供たちを裏切らないと誓う!! いや、“裏切らない!”という事だけが、私が命を懸けてもやり遂げられる事だと言っても過言ではないかもしれない!! うん! そうだ!! だから、任せてくれ!!!」
ドンッと自分の胸を叩いて胸を張るグリドの言葉に、ルナリアは笑った。
グリドに呼ばれてやって来た子持ちのメイドたちにグリドが部屋から追い出されるまで、ルナリアは娘を抱きしめながら笑った。
それは久しぶりに見せるルナリアの心からの笑顔だった。
…………部屋の外からそのやり取りを聞いていたロッチェンはグリドが部屋から出てくる前に静かにその場を離れた。
自分がちゃんと娘たちと向き合わなかった所為で、ルナリアは全てを背負うことになった。その心労はどれほどのものだろう……
ルナリアは甘やかされて、真綿の中で育ってきた。そんなルナリアが、突然世界が変わり、棘だけに囲まれた世界に放り込まれる事になったのだ。子供の頃からそこで育った者よりも、酷く苦しくツラい思いをする事となっただろう……
ゆっくり慣れる時間すら与えてやることもできなかった。
全ては父親であるロッチェンの所為で……
母親の所為にはしない。
サバサの横で、何も知ろうとはせず、何も関わろうともせずに、馬鹿のように平和な世界だと思い込んでいた自分が全て悪いのだとロッチェンは理解していた。
アリーチェはそんな自分の元から逃げ出してしまった。
もう二度と挽回の機会はない。
ロッチェンがアリーチェの為にする事を許されているのは、謝罪し続け、心の中で幸せを願い、二度と迷惑をかけないようにして、このエルカダ侯爵家を維持し領民を守り、アリーチェがこちらを見た時に何ら心を乱さないで気にしなくていいようにする事だけだった。
そして……それとは例外的に、読まれないと分かっている手紙を出すことを、ムルダから言われて、続けている。
アリーチェが謝罪を受け取らない事、と、ロッチェンが謝罪し続ける事、は別の事だからだ。
アリーチェに『自分の父親は自分に謝罪を続けている』という認識を持ってもらうことに意味があるのだとムルダに言われたロッチェンは、唯一許された繋がりなのだと感謝して、決して読まれることのない手紙を書き続けている。
ロッチェンがアリーチェにできることはもうそんなことしかないのだ。
だが、次女は、ルナリアには、やろうと思うことは何でもできる。
ロッチェンはルナリアが必要としなくても、ルナリアの為に何でもしようと心に決めた。
『当主補佐』『当主代理』の仕事はロッチェンがルナリアにできる最大で唯一の贖罪であった。しかしそれはアリーチェにやらせようとしていた事を自分がするだけの事だ。アリーチェに人生を懸けてさせようとしていた事をするだけで、それを『謝罪』とする……そんな事しかできない自分を……ロッチェンは恥じた。
だが逃げ出すことは許されない。自分が死んだところで残されたルナリアたちが苦しむだけだ。死んでも誰も喜ばない。
もどかしい気持ちを抱えながら、ロッチェンは生きて自分のできることをするしかないのだと自分に言い聞かせた。
ルナリアが望むなら、この命尽きるまで、この家に尽くそう。
堕落しては困るが、ルナリアやその子供たちが笑って暮らせる為ならば、自分はこの人生を仕事だけに費やそう。
許されることは願わない……
ただ、あの子達の幸せの為に……
ロッチェンはそう心に誓った。
……そして……──
※【アリーチェはグリドのことむしろ苦手でした(悪意は無いけどアホなんで)。なのでルナリアの方に行って、ちょっとホッとしてましたね。アリーチェのブチギレポイントは『親の裏切り』です。なのでぶっちゃけアリーチェ的にはグリドはアウトオブ眼中、意識外でした(-_-)】