90 泉の力
しばらく歩いてようやく見えてきた。あれが羨望の泉か。
想像よりも狭い泉だ。木々に囲まれた場所に穴が空いていて水が溜まっている。
ん、泉の傍に誰か居る。例の危険人物……じゃなさそうだ。
大きな革袋が地面に置いてあることからおそらくあれが……。
「お父様!」
「モデン様!」
やっぱりそうか。こっちに振り返ったモデンさんにミレイユとバンライが駆け寄る。
ミレイユに似ているのは金の髪色くらいだな。口周りにヒゲが生えていて、髪は短くて、うんまあオジサンって感じだ。もし私にパパがいたら、顔はどんな感じなんだろう。やっぱりヒゲは生えているのかな。……私にもいつか生える?
「ミレイユにバンライか。よくこの場所が分かったな」
「目撃情報がありまして。……お父様はこんなところで何を」
「おっと、呑気に話をしている場合ではなかった。ミレイユ、喜びなさい。もうすぐターニヤに会えるぞ」
「……お父様、目をお覚ましになって。お母様にはもう、会えないのですよ」
「いいや会える! 生き返る! この羨望の泉の力によって!」
モデンさんは大きな革袋の中に入っていたものを引っ張り出す。
白く、綺麗な……人間の骨。この骨、まさか。
「今からターニヤの遺骨をこの泉に落とす」
「……お、お母様の遺骨?」
「まさか、墓を荒らしたんですか?」
革袋の中に入っていたものは遺骨だったのか。しかも自分の奥さんの。
私の推測は正しかった。モデンさんは羨望の泉の効果に期待して奥さんを取り戻そうとしている。泉に入れるのが奥さんの骨だったのは予想外だけど、やろうとしていることは変わらない。でもダメだ。失敗する。奥さんの骨を入れたとしても、死者が生者になって出て来るわけがない。
「お、お母様のお墓を荒らしましたの? なぜそのようなことを」
「この泉は物を入れると別の何かになって返って来る。さあ泉よ! ターニヤを蘇らせるのだ!」
モデンさんが奥さんの遺骨を泉に投げ込んだ。
誰も、止められなかった。
しばらくは何も起きなかった。
誰1人、口を開かなかった。
ずっと待っていると泉から何かが飛び出て来る。
ボスッと地面に飛んで来たのは赤い液体の入った透明な小瓶。
液体は赤く鮮やかでキラキラ輝いている。
うーん、どこかで見たことあるような気がするなあ。どこで見たんだっけ。
「……エリクサー」
それだ! タキガワさんの呟きで思い出せた。
確かゴマにカオスが瀕死にされた時、タキガワさんがそのエリクサーってやつで完治させたんだ。どんな怪我も一瞬で治る凄い薬。
「……な……なぜ」
モデンさんが地面に膝をついて項垂れる。
エリクサーは凄い。凄いけど、モデンさんにとっては不要な物だ。話によれば石がよく出るらしいから、役立つ物なだけ石よりはマシか。まあ、モデンさんにはどんな道具でも関係ないのか。
生きた奥さんが出て来ると本気で思っていただけに落ち込みようが酷い。
空気が重い。ミレイユの視線が厳しい。
「ターニヤ……ターニヤはどこだ?」
「お父様、いい加減に目を覚ましてください。もうお母様はどこにも居ないのです。直接声を聞くことも、姿を見ることも出来ない。でも、思い出は残っています。私達は、残った思い出と共に生きなければ、天国に居るお母様が悲しみます。さあ、私達と共に帰りましょう」
「……意味が無いのだ。ターニヤが居なければ、帰っても、意味が無い」
「お、お父様……」
ダメだ、モデンさんは奥さんに固執しすぎている。
深い愛を持ちすぎて、死の悲しみから立ち直れないでいる。
たぶん元気を出そうとすら思っていない。
これは逃げだ。現実逃避だ。私も、気持ちは分かる。
「俺はターニヤが居るからあの家に婿入りしたし、精一杯仕事も頑張れた。俺にとってターニヤこそが動力源なのだ。彼女が居なければ俺は、生きて、いけない」
「大事なものは……お母様だけなのですか?」
「そうだ」
「……そう、ですか」
正直、甘かった。話し合えば良い方向にいくと思っていた。
モデンさんの拗らせぶりは想像以上だった。
普通に話すだけじゃどうにもならない。
「バニア、危険人物は居ないようですし戻りましょう」
「え、でも」
「やはり、分かり合えないのです。本音で話しても、誰とでも分かり合えるわけではないのでしょう。少なくとも今は、まだ」
そうか……まだ、か。
ミレイユは諦めないんだね。モデンさんと分かり合うことを。
以前のような家族に戻るのは今じゃなくても、今日じゃなくてもいい。
1年先でも、10年先でも、いつか一緒に暮らせると信じ続けるんだね。
「元々ここにはお父様の命を守るためにやって来たのです。説得は後回しにしましょう。お父様、実は付近に人殺しが彷徨いているのです。ここに留まっていては危険ですから、一旦フォレスディアに帰りましょう。後悔も絶望も、お母様の遺骨を持ち出した弁明も、安全な場所でしてください」
「ターニヤの遺骨……そうだ、遺骨を回収しないと。あれだけは、ターニヤが俺に残したあれだけは絶対に」
「まずい! その人を止めて!」
タキガワさんの叫びにミレイユとバンライが反応してモデンさんを押さえる。
「ど、どうしてですかタキガワさん! とりあえず押さえましたけど!」
「羨望の泉、ゲームの説明には確かこう書かれていた。泉の中に物を入れると、入れた物の代わりに何かが出て来る。おそらく1度泉に入れた物が分解されて新しい物が創造される。遺骨はもう存在しない。そして遺骨を探そうと泉に入ったりすれば……」
先の言葉を待たなくても分かる。遺骨がエリクサーになったように、モデンさんも泉に入ったら何かに変わってしまう。人間でさえ、別の何かに変化してしまう。普通は信じられないけどね。この世界は『げえむ』じゃないけど似ているんだ。長く『げえむ』の中に居たタキガワさんの言葉には説得力がある。羨望の泉に1番詳しいのはタキガワさんだし指示に従った方がいい。
「うう、ターニヤ、ターニヤ……邪魔するなあ!」
「お父様お止まりになって!」
「止まってくださいモデン様!」
ふ、2人がかりで押さえられているのに少しずつ泉へと進んでいる。
このまま2人に任せっきりじゃダメだ。私も手伝わないと。
前に進もうとしているモデンさんに近付き、服の襟を掴んで後ろに放り投げた。
い、いや、投げるつもりはなかったんだよ。女の子とはいえ2人がかりで止められないなら私も力を入れないとって思っただけだ。まさかあっさりと力で勝てちゃうとは思っていなかったんだ。
「あ、ありがとうございますバニア。でも何も投げなくてもよかったのに」
「バニアちゃん、とっても力持ちなんだね」
「は、ははは」
ポチャン、と音がした。泉には波紋が広がっている。全員の視線が泉に集まる。
でも誰だ? モデンさんじゃない、いったい誰が泉に何を投げ込んだんの?
少し待つと泉から拳くらい大きな石が飛び出て、それを誰かが手でキャッチした。
黒いコートを着た黒髪の男の人だ。つまらなそうな顔で石を眺めている。
「なんだまーた石ころか。そら!」
「うばっ!?」
え、急に石を投げ……バンライの顔面……吹っ飛び。
顔面に石が当たってバンライがぶっ飛んだ!? こ、攻撃!? 急に!?
「お、ラッキー。クリティカルヒット。うっわ顔面凹んでね? 痛そ」
なんだこの人……。まるで、遊んでいるみたい。