海を守る草花
日露戦争後、朝鮮半島との国境警備を専門に設立された沿岸警備隊は数年で海上保安庁へと格上げされた。海軍の幾つもの業務を請け負う事で全国規模に発展した海上保安庁は、担当海域の急激な拡大による自らの足となる巡視船不足に悩まされていた。
この巡視船不足の解消する為の建造計画は1915年頃から始まっていたが、民間の造船所は戦争景気でどこも空いていなかった。それでも空きが出来た際にすぐさま建造可能で有るようにと、巡視船の設計が進められた。
海上保安庁の艦政本部である装備技術部に対して要求された巡視船の性能は、
・北方海域から南方海域までの幅広い海域での活動が可能
・長期に渡る運用を前提とする事
・速力は商船を超える事
・多用途に扱える事
・有事の際、軍艦として活動が可能である事
・他国(特にロシア帝国)の警備艦艇と交渉を行うことも考慮する事
・低予算での建造が可能である事
の以上であった。
この性能を持つ巡視船を建造して揃える事は、海上保安庁に割り当てられている予算では不可能であった。この性能はかなりの無茶振りで、もしもこの概要通りの巡視船を建造すれば大型駆逐艦程の予算が掛かる。
何よりも議会と大蔵省が許さない。予算は有限であり、(一部を除き)無駄使いを許容出来る程の豊かさは無いのだから。
その為、巡視船の設計と平行して装備技術部が先ず取り掛かったのは、予算を抑える国内外の造船技法や技術の調査、研究であった。海外での調査は、欧州が戦時下である事と費用の問題から米国で短い期間行われたが、帰国した派遣組からもたらされた情報と技術はかなりの衝撃を与えた。
それはマスプロとアーク溶接であった。マスプロは初期投資が一般よりも掛かるだけである事から導入に対して前向きであったが、それを実現させるには当時の日本では不足していた高性能工作機器が大量に必要であり、その為マスプロの導入に足踏みをせざるえなかった。アーク溶接は未知の技術であった事や専用機材の必要から導入には消極的意見が多く占めていたが、技術習熟の為にも導入すべしとの声が上がった事で、初めは上部構造を中心に使用する事で導入が決定された。
尚、マスプロとアーク溶接の問題は、第一次世界大戦後のドイツから戦後賠償として人材や工作機器、機材を貰う(分捕る)事で解決した。
平行して進められた設計では、初めに具体的な仕様を決める事から始まった。排水量は900トン程で、速力は24ノットとした。そして設備や武装に関しては画期的な方式が採用された。それは必要に応じて船体に設備と武装を載せると云う現在の軍艦ファミリーの先駆けとも云えるものだった。
初めにその基本となる船体は費用低減と建造の容易さから商船構造が採用された上で、2つの型に分けられた。甲型と称された船体は北方海域以外での運用を前提とする基本形で、乙型は甲型に北方海域での運用を前提とした設計を加えたものである。
武装は基本として12センチ単装平射砲を2基と25mm連装機銃を2基とした。そして、後々用途や任務ごとに空きスペースに必要に応じて武装や設備を載せれるようにした。
1918年、こうして様々な手を駆使した巡視船の建造への計画は、予算と造船所があれば直ぐにも出来る状態にまで進んだ。然し、ここで急な追加要求が出された。それは生存性の向上であった。
この要求の理由は、ドイツが行った潜水艦の攻撃による被害を上層部が重く見た事だ。当時はまだまだ潜水艦に対する研究が始まったばかりで、有効な戦術や設備、兵装が無い事から、せめて一撃で航行不能になる事を防ぐ事しか無いと考えた事による。
尚、当時の日本海軍の主流派はこの事に関しては何の関心も示さなかった。理由としては、海軍は艦隊決戦にのみ注視し、それ以外の雑事は舎弟(海上保安庁)に任せてやる(押し付け)と云う考えがあったからだ。
話を戻して、この要求に造船士や技術者は頭を抱えた。と言っても、この要求に対する答えは直ぐに出せた。
それは建造の手間はかかるが、片方の機関が破壊されても残りの機関で航行が可能なシフト配置方式を採用する事だった。
それでは一体何に頭を抱えたかと云うと、既に設計が完成した巡視船にそのまま組み込む事が出来ないと云う事だ。
結局、現在の900トン型の機関部分を廃案にして新しく設計するしか無かった。その際、一部の技術者達から
「今後を見据えて大型化すべき」
との声が上がった。後々の事を考えるとその方が有利と判断された事から、排水量1200トンへと大型化された。この大型化した事によって、居住性の向上と追加する武装や設備、排水量の増加に対応出来るようになった。
このシフト配置の設計には二通りあり、1つは従来通りの蒸気機関で仕様通りの速力24ノット出せる。もう1つはディーゼル機関で、採用理由は燃費の良さから来る経済性だが、初期は出力が足らず15ノットと低速であり、その後改良されたディーゼル機関と交換して仕様通りの24ノットを実現した。
それと試験的に武装や設備を標準化する事による換装・更新の簡易化と運用の柔軟性を高める設計が加えられた。それを考慮した計画として、主砲の追加による砲撃力の強化と雷装を追加するA案、対潜強化として爆雷軌条と爆雷の装備としてB案、掃海用の掃海具と機関銃の搭載のC案とそれぞれ数パターンがあったが、当時の技術では費用の高騰しか招かないとして部分的な採用に止まった。
だが、それでも当時としては柔軟性に於いて頭1つ抜けており、結果として幾つもの派生と驚く程の長期の運用を可能とした。
多少の遠回りをした巡視船であったが、その甲斐あってスムーズに建造される見込みになった。
只、手持ちの予算では良くて4隻の建造しか出来ない事から、よそから予算を引っ張ってくる事を画策した。呼び掛けたのは海軍省と内務省、農商省、逓信省、沿岸部の政治家、大蔵省であった。
それぞれにした説明で、海軍省は補助戦力に手が回らないところに巡視船を売り込みと造船技術の向上をアピール、内務省は沿岸部の事案に使えるアピールと経済面での好影響、農商省は海難救助の効率化、逓信省は技術の向上と経済面への影響、沿岸部の政治家は規模は小さくとも地元に配備されるとお金が落ちる、最後に大蔵省は有事、平時に捕らわれず使えて、海であれば何でも出来ると説明した。
1920年の予算で9隻の建造が認められた。これは事前の根回しと世界大戦の終結による不景気への対策、そしてソ連の社会主義に対する不安感による。
そして幾つかの造船所で竣工までのタイムレースを行い、一番早い進水式はたった1年足らずで行われた事に造船関係者に驚きを与えた。それから1921年には全ての船があじさい型巡視船と命名、戦力化されて各地に配備された。
このあじさい型巡視船が平時に於いて最も生産されたのはを1923年の事だった。この前年にワシントン海軍軍縮条約によって八八艦隊の建造中止が決定した事で、事業を予定していた造船業者に深刻な影響を及ぼすことが確実であった。その補填として補償金を後日支払いする予定であったところに、海上保安庁が巡視船を発注する事で折り合いを付けさせた。
本来なら大蔵省が止めるのだが、造船業への影響と巡視船の強みを鑑みて予算を通した。
このあじさい型巡視船の強みとは、1つは一隻あたりの費用の安さともう1つは船体構造が商船構造である事だ。特に商船構造であった事から特別な技術が要らず、軍艦の建造経験のない造船所でも建造可能と云う事があった。
公共事業の側面もあった事から20隻近い建造が出来たのだが、これが思わない影響を工業界に与えた。何故なら何度も装備技術部による技術指導と品質指導が造船所や部分工場されたからだ。これによってアーク溶接とマスプロが知られ、工業部品の均一化が部分的にであるがされた事で生産性が向上した。
その後も一定数の建造が毎年され、海軍でも補助艦や新技術の試験艦として建造された。結果として塵も積もればと云う事で、主要港以外にも地方の漁港にも配備されるようになった。
すると狙った訳では無いものの、新たに地方へ出張所や派出所が設けられた事で、国民と海上保安庁ひいては海軍との距離を近づけるのに役立った。
出張所や派出所では、任務や日々の生活するには近隣住民との交流は欠かす事が出来ない。また、基本的に住民の要請を受けて出動したり、時折希望者を巡視船に乗せて航海したりと交流会を開く事で自然と地元住民との距離は近くなる。
短い期間でありながらも、北方海域でソ連海軍とぶつかりあいをしたり、朝鮮半島からの密入国者を取り締まるぐらいで平穏に過ごしていた。
その短い期間に含まれる1930年代に、タイ海軍からの発注を受けて数隻が建造され受け渡された。タイ海軍向けに改良したあじさい型は艦隊の中核となり、戦闘で沈没したりするが生き残ったものは太平洋戦争後も長く運用され、1960年代まで練習艦艇として現役であった。
平穏は呆気なく去ってしまった。1937年に支那事変が勃発、軍の臨時予算に海上封鎖用に、あじさい型を元にマイナーチェンジした鴻型駆逐艦で8隻分計上、認められ7カ月で戦力化されて支那大陸に送られた。
それだけで終わらず、翌年の臨時予算でさらに5隻。さらに翌年の十三年度予算では一気に10隻の整備が認められた。これは軍事予算の増加だけでなく、単価の安さと船体構造による。
そして続々と派遣された鴻型は生粋の戦闘艦の乗員に馬鹿にされながらも、任務である密輸を図るジャンクなど小型艇の阻止に只な貢献を果たした。然もその使い勝手の良さから、支那大陸の沿岸部に様々な任務を帯びながら続々と投入された。
尚、ゆとりある居住性のお陰で将兵の士気は他と違い高く、それ故に転属命令を渋るものが多かったそうだ。
それとこの時点ではまだ海上保安庁は海軍の指揮下に入っていなかった。理由としてはあくまでも戦争では無く事変であるとしていることで、海軍の指揮下へと入るのは戦時下と規定されている為である。
その後の支那事変の泥沼化と、続く米国との関係悪化よる拍車がかかると、あじさい型シリーズは変化を強いられた。まず、既に運用されている巡視船は太平洋戦争前から武装の強化に入った。その内容は主に米潜水艦対策としての対潜装備の拡充定数と、高角砲への換装や機銃の増備であった。
海軍下の海上保安庁の任務は本土及び支配地域の近海に接近する敵潜水艦、或いは敵航空機の排除と輸送船団護衛である。なお、電探は簡易版が装備されており、ソナーや聴音器は搭載されていた。
一方、駆逐艦として建造された鴻型や千鳥型はそれぞれの作戦海域に合わせた改装を行った。魚雷発射管を装備したり北方配備の艦は迷彩を施し、耐寒設備を強化した。また、太平洋方面配備は対暑装備の強化や根拠地防備の敷設装備に改装した艦もあった。
予想される戦域の拡大とそれに伴う様々な戦力不足を補うべく短期間の内に大量建造され、太平洋戦争前に新規で50隻が竣工していた。この時点でブロック工法を用いた建造がされていた。
また開戦直前の造船計画で、巡視船だけで追加に70隻の建造が決定していた。これは戦時型でより簡易かつ大量建造向けに設計したが、基本設計は変わらないので、特に変化ない。
これとは別にもっと簡易化した760トンの甲型海防艦の建造が決定していた。この海防艦は占領地でも建造され、そこそこの成果を上げた。
戦時中は海戦に参加することは稀であったが、本土初空襲時には米機動部隊との遭遇による米巡洋艦の砲撃で大破しつつも、本土に機動部隊発見と報を送っている。この結果、本土に敵機侵入を許したが、味方戦闘機と艦艇による迎撃に成功し、硫黄島にいた水雷戦隊が米機動部隊への雷撃で米巡洋艦の一隻を捕獲することに成功した。
その後、米潜水艦の活発化による輸送船の損害や撃沈される巡視船が増え始めた。一方で、開戦直前計画の70隻はほぼ全てが竣工し、開戦後の喪失分の補充や、本土空襲に対する防衛やシーレーンの確保に回された。
最終的に、終戦までの竣工隻数は実に400隻と言う大量の数となった。これは香港やシンガポールなどの占領地での建造も行われた事と、同巡視船の多用途設計による戦時中の補助艦艇の建造を中止して含まれた事が大きい。
400隻は巡視船だけでの数で、派生した駆逐艦や海防艦を含めると建造数は軽く倍になる。
日本としては珍しく物量戦が限定的であるが展開出来、1200t(後期型の排水量は増加)と言う小型ながら安定した船体と、24ノットと言う潜水艦を追いかけまわすに充分な速力によって、米の潜水艦乗りには大きな脅威となった。
電探やソナー等の装備面からの劣勢で、それなりの数が米潜水艦や航空機によって沈められた。一方で、船体に大量の爆雷や多数の対潜迫撃砲を搭載して、面制圧によるにプレッシャーを米潜水艦に与えた続けたりした。
沈められた巡視船は78隻に上ったが、米潜水艦の撃沈数も戦後の日米の資料の照らし合わせから、単独・共同含めて実に49隻になる。
航空機に対しては、主砲を新型の高角砲に換装したり、機銃の増備や対空噴進砲を搭載して上で、対空陣形などの戦術で戦った。航空機による撃沈艦は62隻に上る。一方で、充実した対空火器と戦術による敵機の撃墜数も多くあった。
然し、幾ら巡視船が戦術で勝利しても劣勢の挽回には至ることにはならなかった。巡視船の存在は米潜水艦や航空機に対して、一定の脅威となるが、圧倒的な物量・戦力差の前に押し潰された。
特にマリアナ諸島やフィリピンの失陥による制海権の実質的な喪失によって、本来は想定していない戦闘を敵の機動部隊や水上艦隊に対して仕掛けざる得ない状態となり、他にも遭遇戦による直接攻撃を受ける場合が増加、ただただ無意味にその身を摺り下ろす事しか出来なかった。
一方で、一部は硫黄島近海に機雷を散布したり防衛戦に参加、本土防空任務で主砲を高角砲に換装するなどして、終戦まで戦い続けた。
海上保安庁ひいては巡視船が最も活躍したのは連合国(実質米国)との停戦後であった。知っての通りソ連は中立条約を一方的な破棄と同時に樺太、千島、そして満州に侵攻した。そこで現地日本人の救出をしていた海上保安庁が、南下して来たソ連軍と衝突しながら防衛戦を展開した。
この時の海上保安庁の行動は後々論争を呼んだものの、もし動かなかった場合は、シベリアへと送られる日本人は膨大な人数であるとされた。
この救出及び防衛戦に参加した艦艇には、本土に残されていた日本海軍の艦艇も含まれる。尚、この時点では所属は海軍では無く海上保安庁となっている。これは玉音放送後に海軍の指揮下から離れた際に、満州や朝鮮半島に居る邦人輸送という名目で以下の艦艇が所属を変えたからだ。
航空母艦 鳳翔 信濃 天城 海鷲 龍鳳 葛城 準鷹
戦艦 長門 榛名 伊勢 日向
巡洋艦 酒匂 鹿島 高雄 青葉 伊吹
特務艦 長鯨 箕面 聖川丸
潜水母艦 駒橋 尾鷲
駆逐艦 雪風 汐風 夕風 波風 神風 冬月 春月 夏月 花月 宵月 ほか30隻
補助艦艇 50隻
この時、陸軍や海軍の航空隊も同じく海上保安庁の所属に変更された。海軍艦艇は簡易的に菊の御紋を布で覆う事で軍属でないとした。
そして、数日後から損傷した艦艇と載せる機体が無い空母を中心にした輸送船団が朝鮮半島や満州の邦人輸送を始めた。
無傷の艦艇はどうしたかと云うと、ソ連軍を警戒して北方に弾薬などを載せれるだけ載せて集められていた。
そしてソ連海軍の南下を予測して、長門を旗艦とする臨時艦隊凡そ40隻ほどの艦隊と日本中から集められた臨時航空隊の航空機約70機がオホーツク海に出撃し、ソ連軍と交戦の末に侵攻を頓挫させた。この時何隻かの巡視船はわざと千島などに乗り上げる事で徹底抗戦をしてみせた。
その後の調印式によって確定した終戦時点で200隻が健在であり、その殆どが稼働もしくは簡易な整備で稼働出来る状態にあった。他に各地の造船所には未完成の状態であった。このため、外地からの復員・引き揚げに総動員された。
復員と引き揚げがひと段落すると、軍艦は勿論、巡視船も100隻程が戦時賠償として連合国各国に割り当てられた。それでも残る巡視船の処遇がGHQで問題となった。当初GHQは軽武装されていた巡視船の全面解体を考えていたが、海上保安庁の強い抵抗と掃海などの問題からそのまま使用する事を許した。ただ、保有数に制限を掛けられた事で、あぶれた巡視船は非武装化されて小型貨物船や観測船などへの転用が許可を条件になされた。
そして竹島での衝突や朝鮮戦争に使用された後に、戦時賠償として持っていかれなかった軍艦と共に何隻かが海上警備隊、最終的に海上自衛隊へ移管された。
現在の巡視船にもその運用思想は残されており、日本で最も建造された船として歴史に名を残している。
余談であるが、その優れた設計によって南米や東南アジアの各国海軍に半世紀以上も運用されている事おり、当時の設計に関わっていた者達は驚きと同時にこの事を誇りに思っているだろう。
史実と違い稼働できる艦が多いのはご都合主義で巡視船が頑張った結果と思って下さい。また、史実と違うのはポツダム宣言が前倒しで日本政府の受け入れも早く、この後のクロスロードに参加する艦艇に信濃と巡洋艦が加わる事と、榛名が記念艦とされ、伊吹と天城、お好きな駆逐艦が海上自衛隊の護衛艦として運用される事です。