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吸血姫のいる日常。  作者: 星乃泪
第1章 一期一会
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第1章 第2話 捨て吸血鬼、拾いました。

 九鬼秘優(くきなしゆう)。職業はアパートから徒歩圏内にある会社に勤める極々普通のサラリーマン。幼少の頃から、人間関係もそこそこ、勉学もそこそこ、運動神経もそこそこの所謂器用貧乏人間だ。そんな俺の人生は特にこれといって苦労することもなく、気が付けば大学を卒業して現在の会社に入社し、今年で3年目に突入していた。そんな俺は職場でも特に困り事ははなく、平凡な日々を過ごしていた。


「九鬼秘、来週の会議の進捗は?」

「資料添付して会議通知発行しときました」

「サンキュー」


「九鬼秘先輩。ここよくわからないんですけど」

「あーここな。共有フォルダにマニュアル入ってるから読んでみて。わからなかったらまたおいで」

「ありがとうこざいます!」


 器用貧乏の良いところは、卒なくこなせるが故に周りから頼られ、自然と会社全体に名が知れ渡るところだ。たまに面倒な仕事も舞い込んでくるが、パイプがあるため大抵のことはなんとかなる。だがそれはあくまで仕事での話。仕事はイージーでもプライベートはベリーハードだ。周りの同期からは浮いた話で盛り上がりを見せているが、俺の場合仕事以外で話しかけられることはまずない。これが大人のやり方か……。丁度梅雨の時期というのもあり、俺の心は外と同じ雨模様だ。こんな日は早めに帰宅して晩酌するに限る。


「お先でーす」


 パソコンの電源を切り帰る支度をすると、職場の人達に挨拶をして会社を後にする。いつものこの時間帯ならまだ明るいのだが、分厚い雨雲が太陽を覆っているせいで視界は一層薄暗い。今朝から永遠降り続く雨の中、俺は傘をさして自宅へ向かう。途中、3年B組の担任が歩いていそうな河川敷がある。川は今朝より幾らか水嵩を増し、轟々と音を立てながら流れてゆく。そんな道半ば、地べたに座り込み、勢いよく流れる川を永遠眺める少女の姿があった。少女はどこからか見つけた段ボールの上に座り、傘もささずに川の方を見つめる。その瞳は薄暗い中でも鮮明に見える紅色だった。いつから座り込んでいるのか、全身雨に濡れ、髪からは雨が滴り落ちている。親と喧嘩して家を抜け出してきたのだろうか。事情は兎も角、いずれにせよこのままでは間違いなく風邪をひいてしまうのは明白だった。


「なぁ。どんな事情があったかは知らないが、このままじゃ風邪引くぞ?」

「……」


 俺の言葉に一瞬反応するも、目線を戻し頑なに座り続ける。正直、俺は過去にこんな経験をしたことがないため、少女がどんな気持ちで座り込んでいるのか、どうすれば素直に帰ってくれるのか、俺には何ひとつ答えを出すことができなかった。とはいえ、このまま雨に濡れた少女を置いて帰っては寝覚めが悪い。だが、連れ帰れば誘拐犯としてお縄にかかるのが容易に想像できてしまう。ロリコン誘拐犯という汚名を着せられテレビに出るのだけは避けたい。とすれば、少女を見捨てず、且つ犯罪にならない方法はこれしかなかった。俺は鞄から念のため持ってきていた未使用のタオルを取り出し、少女の頭に被せる。そしてその傍らに傘を置き、一言だけ告げてこの場を後にした。


「風邪ひく前に帰るんだぞ」


 こうして俺は笠地蔵の如く少女に雨避けを施し、自分は鞄を盾に雨に打たれながら自宅へと急いだ。これで恩返しに少女が現れたら、ちょっとしたホラーになりそうだが。

 なんとかアパートに到着し、扉の前でスーツを叩いて水を落とす。防水加工されているだけあって、衣服にダメージは少ない。鍵を取り出し扉を開けると、電気とエアコンを付けて上着をハンガーに掛ける。次に洗面所の引き出しからタオルを取り出すと頭に被せ、風呂のスイッチを入れる。


「お湯はりします♪」


 風呂場からアナウンスと共に、聞き慣れたメロディが流れ出す。タオルで濡れた髪を拭きながら、道中買い忘れていた酒のことについて考えていた。そういえば、今夜の夕飯と晩酌用の酒は冷蔵庫に入っているだろうか。ネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを外しながら、確認すべく洗面所から廊下に出たときだった。ガチャリと、玄関の扉がゆっくり開いてゆく。そういえば、急いでいて玄関の鍵を掛けるのを忘れていた。キリキリと音を立てながら少しずつ開かれてゆく扉のその先を、生唾を飲みながら俺は見つめる。幸か不幸か、プライベートで俺の家に用がある人間など記憶にない。予想外の展開に、俺はただただ扉の向こうを見つめることしかできなかった。鬼が出るか蛇が出るか、緊張しながら様子を窺うも、そこに現れたのは濡れた髪で顔が隠れたひとりの少女だった。ピタピタと流れ落ちる雫に、背後から稲光が追い打ちをかける。これはもう、ホラー以外の何物でもなかった。


「さだ……こ……?」


 刹那、早急にこの状況から脱するべく思考をフル回転させる。恐らく俺の目の前で今にも襲いかかろうとしている人物は貞子だ。イメージよりもサイズ感が小さい気がするが細かいことに時間を費やすのはよそう。貞子、それは呪いのビデオを観たものは数日後謎の死を遂げるホラー映画だ。貞子は通常井戸から這い上がってくるはずだが、まぁその辺の井戸から来たのだろう。だが貞子という人物は空想、つまりフィクションな訳で現実には存在しないはず。仮に目の前にいる人物が貞子だとしても、俺はこの数日の間で呪いのビデオは疎か、テレビすら観ていない。というか今のご時世ビデオなんてなーー


「うぐっ!!?」


 気付けば俺は天井を見上げていた。しまった。脳味噌に負荷をかけ過ぎて目の前の意識が散漫していた。いや、そうではない。消えたのだ。貞子と思われる少女はまるで瞬間移動をしたかのように間合いを詰め、その速度で猛タックルを仕掛けてきた。故に俺は床に倒れ込んでいる。後頭部を強打したせいか、意識が朦朧としている。首の辺りが妙に熱い。タックルされた際に鞭打ちでもしたのだろうか。駄目だ。意識が徐々に遠のいていく。このまま……俺は……。


「……て。お……て。おきて」


 まるで長い夢から覚めるように、ゆっくりと瞼を開ける。

 見覚えのある天井。

 下腹部辺りにある妙な圧迫感。

 後頭部に鈍痛。

 感覚があるということは夢ではない。そして俺は生きているということだ。そういえば、誰かに呼ばれていた気がする。そう思いかけた瞬間、視界が少女の顔で覆われた。

 セミロングの髪。

 質素な服装。

 そして吸い込まれそうな紅色の瞳。

 その瞳を見て悟った。そうだ、この子は河川敷で座り込んでいたあの少女だ。だが、同時にひとつの疑問が頭をよぎった。


「お前、なんで俺の居場所が分かったんだ?」

「……におい」


 少女は少しの沈黙の後、まるで当たり前のように呟いた。

 臭い?まさか、俺の臭いを追ってここまで辿り着いたのか?ってか、俺そんなに臭いの?

 心の中でショックを受けつつ、さらに少女へ質問をぶつける。


「帰れとは言ったが、帰る場所間違えてないか?もう日も落ちてるし、お母さんとか心配してるんじゃ……」

「お風呂が沸きました♪」


 俺の質問を遮るかのように、風呂が沸いた。どこかで聴いたことのある幼稚なメロディと機械音が鳴り響き、二人で音の鳴る方をただただ見つめる。そういえば、風呂を沸かしていたことをすっかり忘れていた。質問したいのは山々だが、このままじゃ俺も少女も風邪をひいてしまう。質問するのは風呂に浸かった後でもいいだろう。俺は馬乗りになっている少女の脇を持ち上げ、横に退かす。玄関へと続く廊下は開けっ放しのドアから入る雨と少女の足跡でびしゃびしゃだ。落胆と憂鬱感に心を痛めつつ、俺は少女を風呂場まで案内する。


「とりあえず風邪ひく前に風呂入れ。着替えは……あーなんか探すわ。着てる服は床に置いといていいから」


 俺は脱衣所からタオルを数枚取ると、扉を閉め玄関へ向かう。さすがにこれ以上玄関を雨風に晒しておくわけにはいかない。ドアを閉め鍵を掛けると、水浸しの床にタオルを敷き詰める。応急処置は済ませた。その足で自分の部屋へ向かうと、少女に着せる服を探す。上着はとりあえず適当な部屋着で賄えるだろう。だがさすがに子供用の下着は持ち合わせていないし、仮に所持していたらそれはそれで人間としてアウトな気がする。かといって大人用の下着はさすがにサイズが合わないので、明日一緒に買いに行くしかない。着替えを抱え脱衣所へ向かう。今頃は身体を洗って湯船に浸かっている頃合いだろう。


「湯加減大丈夫かー?しっかりあったま……おまっ!?なんでまだ風呂入ってないんだよ!」


 脱衣所の扉を開くと、服も脱がずに風呂場を眺める少女の姿があった。少女はキョトンとした顔で首を傾げている。


「いやいや、お風呂入ろうぜ?お!ふ!ろ!」

「……おふろ?」

「あぁほら、ここがお風呂な。ここに着替え置いとくから、しっかり身体洗ってから……ってちょい待て!服着たまま風呂入るな!」


 駄目だ。この少女、まるで風呂という存在を理解していない。まさかこの年になるまで一度も風呂を経験していないのか。だから雨の中身体の汚れを落としに……。少女に同情しつつ服を脱ぐよう促すが、どうもイマイチ話が通じていない。仕方なく服を脱ぐのを手伝い、なんとか丸裸にすることができた。途中、犯罪を犯しているような気持ちになるが、これは合法だと信じたい。このまま風呂に入れても、恐らく何もできず突っ立ったままだろう。こうなればヤケクソだ。腹をくくり、俺も全裸になる。そして共に風呂場へ足を踏み入れた。成人男性と小学生位の少女が一緒に風呂に入る経験はそうそうない。いや、血縁ならともかく、他人同士は経験してはいけない。俺の緊張感など微塵も感じていないのか、少女は浴槽に興味津々だった。ここまできてしまったら今更後には引けない。とりあえず少女を椅子に座らせ、頭と身体を洗う。ひとりでは何もできないが、俺が手本を見せるとなんとか真似してくれるのが唯一の救いだ。汚れを落としいざ湯船へ、と思ったが何やら水が怖いらしい。なかなか入るのを躊躇していたので、抱き抱える形で一緒に湯船に浸かることになった。肩まで浸かると、お湯が溢れて浴槽から溢れ出す。水の滴る音以外は何も聞こえない。そんな静寂が少しだけ心地良かった。本来なら、今頃酒を呑んで夢見心地になっているはずだが、とんだ大番狂わせだ。だがまぁ、こんな日もたまには刺激があっていいのかもしれない。いや、今回のはちょっと刺激が強過ぎたが。


「湯加減、大丈夫か?」

「……(コク)」


 少女も居心地がいいのか、穏やかな顔で頷く。


「そういえば、お互い自己紹介がまだだったな。俺は九鬼秘優。君は?」

「くき……な、し?」

「あーユウでいいよ。で、君のお名前は?」

「……ない」

「……え?」

「わからない」


 薄々予感はしていたが、今の言葉で予感が確信に変わった。この少女には、記憶がない。それも普通の記憶喪失とは次元が違う。大凡知識と呼べる記憶がすべて消えているのだ。辛うじて会話ができるのがまだ救いだと言えるだろう。記憶がないならば、風呂という存在を知らないことも、服の脱ぎ方がわからないことも、身体の洗い方がわからないこともこれですべて合点がいく。しかし、本当に記憶がゼロならばこの子の両親へ返してあげることもできない。きっとこの子にも普通の日常があったはずだ。


「なぁ。何か覚えてることあるか?なんでもいい、些細なことでもいいからさ」


 俺は首を掻きながら、淡い期待を込めて少女へ問いかける。その問いに少女は、初めて俺の目を見て口を開いた。

 まるでその問いに対する回答のみを記憶しているかのように。

 まるでその回答のみが自分の存在意義だと主張するかのように。

 少女は静かに、しかしはっきりとそれを言い放った。


「吸血鬼」


 その言葉の意味を理解するのに、時間を要する必要はなかった。きっと昨日までの自分ならば到底理解できなかっただろう。しかし、今の俺にはどう抗おうともひとつだけ思い当たる節があるのだ。先ほどから無意識に掻いている首の位置。それは彼女に倒された際に鞭打ちと勘違いした位置と一致するのだ。そして指の感触でも明確にわかるくらいに、二か所。丁度少女の歯並びと同じくらいの感覚で蚊に刺されたような腫れがある。もしこの考えが当たっているのなら、彼女の回答の意味と一致してしまうのだ。


「もしかして……吸った?」

「……ごめんなさい」


 恐る恐る答え合わせをする俺に対し、記憶がない中でも罪悪感を感じているのか、少女は対面するように身体の位置を変え、俯きながら答えた。しかし俺の返答を遮るように、間髪入れず少女は付け加える。


「でも、お陰で……伝えたいことが言える。助けてくれて……ありがとうっ!」


 少女は少し照れながらも、俺の目をしっかりと見据え、お礼の言葉を口にした。その顔に嘘偽りなど微塵もなく、今にも泣き出しそうなその真剣な表情に眩しいほど気持ちが伝わってきた。


「そっか。別に気にしてないから大丈夫だ。だからもうそんな顔するな」


 少女を安心させようと、頭をそっと撫でる。少女は俯きつつも、少し安心したのか笑みを浮かべていた。彼女も彼女なりに俺のことを気にかけてくれていたのか。そんなことを考えると、満更でもない気持ちなってしまう。昔から何不自由なく生きてきた俺は、ここまで感謝することもされることもなかった。特に社会人になってからは、日常の中で使われる感謝の言葉など挨拶程度にしか過ぎない。そんな日々を繰り返しゆくうちに、感謝の言葉に対して麻痺していたのだ。そんな俺に少女は新しい世界を教えてくれた。感謝すべきは、俺の方なのかもしれないな。俺はそっと心の中で呟くのだった。こちらこそ、と。


「さて、そろそろあがるか」

「うん」


 少女を先に浴槽から出し、次いで俺も洗い場へ移動する。お互い軽く体を流し脱衣所へ移ると、用意していた部屋着を着せ、髪を乾かす。

 リビングの方へ駆けて行く少女の後ろを、頭にタオルを被せながらついて行く。ふと時計に目を向けると、定時で帰ってきたはずが既に午後七時を過ぎていた。苦笑いしつつ冷蔵庫の中を覗き込む。米もまだ研いでいないし、今夜は焼きそばにするか。調理中、リビングのソファに座っている少女には大人しくしていてもらうため、テレビを付けて子供向け番組を見せていた。案の定、少女はテレビに釘付けだ。手早く野菜、ウインナーを切り、フライパンで炒める。野菜がしんなりしてきたところへ中華麺を加え、程よく炒めたら粉末ソースを絡ませ出来上がりだ。皿に盛り付け、テーブルに置く。作り終えて考えるのも今更だが、吸血鬼は血以外も食するのだろうか。俺の心配などお構いなしに、少女は目の前の焼きそばに興味津々だった。とりあえず席に着き、手を合わせる。


「いただきます」

「……ます?」


 少女は俺の真似をしようとしていたが、説明より食欲が勝っていた。三大欲求に抗うことはできない。しかし無性に腹が減っている。これも血を吸われた影響なのだろうか。夢中で焼きそばを頬張る中、少女は大人用の箸をグーで持ち、焼きそばをすくおうとするが、なかなかうまくいかず癇癪を起こしていた。


「……ユウ」

「ん?あ。あぁ……すまん」


 キレ気味に名前を呼ばれて初めて少女の状況を察する。記憶ゼロの相手に箸を使わせるのは流石に無理があった。俺は台所からフォークを取り出し、少女へ渡す。箸からフォークに変わったことで、なんとか少女でも焼きそばをうまく食べれるようになった。


「そういえば、名前、覚えてないんだったよな?なら、思い出すまで仮で名前をつけるか」


 この歳で、ペットに名前をつけるならまだしも、子供に名前をつけることになるとは思いもよらなかった。俺も将来家庭を持つことになったら、こういう機会がもっと増えるのだろうか。名前をつけるとなると、そう生半可な気持ちで考えるわけにはいかない。一度つけてしまえば半永久的に変わることはない大事なことなのだ。どうせつけるなら少女に見合ったものにしたいし、俗に言うキラキラネームにはしたくない。じっと考えていると、名前をつけてもらえるという期待からか、少女は目を輝かせてこちらを見つめていた。いつ見ても綺麗な瞳をしている。

 瞳。

 紅色の綺麗な瞳。

 俺が初めて少女に出会った第一印象が正にそれだった。


「よし。じゃあ、美しい紅色の瞳という意味を込めて、紅那(くれな)ってのはどうだ?」

「くれ、な……。私の、名前」


 少女は少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに呟いた。何度かその名前を復唱し、自分の脳内にしっかりと記憶させている。どうやら気に入ってもらえたようだ。


「じゃ、今日からお前の名前はクレナだ。これからよろしくな」

「うん!よろしく、ユウ!」

「ところでクレナ。皿の端に避けているのは何だ?」

「え……これ、嫌い」


 クレナの表情が一瞬にして笑みから苦い顔変わる。質問に答えてもなお見つけては避け続けている食べ物の正体は、子供の嫌いな食べ物ワースト10に入るピーマンだった。大人になればこの苦味がクセになるという人も多い野菜だが、この苦味は子供が嫌うのも無理はないだろう。因みに俺は昔から好きだった。とはいえ、苦手を克服させるのも保護者としての役目ならば、今は無理だとしても好き嫌いなく美味しく食べて欲しい。出会って間もなく謎の母性が発動していることに何の疑問ももたない俺は、クレナにある提案を持ち掛ける。


「なぁクレナ。その野菜、ピーマンって言うんだけど、あと一切れ食べたら残りは俺が食べるよ。どうだ?食べれるか?」


 ピーマンを避ける手は止めるも、露骨に嫌そうな顔をするクレナ。避けたピーマンの一切れを、俺は目の前で美味しそうに食べてみせる。すると、それをまじまじと見ていた彼女は、嫌々ながらも別の一切れをフォークで刺し、口元まで持っていった。少しの沈黙の後、覚悟を決めたのか目を瞑りピーマンを口の中へ放り込む。なんとか食べてくれたようだ。


「偉いぞクレナ」


 俺はクレナの頭を撫で、約束通り残りのピーマンをすべて平らげた。食事を終え、二人分の皿を片付けながら今日の出来事について振り返る。たった数時間で、二十年以上積み重ねてきた俺の価値観がすべて崩壊した気がした。こんなに他人と深く関わった経験がない俺にとって、これはきっと何か意味のあることなのだろう。こうして、サラリーマンと吸血鬼のちょっと変わった共同生活が始まるのであった。


 ーーその夜。

 就寝時間となり、寝室へ入ってふと気がつく。ベッドはひとつ。枕もひとつ。替えの布団はあるがどちらかが床で寝るのは正直辛い。だが見ず知らずの男と一緒に寝るなんて都合の良いことは皆無に等しい。臭いとか言われたらどうしよう。正直生きていけない。


「な、なぁクレナ。ベッドひとつしかないんだけど、一緒に寝るか?」

「ユウと一緒……寝る!」


 俺の予想に反してクレナは目を輝かせていた。クレナが純粋な子でよかった。電気を消して、二人一緒にベッドへ潜り込む。小さな温もりが、俺の隣で確かに脈を打っている。よほど疲れていたのか、クレナは安らかな寝息を立て、俺の袖を掴んで寝てしまっていた。それを確認し、安堵しながら俺も目を閉じる。

 こうして長い一日が、ようやく幕を閉じた。

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