第1章 第1話 日常の中の非日常。
時刻は六時を過ぎた頃。空はいくらか薄暗く、遠くから鳥の鳴く声が聞こえる。俺はひとつのドアの前に立ち、確認のため何度かノックをするが、案の定向こう側から反応はない。
「入るぞー」
仕方なくドアノブに手をかけ部屋の中へ入ると、そこにはベッドに横たわる一人の少女の姿があった。透き通るような白い素肌に、穏やかな寝顔。死んでるみたいだろ。ウソみたいだろ。眠ってるだけなんだぜ。それで。耳を澄ませば、スースーと可愛い寝息が聞こえる。毎度この寝顔を眺めていると、起こしてしまうのが惜しい気もするのだが、意を決して少女の肩に触れる。
「クレナ、メシの時間だぞ」
俺の呼びかけに彼女は唸りながらも、ゆっくりと瞳を開く。その色は薄暗い部屋の中でも光るように映る紅色だ。まだ完全に目を覚ましていないのか、寝ぼけた状態で肩に触れていた俺の手をゆっくりと掴む。
「……ガプッ」
なんの躊躇もなく、少女は俺の手首に噛み付く。犬歯が手首に食い込み、同時に鋭い痛みが襲う。
「俺はお前の食糧じゃねぇ」
振り下ろされた俺の手刀が彼女の額にヒットすると、気の抜けた声と同時に噛む力が弱まる。噛まれた箇所は軽く出血しており、赤く腫れていた。手首を気にする俺を他所にクレナはゆっくり起き上がると、何事もなかったかのように目を擦り、大きな欠伸をしていた。
そういえば、この物語においてひとつ重要なことを述べ忘れていた。クレナという少女、その正体は人間ではない。かと言って、人の言葉を話せるペットと暮らしているファンシーさ溢れる設定でもなければ、ペットと話している寂しい主人公を演じるつもりもない。そもそも、少女や彼女という表現を用いている時点で、動物ではないことは察しがついていることだろう。だが、クレナは人間ではないのだ。人間の姿をした、別の生き物。俺もつい最近まではおとぎ話の類かと思っていたが、こうして目にしてしまうと否定はできない。クレナは、吸血鬼だ。
吸血鬼というと、色々な説があったりするものだが、そのほとんどは彼女に当てはまらない。普通の人間と大差ないと言っても過言ではないのだ。現に彼女は、今まさに俺の目の前で、普通に飯を食っている。吸血鬼といえば人間の血を主食としているイメージが強いだろうが、どうやらそうでもないらしい。もちろん全く血を飲まないわけではない。だから定期的に俺の血を分けているし、血を飲んだ後は心なしか全体的に潤っている気がする。あととても元気。
もうひとつ、この物語において重要なことがある。クレナには、自分が吸血鬼ということ以外の一切の記憶がないのだ。通常、記憶喪失といえば、ある一定の期間や特定の部分の記憶がないのが一般的だが、彼女の場合、すべての知識が記憶から消去されている。言ってしまえば大きな赤ん坊と大差ない。今でこそ普通に飯を食えるくらいまで記憶が戻っているが、初めて出会った時はまともに話すことさえできなかった。その記憶を戻す方法がまた特殊で、吸血行為によって対象の血液と共に知識を吸い、結果として記憶が戻るようだ。なんとも面倒な贈り物を神様はしてくれたものだ。これは、どこにでもいるごく普通の主人公と吸血鬼の少女が織りなす、非日常を描く物語だ。
「あ、それは俺のハンバーグだろうが!」