on a bright Moonlit night(2)
「——ええ、ええ、わかったわ。気をつけて帰ってきてね。お疲れ様」
そっと受話器を置けば、カチャッと硬質な音がした。広い邸宅の中。ひとりでいると、わずかな物音でさえも耳に溜まる。
架電の主は夫だった。内容は、「帰宅は深夜を回る」という、ごくごく想定内のもの。おそらく娘も遅くなるのだろう。そう思いなし、アンジェラはソファセットへと戻った。どこかほっとした様子で深く腰かけ、足を組む。
直前まで、彼女はこのリビングで国営放送を見ていた。目当てはもちろん、建国二千年祭の記念式典……に出演する、娘のユリア。
父親が音楽家だったとはいえ、自分は音楽に関してまるで素人。かろうじて楽譜が読めるレベルだ。しかし、そんな自分の耳にも、娘の歌は普段どおりに聞こえた。
心配していなかったわけではない。けれど、心配したところで、自分にできることなど何もない。情けない話かもしれないが、娘を、娘の仲間たちを、信じることしかできないのだ。
結果、五人は建国祭という大舞台を立派にやってのけた。建国祭は大盛況のうちに閉幕。欲目などではなく、一国民として、純粋に感動を覚えるパフォーマンスだった。
娘のことを心の底から誇りに思う。だが、それと同じくらい……否、ある意味それ以上に、娘を支えてくれる四人のことを、アンジェラは誇りに思っていた。彼らが諦めずにいてくれたおかげで、娘は歌い続けていられるのだ。この五年間、ずっと。
「……感謝なんて、いくらしてもしたりないわね」
ある日突然かけがえのない存在を亡くし、《《歌えなくなった》》娘を、彼らは見捨てないでいてくれた。
胸に込み上げる想いが、目頭を熱くする。一度だけ鼻をすすり、短く嘆息すると、再度ソファから立ち上がった。溢れそうになる雫を無理やり抑え込み、紅茶でひと息つくため、キッチンへ足を向ける。
そうして、一歩踏み出した。
次の瞬間。
「?」
またもや、室内に電話の着信音が鳴り響いた。夫が何か伝え忘れたのだろうか。それとも、娘からだろうか。
いろいろと思案を巡らせながら、受話器を持ち上げる。「はい」とひとこと応答すると、予想外の声に少しだけ驚いた。
「お母さん? どうしたの?」
電話は、母のシェリーからだった。
こんな時間に珍しい。怪訝に思いつつも、母の話に耳を傾ける。なにやら動転している様子の母に、落ち着いて話すよう、ゆっくりと促した。
そして、
「……え? お父さんの容態が……?」
青天の霹靂ごとき悪報が、アンジェラを襲った。
すぐに病院へ来てほしいという母からの要請に、急いで自宅を飛び出る。そのまま車を走らせ、軍の病院へ。
冴え冴えとした夜空。
満月は、じっと地上を見下ろしていた。
◆
「ぶぇっくしゅ……っ! あー、さみぃ……」
ふたたびダウンコートの上から毛布にくるまり、アミルはヒーターの前に陣取った。ガタガタと震えながら、カチカチと高速で奥歯を鳴らす。
「ステージの上じゃ、あんなにかっこよかったのに……。はい、ホットコーヒー」
「うー……サンキュー、ミトさん」
湯気の立ちのぼる紙コップを、ミトから受け取る。顎がガクガクと揺れているせいで、声までもが揺れてしまった。熱々のコーヒーをふうふうと冷まし、ずずっとひと口。得も言われぬ温かさが、五臓六腑に染み渡る。
「もしかして風邪引いたんじゃない? もう解散してもオッケーなんだし、先に帰ったら?」
小さく丸まったアミルを心配し、アイラがこう提案した。寒さに耐性がないとはいえ、よもやここまでとは。しかし、自分たちの野外公演歴を振り返り、そういえば寒空の下(しかも夜)は初めてだったなと追考する。
「帰る? 送っていきましょうか?」
「いや、いい。ユリアのこと待ってる」
ミトが申し出るも、アミルはかぶりを振った。少しだけ背筋を伸ばし、表情を引き締める。
記念式典が終了した直後。帝室から護衛官へ、一本の連絡が入った。それは、皇帝グランヴァルト七世が、ユリアとの接見を所望しているというもの。詳細については何も語られなかったが、ユリアはそのまま護衛官に連れられ、宮殿へと行ってしまった。
「まさかユリアが陛下に呼ばれるなんて……驚いたな」
「うん。悪いことじゃないってわかってても心配だね」
憂色を湛えながら、レイとエマが揃って口にした。
現在この場にいるのは、バンドメンバー四人とミトの合わせて五人。ほかのスタッフたちは、ひと足先に帰途についた。
「『無理なら断ってもいい』って言ったって、そんな簡単に断れないわよね」
腕組みをして口をすぼめるミトに、「なんせ陛下直々の呼び出しだからなー」とアミル。飲み終わった紙コップをくしゃりと潰し、狙いを定めてごみ箱へ投げ入れた。
とにかく唐突な出来事だった。ゆえに、先方は配慮したつもりで、無理強いの意思がないことを表明したのかもしれない。……が、『断る』という選択肢を選ぶには、あまりにも重いリクエストだった。
「ミトさん。このこと、社長には連絡したの?」
アイラの問いかけに、ミトが頷く。事務所のヴォルターに連絡すると、さすがに最初は驚いていたものの、最後は「まァとくに問題ねェだろ」と妙に落ち着いていたらしい。
皇帝の真意がどうであれ、結果がどうであれ、とにかく、彼らはここでユリアが戻ってくるのを待つしかないのだ。
「はーあ……」
「アミルくん、大丈夫? 体調良くないなら、無理しないで帰ったほうがいいよ」
「あー、ごめん。今のはそういうんじゃなくて、なんつーか、その……」
盛大に嘆息したアミルをエマが気遣う。体調不良を否定したアミルだったが、なにやら歯切れが悪かった。鳶色の目を伏せ、口を噤む。
そんなアミルの心情をいち早く汲んだのは、この中で彼と一番付き合いの長いレイだった。
「……国賓席に座ってた『おうじさま』だろ?」
「……」
レイの言葉に無言で頷く。その表情は、普段のアミルからは想像できないほどに暗く、険しいものだった。
「気持ちの整理はもうできたって、そう、思ってたけど……あの顔見たら、やっぱ無理だったわ」
理不尽に禁圧され、悔し涙を流した過去。もう戻りたくないと、戻ったりなんかしないと誓った過去。
蓋をしたはずの過去が、アミルの心奥で、どろどろと溢れ出す。
「アイツは国民のことなんか都合のいい『玩具』ぐらいにしか思ってない。あんなのが国王になるなんて、絶対間違ってる」
なかば吐き捨てるように口にした非難には、さまざまな負の感情が内包されていた。
アミルが生まれたのは、スハラ王国。十五歳でガルディア帝国民となるまで、彼はあの砂の監獄で暮らしていた。言論を統制され、自由を抑圧され、友人を……殺された。
あのとき抱いた怨嗟と憤怒は、生涯、忘れることなどできはしない。
「オレは運がよかったからガルディアに渡れたけど……あのままあの国で一生を終えてたのかって思うと、ぞっとする」
他国籍を取得することは、けっして容易なことではない。アミルの場合、いろいろと幸が重なったのだが、最大の要因は、母親がガルディア出身だったということだろう。
生まれ故郷を変えることはできない。たとえ、どれほど忌まわしく思ったとしても。
「なあ、レイ」
「ん?」
「当たり前に生きるって……難しいな」
「……そうかもな」
スハラとガルディア。アミルは、ふたつの故郷で、ふたりの友人を亡くした。うちひとりは、レイにとってもかけがえのない友人だった。
それは、ユリアにとっても。
冴え返った満月が、夜空に浮かぶ。
今も昔も変わらぬ幽玄さで、等しく光を注ぎながら。
◆
自分はいったい何をしているのか。どうしてここに座っているのか。
周りを見回せば、真白い壁と青い絨毯。ところどころに施された金彩が、上品で繊細な美しさを醸し出している。
皇帝に呼び出されるという思いもよらぬ展開は、ユリアの思考を完全に迷子にさせた。『断る』という選択肢が自身の中になかったため、流れに身を任せてここまで来てしまったけれど、先がまったく見えない。
しかも、私服。まだ衣装のほうがマシだったのではと思わなくもないが、とにかく時間がなかったので仕方がない。
現在、皇帝が登場するのを、背筋を伸ばして待機しているという状況だ。
「この部屋……応接室、かな……」
刻々と過ぎていく時間の中、自身が案内された部屋を再度確認しながら、ぽそりと独言をこぼす。それほど華美ではないが、テーブルや椅子、その他の家具や小物に至るまで、すべてが洗練されていた。「あの一輪挿し、お母さんが好きそう」などと思える余裕は、さすがと言えばさすがかもしれない。
そんなふうにぼんやり眺めていると、とたんに部屋の扉が外側からガチャリと開けられた。なにやら物々しい雰囲気を察知し、反射的にさっと立ち上がる。
次の瞬間、ユリアは心の中で感嘆を漏らした。
室内へと入ってきたのは、皇帝グランヴァルト七世。この日を迎えるまで、スクリーン越しにしか、紙媒体でしか、見ること叶わなかった存在だ。
従者を三人ほど従え、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。整い過ぎるほどに整い、まばゆく煌めく容姿に、『陽帝』と謳われる所以をひしと感じた。
跪かなければ——知識と経験から直感でそう判断し、膝を曲げようとした矢先。
「ああ、そんな畏まったりしなくていい。椅子に掛けてくれ」
「え?」
グランヴァルトからの予想だにしない言葉に、思わず聞き返してしまったユリア。自身の中でその言葉を消化するまでに数秒を要し、かたまってしまった。けれど、彼の柔和な表情に促され、再度着席した。彼が腰を落ち着けた、0コンマ数秒後に。
テーブルの短辺と短辺に対座し、視線を合わせる。
「……思ったよりも小さいんだな」
「……え?」
と、またもや放たれた予想外の言葉。聞き返したユリアの声は、先ほどよりもはるかに間が抜けていた。
「あー……いや、ステージに立ってるときはもう少し大きく見えたんだが……意外に小柄だったんだと思ってな。気を悪くしたなら申し訳ない」
「あっ、いえ。とんでもございません」
慌てて首を横に振る。皇帝に謝罪されるなどとは夢にも思わなかったため、若干心臓が飛び跳ねた。彼と対面してからというもの、目を見開きっぱなしである。
皇帝らしいのになんだか皇帝らしくない。大変失礼極まりないと自覚しつつ、ユリアは心の中でそう呟いた。
すると、
「皇帝らしくない、か?」
「……えっ!? い、いえ、そんなことは……!!」
内心をずばり言い当てられ、思いきり狼狽えてしまった。否定するも、単なる肯定の裏返しという弁解の色が甚だしい。本日最大級の衝撃波。……生きた心地がしなかった。
「ははっ、構わん。こいつらからも、さんざん言われているからな」
怒る様子も悪びれる様子もなく、闊達に言ってのけるグランヴァルトに、後ろに控えている従者たちは揃って苦い面持ちをしていた。
——いくら注意しても無駄なんです……。
ユリアは、彼らのそんな心の泣き言を聞いた気がした。
なかなか本題に入らないグランヴァルトに対し、従者のひとりが「そのような話をするためにお呼び立てしたわけではないでしょう」と苦言をひとつ。「ああ、そうそう」と居住まいを正すと、軽く咳ばらいをし、ようやく本題へと入った。
「突然呼び立てて悪いな。どうしても、お前と直接会ってみたかったんだ」
ほくろが印象的な、艶やかで形のいい口。そこから、ユリアがここへ呼ばれた理由が、玲々と語られた。まるで、硝子玉が清らかな音を奏でるように。
「お前の歌に感動した。音楽を聴いて、こんなにも心を揺さぶられたのは、生まれて初めてだ」
目を細め、ユリアへの称賛をしみじみと紡ぎ出す。その口ぶりからは、飾り気のない真っ直ぐな気持ちが滲み出ていた。ユリアの歌に、光を浴びて歌うその麗容に、いたく感銘を受けたのだと、どうしても直接伝えたかったらしい。
「お前の……お前たちのおかげで、今日の式典は次の千年への素晴らしい区切りとなった。この国を代表して礼を言う。本当にありがとう」
グランヴァルトの声が、ユリアの鼓膜を優しく揺らす。
じわりじわりと、しだいに熱を帯びる胸の奥。
「……もったいないお言葉、恐悦至極にございます。わたしのような一国民に、このようなご高配を賜り、なんとお礼を申し上げれば良いか……」
「ははっ。民がいなければ、皇帝など飾りにもなれん。お前たち民がいてこその皇帝だ」
心を揺さぶられたのは、感銘を受けたのは、自分のほうだ——。
深々と頭を下げ、ユリアは衷心から感謝の意を捧げた。大切な宝物を抱き締めるように、彼からの言葉を静かに噛み締める。
彼の寛容さに敬服すると同時に、この国の民であることに改めて誇りを抱いた。
これが、ユリアとグランヴァルトの出会い。
ふたりの運命が、大きく動き出した瞬間であった。
太陽と月の狭間で
ChapterⅠ:5years ago【完】