閑話(3)
これは、ジークとディアナが夫婦となって初めて迎えた、夏の終わりのある日のこと。
朝陽が窓辺を照らし、淡い熱が室内をゆるやかに満たしている。カーテン越し。白い壁に揺れる、葉っぱの影。
この日も、ディアナは日課である観葉植物の世話にいそしんでいた。
真鍮の如雨露を傾ける。注がれる水が、黒い土にじわじわと染み込んでいく。しだいに濃くなる土の香り。植物たちは幾重にも鮮やかな緑葉を広げ、懸命に光を浴びていた。
丁寧に、そっと、ディアナはひと鉢ずつ状態を確かめた。みな健やかに根を張り、瑞々しい命の息吹を湛えている。
物言わぬ躍動に、胸の奥から込み上げる愛おしさ。気がつけば、ディアナはお気に入りの歌を口ずさんでいた。
優しく、切なく——それでいて、気分が高まる軽やかな旋律。
「その歌……」
背中に届いた低い声に、ディアナははっとして振り向いた。思わず片手で口元を押さえる。
そこには、妻から鉢の移動を依頼されたジークが、カジュアルな格好で立っていた。
……なんだか気恥ずかしい。うっすらと頬を染めたディアナは、如雨露を持ち直すと、はにかんでこう言った。
「あっ、こ、これは、わたしの大好きな歌手の歌で……! ジーク様、ご存じですか? ユリア・マクレーンっていう、ものすごく可愛くて、ものすごく歌が上手な、可愛い歌手」
どぎまぎした妻の口から飛び出したのは、なんと妹の名前。
驚いたことに、妻は妹のファンだった。「可愛い」が一度に複数出てくるあたり、熱烈なファンであることが窺える。
厳格な父親のもとで育った妻。趣味や娯楽など、ありとあらゆるものに制限を設けられていたが、唯一音楽だけは、自由に聴くことが許されたらしい。
「彼女の歌を聴くと、つらいけど、また明日もがんばろうって、思えたんです」
窮屈で陰鬱な日々。そんな中、妹の歌だけが心に灯る光だったのだと、妻が語る。
なんとも形容しがたい複雑な感情が、ジークの胸に去来する。だが、けっして悪い気はしなかった。嬉しいような、おもはゆいような、そんな気持ち。
そういえば……と、妻の指示通りに鉢を動かしながら、およそ半年間の新婚生活を振り返る。
そういえば、妻にまだ伝えていなかった。
「ディアナ。水やりがひと段落したら、私の書斎まで来てくれないか」
「え? わ、わかりました。終わったら、すぐに行きます」
なんだろうと首を傾ぐも、鉢の移動という重労働を担ってくれた夫に対し、丁寧に頭を下げる。
それから半時間後。
妻は、夫の書斎へと赴いた。
分厚い書物が整然と並ぶ本棚。重厚なダークオークの机。そして奥には、厳重に施錠されたキャビネットが据えられている。
「ちょっと待ってくれ。確かここに……あ。あったあった」
「……? それはなんです、か……っ!?!??」
質問を言い切ったと同時に、ディアナの思考は凍りついた。……固まった。
ジークが取り出したのは、一枚の写真。それから、少しだけ色褪せた、数冊の古いアルバムだった。
そこに写る、夫の隣で屈託のない笑顔を浮かべている少女に、ディアナは驚倒した。
「こ、ここ、この方は……っ!!」
それは、まぎれもなく、ディアナが憧れてやまない歌手——ユリア・マクレーンその人だった。
十五歳くらいだろうか。写真の中のユリアは、国立教育機関の中等部の制服を身に纏い、カメラに向かってピースサインを作っていた。
アルバムも見せてくれた。成長するにつれ、一緒に写る写真は徐々に減っているものの、それでもふたりは仲睦まじく笑っていた。
夫曰く、ユリアは、亡き父の親友であるセオドア・シュトラスの愛娘で、彼女が生まれたときから兄妹同然に育ったらしい。
彼女の実兄のロナードや、その友人のアミルやレイたちと写っている写真もたくさんあった。アミルやレイのことは、ディアナも当然知っているため、もちろん無事に昇天した。
「あいつは出自をいっさい公表していないからな。この部屋に外部から人を入れることなどあり得ないが、万が一のために仕舞っておいたんだ」
「……こ、こんなにも尊いものが家にあるなんて……わたし、ファンの皆さんに刺され——」
「——たりしないから安心しろ」
いまだ緊張と喜びが忙しなく交錯するその姿に、ジークは苦笑した。
ユリアが会いたがっていたことを伝えると、ディアナはつぶらな目を白黒させ、さらに固まった。
書斎の中に流れる、清涼で甘酸っぱい晩夏のひととき。
早く、その時が来てほしい。
大切な家族に、早く。
愛する妻を、紹介したい。




