for the Sake of(1)
——ラトくん。右目、あまり見えないの?
——うん、生まれつきね。
——だいじょうぶ?
——んー、大丈夫っていうか、この状態がおれにとっての〝当たり前〟で、みんなと比べられないから、正直わからないかな。
——あっ! ご、ごめんなさ……っ!
——ははっ、謝らなくていいよ。ユリアとロナードは、種族は違うけど、血の繋がった兄妹だろ?
——うん。
——それってさ、たぶん珍しいことだし、ぱっと見わからないけど、ユリアにとっては〝当たり前〟で、よそのきょうだいと比べられなくない?
——うん。
——そんな感じ。
——うん。……う、ん?
——わかりづらい?
——……ちょっとむずかしいかもしれない。
——あははっ。……おれ、思うんだ。人の数だけ〝当たり前〟があって、それはけっして共通じゃないから、わかり合うのは簡単じゃないけど……理解しようとするだけで、世界は優しくなれるんじゃないかって。
——……。
——大丈夫。ユリアは想像力が豊かだし、なによりとっても優しい子だから。……より多くの誰かの希望に、きっとなれるよ。
◆ ◆ ◆
雨が降っている。
しとしとと、きらきらと、銀色の細い雫が空気を伝って落ちていく。
土に吸い込まれ、消えゆく雨粒。そよぐ風は音もなく梢を揺らし、森の静寂の中へ溶け込んでいった。
鈍色の空。山々の影。分厚い雲はどこまでも低く垂れ込め、空全体が、まるで一枚の布帛に覆われているようだ。
この雨が上がれば、きっと、冬が訪れる。
「今日は一段と冷え込むな」
ユリアが外の景色を眺めていると、グランヴァルトから声をかけられた。華奢な体が寒々しく見えたのだろうか。グランヴァルトは、自身が羽織っていた紺色のストールを手に取ると、ユリアの小さな双肩にそっとかけてやった。
「あっ、わ、わたしは大丈夫です。どうか、お気遣いなくっ」
ユリアが慌てて脱ごうとするも、彼はそれをやんわりと制した。微笑を湛えた形のいい唇が、甘い香りとともに降り注ぐ。
しばしの沈黙。
わずかな吐息と、言葉のないぬくもりが、互いの内側に流れ込む。
「すまない、急に呼び出して。来てくれてよかった」
グランヴァルトは、軽々とユリアの体を持ち上げると、傍らのソファへと移動した。膝の上にユリアを座らせ、ストールに包まれた上体を抱き寄せる。
相談したいことがある。
グランヴァルトからジークを介してこう告げられたのは、つい三日前のこと。
おそらくこれがジークの遠征前最後の逢瀬になるだろうと、なんとか日程を調整し、どうにか実現にこぎつけた。
相談の内容は、事前に知らされていない。送迎を引き受けてくれたジークでさえ、それについては何も聞かされていないようだった。
グランヴァルトの指先が、ユリアの頬を優しくなぞる。彼の体温が、においが、ゆっくりと皮膚に浸透していく。
彼と過ごすかけがえのない時間。だが、こうして触れ合えば触れ合うほど、画面越しに見たあの情景が、ユリアの胸奥に重く暗い影を落とした。
彼が自分を呼んだ理由、その詳細はわからない。けれど、自分の立場はちゃんと心得ている。
彼はこの国の皇帝で、自分はただの国民。その境界を越えることは、この国に対する裏切りだ。
「グ、グラン様。あの……相談、というのは……」
不安定な心を必死で隠しながら、ユリアが口を開いた。
これに対し、少々緊張した面持ちで、グランヴァルトが答える。
「……実は、二国間会談の前に、俺たちのことをサイファに話した」
「……え? サイファさんに、ですか?」
「ああ」
驚いた。一瞬、自分の耳を疑った。
サイファといえば、この国の宰相——行政府の長だ。
祖父の旧友ゆえ、昔からよく知る人物だが、国の重要な地位にある彼にグランヴァルトが打ち明けたというその事実に、ユリアの心はますます揺れ動いた。
「……反対、されませんでしたか?」
「明確な反対はなかった……が、かなり動揺はしていたな」
「……」
なんとなく、彼の言う相談の輪郭が、見えてきた。
皇帝が、貴族でもない国民と恋仲になるなど、異例の事態だろう。サイファが動揺するのも無理はない。むしろ、咎められていないのが不思議なくらいだ。
伏し目がちに視線をさまよわせるユリアに、グランヴァルトが続ける。
「……お前に黙ったままいたくはないから正直に話すが、会談の際、ライアン王がエリカ王女を同伴したのは……その……俺との縁談を進めるためだった、らしい」
「……っ」
「だ、だがっ、結婚の意思がないことは確認し合った。俺の気持ちは王女も理解してくれたし、この話がこれ以上進展することは絶対にない!」
グランヴァルトの真剣な眼差しが、ひたむきな言葉とともに向けられる。
誠実な彼のことだ。きっと、この言葉に、嘘はない——。
ふたりの隙間に広がる、言葉の余熱。
「……グラン様」
ユリアは、そっと立ち上がり、心なしか不安そうな表情のグランヴァルトの肩に、羽織っていたストールを返した。
そうして彼の指先を手のひらで包むと、精いっぱい、笑ってこう告げた。
「少し、歩きませんか?」
遠くで、鳥の声が聞こえる。
いつのまにか、雨は止んでいた。




