第七話 落日と残照
戦争も終盤になると連合軍の戦闘機の性能もあがり、雷電・烈風の優位も失われていった。そして日本には連合軍の物量作戦を押しとどめる力は無く、徐々に追いつめられて行くこととなる。
昭和十九年(1944年)になると、マリアナ沖、台湾沖の海空戦を経て、日本の艦攻・艦爆部隊はほぼ壊滅し機動部隊としての攻撃力を喪失する。
そして十月、かろうじて残っていた空母部隊は戦闘機のみを搭載しフィリピンのレイテ湾に向けて出撃した。そしてレイテ湾に突入する戦艦部隊の上空を最後まで守り続け、その湾内突入成功と引き換えに完全に壊滅した。
湾内突入に成功した戦艦部隊も多数の輸送船と艦艇、そして島に残された多数の米兵を道連れに壊滅した。特に大和は沈没を避けるため海岸に乗り上げ、最後の一発まで発砲を続けたという。彼女はあまりにも巨大で浮揚も撤去もできなかったため、戦後もそのまま現地に残され、今では有名な観光スポットとなっている。
一方、日本の戦艦部隊の突入を許してしまった米軍は、レイテ湾を巡る戦いで陸海軍兵士あわせて十万人近くが戦死・行方不明となる史上空前の大損害を受けた。
終戦が見えてきたこの時期、たった一日の戦いで欧州戦線に匹敵する大量の戦死者を出したことに対して、国民の非難の矛先は敵国の日本ではなく、当然米軍と政府に向かうことになる。
この国内世論の圧力に屈する形で、米軍は地上部隊に大きな損害が予想される台湾、沖縄、日本本土への上陸作戦は断念せざる得ず、今後は通商破壊と爆撃で日本を弱らせて降伏させるやり方に戦略を変更していく。そして昭和十九年(1944年)末よりB-29による日本本土空襲を激化させていくこととなる。
昭和二十年(1945年)に入り、爆撃と物資不足で新型機の開発が次々と中止されていく中、雷電は陸軍の疾風とともに最重点生産機種に指定され、最後までB-29迎撃の中心として戦い続けた。日本本土空襲で失われたB-29は不時着も含めると約2000機にのぼる。実にB-29総生産機数の半分が日本本土空襲で失われたことになり搭乗員の戦死者数だけでも15000人に達する。そのB-29の損害の半数は雷電による戦果と言われている。
尚、陸軍の疾風は主に護衛戦闘機の排除を担当しておりB-29の戦果は少ない。また烈風は空母部隊の壊滅とともに高高度型の開発を除き生産中止となっている。
終戦までの雷電の総生産機数は各型合計で約7000機におよび、日本機としては最も生産された機種となった。面白いことに、雷電を最も多く生産したのは中島であり、開発元である川西は約1000機しか生産していない。このため当時は雷電を中島の機体と誤解している兵士も居たと言われる。
最後に量産された雷電四三型は、エンジンをハ42(空冷18気筒2300hp)に換装し、666km/hに達する高速と30mm機銃2門の重武装で当時の日本レシプロ戦闘機としては震電と並んで最強の性能を誇った。生産機数が少なく、活躍した期間も終戦までのわずかひと月ほどであったが多数のB-29を撃墜したと言われている。
ちなみに震電とは川西が最後に開発・量産した邀撃機である。
海軍は昭和一九年(1944年)二月、空技廠の実験結果をもとに、より強力なエンテ形式の邀撃機の開発を川西に指示した。当初は九州飛行機も開発候補に挙がっていたが、経験不足と九州が激しい爆撃を受けるようになっていたことから、当時やや開発が手すきだった川西が指定されている。
雷電で培った大量生産を考慮した設計手法を駆使し、昭和二〇年(1945年)一月には試作機が初飛行に漕ぎ着ける。その特徴的な機体形状からエンジンの冷却問題に苦しみ、制式採用は六月にずれ込んだものの、「震電」と名付けられた機体は700km/hに迫る高速と30mm機銃4門の大火力を誇った。エンジン工場が爆撃されたことにより、ごくわずかしか生産されなかったが日本海軍戦闘機の有終の美を飾ることとなる。
昭和二十年(1945年)八月、広島・小倉への原爆投下により日本は連合国に対し無条件降伏した。終戦時でも日本各地には1000機近い雷電が残存していた。戦後に米国に送られて試験された雷電四三型は700km/hを超える速度を発揮し、震電や陸軍の疾風とともに日本の最良戦闘機の一つとして評価されている。
戦後、日本は飛行機の製造開発を禁止され、川西航空機もGHQより解散を命じられる。そして新明和工業と名を変えたが、民生品を生産しつつも、龍三の飛行機への思いは消えることは無かった。
「いつかまた飛行機を作るぞ」
……しかしそのチャンスは龍三の情熱をもってしても、中々回ってこなかった。
昭和三十年(1955年)、飛行機事業復活の足がかりとして新明和工業がついに米軍機のオーバーホール契約を取り付けたその日に、航空機生産の復活を見ることなく龍三は天に旅経っていった。
だが彼の飛行機に対する情熱はしっかりと受け継がれた。
今日、新明和工業は日本を代表する航空機メーカーとして、優秀な航空機を世に送り出している。
雷電は連合軍を最も苦しめた機体のためか、国内外の多くの博物館に展示されている。海外にはフライアブルな状態を保っている機体もあり、今でもエアショーでその雄姿を見ることができる。
変わり種はリノ・エアレースのアンリミテッドクラスに出場している「Lady Jackie Thunder」であろう。フィリピンで鹵獲され米国でスクラップとなっていた雷電三ニ型を元に作成された本機は、参加機中唯一の枢軸国機であり、赤白ツートンの機体に戦時中の第三五二海軍航空隊を彷彿させる黄色い稲妻マークを描いた機体でベアキャットやムスタング、シーフューリーなどと、今でも最速の座をかけて激戦を繰り広げている。
川西龍三の夢は、今も空を飛び続けている。




