第三話 仮称一号局戦と十四試局戦
こうして高評価を得た二式水戦であったが、あくまで陸上機が基地に進出するまでの繋ぎであるため、その生産機数はせいぜい数百機止まりと見込まれた。当然、龍三はこの程度の成功で満足するはずがなかった。あくまで水戦は足がかりで本命は陸上機である。
「先に陸上機型も現物を作っとけ。やったもん勝ちや」
川西が十五試水戦の試作機を飛ばした昭和十六年(1941年)十月の段階で、龍三の読みどおり三菱は十四試局戦の設計に手間取り未だ試作機が出来ていなかった。一方自分達の開発は順調そのもの。三菱を出し抜き陸上機市場へ進出する絶好のチャンスであった。
そこで龍三は海軍に黙って自社の負担で陸上機型の開発と試作機の製作を指示した。この計画は海軍からの正式な試作指示ではないため、社内では「仮称一号局地戦闘機」と呼ばれ開発が進められることになる。
陸上機型の開発と言っても、十五試水戦は最初からそれを前提にしていたため、新たに開発するのは主脚を備えた主翼と胴体の尾輪くらいであった。しかし最初に菊原が指摘したとおり、陸上機の経験が無い川西にとって主脚の設計が課題であった。
「社長、すぐには無理です。恥ずかしながら経験が無いもので主翼と主脚はまだ設計出来てません。たしか社長は自分が何とかするとお約束して頂きましたよね?」
「……まぁ約束したからな。あぁ確かに約束した。無いならある所から引っ張ればええんや」
ここで龍三は気が進まないものの思い切った手を打つ。陸軍の九七戦闘機や一式戦闘機を手掛ける中島飛行機に頭を下げて主脚の技術提供を願い出たのである。中島には龍三の父、川西清兵衛が元々出資しており、川西と中島はいわば兄弟といえる関係であったが、川西の会社設立時に中島から技術者を引き抜くなど過去に遺恨のある間柄でもあった。
「技術者で飽き足らず今度は脚を寄越せと?川西さんちょっと調子良すぎじゃないですか?」
中島本社の応接室で龍三を迎えた知久平は、テーブルに額を押し付ける龍三を黙ってしばらく見つめるた後ようやく口を開いた。
「厚かましいのは重々承知しとります。そこを曲げてお願いしたい。うちはもう脚以外は全部出来とります。脚さえ出来ればあの三菱に一泡吹かせられるんです」
「あなたの所の菊原さんもなかなか優秀と聞いてます。そこまで出来てるなら、うちに頼らなくでも十分できるでしょう?」
「確かに菊原でも出来るでしょう。だが時間がかかる。それじゃあかんのです。さすがに来年には三菱も試作機を出してきよると思います。海軍に黙ってやっている手前、うちが先に出さんと勝てる目がありまへん」
「川西さん、本当に三菱に勝てますか?」
「勝てます。三菱は間違いのうしくじります。こっちより先に始めてるのに未だに試作機も出来てとりません。こっちは下駄履きの試作機でも十分な性能出しとります」
そう言って龍三は十五試水戦の試作機の性能と、陸上機化した場合の推算値を見せた。
『おいおい、これから浮舟とったら本当にうちの重戦を超えるぞ』
それを見た知久平は表情は変えなかったものの内心冷や汗を流した。データを信じる限り、その性能は中島が開発中の陸軍二式戦闘機を超えるものであった。彼も技術者である。試作機で実測されたデータを基にした推算値は十分に信頼できるものであった。この機体は化ける。知久平にはそう感じられた。
実は知久平はこの話を最初から受けるつもりであった。中島と川西の遺恨など、三菱に比べたら些細なものである。さらに海軍から冷遇されている中島にとって、三菱と海軍に一泡吹かせる話に乗らない手は無かった。
「川西さん、頭を上げてください。三菱に一泡吹かせる。それに海軍さんへの意趣返しにもなる。面白いじゃないですか。その話、中島も乗りましょう」
その後の話し合いで、中島は主脚の技術どころか最新の陸軍向け重戦(後の二式戦闘機 鍾馗)の主脚をベースに設計まで請け負う事を申し出た。こうして懸念の主脚も解決し、最初から陸上機型を前提に設計されていたことからその後の開発は速やかに進み、昭和十七年(1942年)一月、二式水戦の制式採用直後に川西は海軍に二式水戦の陸上機型を試作機とともに海軍に提案する。
当時海軍は、川西同様に二式水戦の陸上機型を考えてはいたものの、メーカーが勝手に試作まで進めていた事に当初大変怒りを覚えた。しかし試作機は既に出来てしまっている。仕方なく試しに海軍で引き取って飛ばしてみた所612km/hの高速を発揮し驚かされた。本命である三菱の十四試局戦の開発が難航していることから、海軍はあくまで十四試局戦が制式化されるまでの繋ぎとして、本機の開発を事後承認することにした。そして川西に増加試作型の製造を命じるとともに、三月に二式局戦として制式採用した。
まさに、龍三の目論見通りであった。
ただし海軍の方は、それでは腹の虫がおさまらないので色々と難癖をつけた挙句、かなり無茶な要求仕様でエンジン換装による性能向上型の試作を指示している。もちろん同時に二式水戦に対しても同様にエンジン換装の試作指示が出された。
なお、三菱の十四試局戦は、三月にようやく試作機が完成したものの、速度は577km/hと、二式局戦どころか要求仕様の602km/hに遠く及ばなかった。この先エンジンを換装しても川西の二式局戦に勝る性能を発揮できるとは思われないため、昭和十七年(1942年)三月、開発中止が決定された。
川西がついに三菱の仕事を「かっ攫った」瞬間であった。
十四試局戦開発中止の報を聞いた龍三は、中島知久平も招いて二式水戦が制式採用された時以上の大宴会を開いた。二人の高笑いは三菱本社にまで聞こえたという。
十四試局戦を設計した三菱の堀越技師は戦後、十四試局戦は自分の最高傑作であり、エンジンさえ換装すれば二式局戦を大きく超える性能を発揮するはずだったと述べている。だが紡錘形の胴体ではプロペラ後流により却って抵抗が増加することが後年判明しており、現在では計画通りの性能を発揮できたかどうか疑問との見解が一般的である。
「あの、社長……三菱に恨まれませんかね?夜道で刺されたりしないですよね?」
「まぁ大丈夫やろ。そもそも三菱さんは仕事取りすぎなんや。むしろ減った分楽んなって喜んどるんちゃうか?」
実際この時期、三菱の堀越技師は体を壊すほどの業務過多状態であった。後年、十四試局戦の中止は零戦の改良と十七試艦戦の開発にプラスに働いたと言われている。