エピローグ 帰郷~そして未来へ
雷電は日本で最も多く生産された機体であり今でも国内外に多数の現存機がある。しかし国内には残念ながら飛行可能な機体はなく、また展示機の状態も決して良好とは言い難かった。維持管理が大変な事はもちろんではあるが、戦後の平和教育といわゆる左翼勢力の伸長も原因と言えよう。つい最近までは戦争に関する物全てへの風当たりが強く、国も民間もそういった勢力に対する配慮で色々と動き辛い時代であった。
この風潮下で日本に返還された飛行機達は不幸であった。
1973年(昭和48年)には陸軍の疾風が、そして1979年(昭和54年)には海軍の二式飛行艇が日本に返還される。しかしどちらも民間主導の活動であり、返還にあたって各所から反対運動すら起きている。その結果、両機とも返還前は飛行可能な状態であったにも関わらず、返還後は野ざらしに近い状態で放置され飛行どころか部品も失い悲惨な状態になり果てる事となる。
当然このような状況を知った海外の所有者達は日本への機体返還を拒むようになっていった。
その状況も2011年(平成23年)に発生した東日本大震災後に徐々に変わっていく。当時政権を握っていた左翼政党の失政とそれに続く保守政党の返り咲き、そして東アジア情勢が大きく様変わりしたことから、それまで忌避されていた戦争にまつわる物事への風当たりが随分と変わってきたのである。
ちょうど両国にタカ派政権が誕生した頃、日米両国は日米友好と太平洋戦争の和解のアピールの一環として、米国が保管するいくつかの日本機の返還を行う事となった。そしてその中には、川西飛行機の開発した雷電、震電がふくまれていた。
かつて二式飛行艇を設計し、戦後その返還にあたって東奔西走した菊原は、返還後の機体の扱いを嘆き米国から返還してもらった事を大変後悔していたという。その菊原も1991年(平成3年)にこの世を去り、当時を知る関係者は既に皆鬼籍に入っている。
しかし川西航空機が新明和工業と名を変えても飛行機への情熱は脈々と社員達に受け継がれていた。
新明和工業は全社をあげて返還機のレストアに協力する事を決定する。もちろんその目標は彼女達を再び空に還すことであった。新明和の社員達は龍三や菊原に面識が無くとも彼らの無念を知っており、その空への情熱はDNAに刻み込まれていたのである。
2018年(平成30年)ついに震電と雷電が日本に返還された。新明和は彼女たちのためにUS-2用のハンガーを一つわざわざ空け、完全レストアの作業に入った。もちろんエンジンのレストアはこれも零戦改のレストアを手掛ける三菱重工が全力であたった。
そして7年間におよぶレストア作業の結果、2025年(平成37年)ついに作業が完了する。
「皆さま、滑走路にご注目ください。80年の時を超えて修復された戦闘機達がいよいよ飛び立ちます」
かつて雷電が初陣を飾った厚木海軍飛行場。現在は米軍と海上自衛隊が駐屯する厚木基地の航空祭には例年をはるかに超える20万人もの観客が押し寄せていた。もちろんお目当てはレストアされた大戦中の戦闘機達である。群衆が埋め尽くす滑走路に待ちに待ったアナウンスが流れ歓声が上がる。
「まずはかつてのライバル達から登場です。彼女たちはこの日のために遠く海を越えて駆けつけてくれました。まずは拍手で感謝を!」
大きな拍手を受けながら、エプロンでエンジンを回して待機していた欧米の戦闘機達が動き出す。
「先頭は米国海軍のF6F戦闘機です。その丈夫な機体と強力なエンジンで日本機を苦しめた名機です。はるばる米国カリフォルニアからの来場です」
再び歓声があがる。カメラを持った客は夢中でシャッターを切っている。そこにはかつて敵同士であった恨みなどなかった。日米の恩讐はすでに消え去り、全力で戦いあったライバル同士が持つ純粋な尊敬の念に昇華されている。
F6Fに続き、欧米の大戦中の戦闘機達がアナウンスで紹介されながら次々と飛び立っていく。本日参加した欧米の機体はF6F、F4U、P-47、P-51、スピットファイアの5機である。まさに大戦中の名機のオンパレードであった。
「いよいよお待ちかね、日本の戦闘機達の登場です!」
歓声がひときわ大きくなる。20万人の観客たちは今日これを見るために駆け付けたのだ。アナウンスをしているWAVE(海上自衛隊女性自衛官)の声も興奮のためか少し上ずっている。
「まずは日本陸軍の戦闘機達です!」
隼が、鍾馗が、飛燕が、そして疾風がアナウンスに一機ずつ紹介されて離陸していく。 そして上空で待機旋回している欧米戦闘機達の輪に加わっていく。
「続いて日本海軍の戦闘機達の登場です。最初は零式戦闘機です。その軽やかな身のこなしで相手を翻弄し、終戦まで活躍した名機として知られています。7年前に米国カリフォルニアのプレーンズ・オブ・フェイム様より返還され、生みの親の三菱重工業様の手で完全に修復されました」
零戦改がアナウンス通りの身の軽さを見せつけるように欧米機よりはるかに短い滑走距離で宙に浮き空に駆け上っていく。
「続いて皆さんご存知の雷電です!」
歓声が更に大きくなる。なぜなら雷電はその活躍から日本で人気の高い戦闘機であった。
「雷電は日本海軍の主力戦闘機として終戦まで戦い抜きました。その力強いエンジンから生み出される高速と丈夫な機体でどんな相手にも引けを取らない戦いをしたそうです。本機は米国の国立航空宇宙博物館様より返還されました。その機体はかつて雷電を生んだ川西航空機の血を引く新明和工業様の手で、エンジンも同じく三菱重工業様の手で完全に修復されています」
雷電は零戦の身の軽さと異なる重厚な離陸を見せると、エンジンでグイグイと引っ張られるような力強さで急角度で上昇していく。
「最後はお待ちかね、震電の登場です!」
観客の興奮が最高潮に達する。震電はその特異な形状と高性能、そして終戦間際の伝説的な活躍から日本だけでなく海外でも人気の戦闘機であった。
「震電はご覧のようにプロペラが後ろにある特殊な形をしています。これにより、これまでの戦闘機と比べ物にならない速度を出すことができました。戦争末期に登場したため活躍した期間は短いですが、日本最強の戦闘機と言われています。本機は米国スミソニアン博物館様から返還され、雷電と同じく新明和工業様と三菱重工業様により修復されました」
震電は機尾を気にしたのか慎重に離陸すると、それが嘘のように、これまでのどの戦闘機よりも急角度で空に駆け上っていった。
欧米の戦闘機の輪に加わった日本の戦闘機達は、模擬空戦や編隊飛行を繰り広げ観客たちを沸かせた。
滑走路に面した建物の屋上からその様子をみつめる二つの影があった。
『やっぱりうちのヤツが一番やな』
『社長、当たり前じゃないですか。設計したのは自分ですよ。欧米のとか、ましてや三菱さんのになんか負けません』
『ダボが、上手に作れるよう段取り引いたのは俺や』
『……俺らの仕事は間違っておらんかったんやな』
『みんな楽しそうですね。焼野原だったのが嘘みたいです』
『やっぱ飛行艇とか旅客機じゃつまらんな。戦闘機や、戦闘機をつくらなあかん』
『いつかまた戦闘機もつくれますよ。きっと』
『せやな。名前は変わっても川西や』
屋上に立つ警備兵が何かの気配を感じて振り向いたが、そこには誰も居なかった。ただ一陣の風が吹き抜けていった。
完結したつもりでしたが、最近の情勢からこんな事もあったらいいなと思い半日で書きました。
最近、二式大艇とか飛燕のように少しずつ待遇も改善してきていますが、いつの日か日本にもきちんとまとめて展示管理される所が出来ると良いですね。