プロローグ
きっかけは、きっと些細な事だったと思う。
顔が気に入らない。態度が気に入らない。はたまた金もないのに名門私立にいるのが気に入らない。
どれが原因かは解らない。或いは全部かもしれないし、私が気付いてないだけで他に理由があるのかもしれない。
けど、とにかく、気が付いたら私――黒井陽子はいじめられるようになっていた。
「キモ井ー、掃除終わった?」
その声に、肩がびくりと震える。恐る恐る振り返ると、そこには予想通り、赤澤香苗とその取り巻きの姿があった。
私一人に掃除を押し付け、てっきりそのまま帰ったと思っていたのに。そう、安心していたのに。
「あっ、ええと、あとゴミ出しだけで……」
「ふーん」
赤澤が、ニヤニヤと笑みを浮かべ取り巻きの一人に視線を遣る。すると、その取り巻きがこちらに近付き、後は捨てるだけになっていた中身の詰まったゴミ箱を蹴倒した。
「あっ……」
「あはは、ごっめーん。足が滑っちゃった」
かなり強く蹴られたゴミ箱が、床一面に中身を撒き散らす。それを呆然と眺める私に、楽しそうに赤澤は言った。
「キモ井の上にトロ井なんて、救いなさすぎ。もういっそ死んだら?」
その言葉に、一斉に耳障りな笑い声が上がる。私はただ唇を噛み締め、散らばったゴミを再び片付ける事しか出来なかった。
赤澤は、この女子高に出資している財閥のご令嬢だ。下手に逆らえば、言いがかりをつけられて学校を追い出される。実際そうやって退学させられた生徒を、私は何人も知っている。
だから、耐えるしかない。社会の落伍者になりたくなかったら、この地獄のような生活を三年間。ただ、耐え抜くしかないのだ。
大丈夫、私なら出来る。こんなくだらない奴らに負けたりしない。群れになったり、親の力を借りなきゃ何も出来ない無能な連中とは私は違う。
それに、もうすぐ夏休みになる。休みに入ればこいつらは何も……。
「そうだキモ井。夏休み、あたし達綾子の別荘に泊まりに行くんだけど。アンタも来るよね?」
そう思った時だった。赤澤が、上機嫌にそう言ったのは。
……泊まり? 赤澤達と? そんなの、どうなるか解りきってる。一日中、心休まる事もなく悪夢のような仕打ちを……。
断らないと。幾ら何でもそれだけは出来ない。そうだ、家の都合があるって事にすれば……。
「……来るよね?」
私がどう断るか考えを巡らせていると、途端に赤澤の声が低くなった。見れば、顔から笑みは失せ、さっきまでの上機嫌が嘘のように不機嫌な目でこちらを睨み付けている。
……逃げられない。私はそう悟った。今断れば、どんな目に遭わされるか解らない。もし学校を辞めさせられるだけで済まなかったら……。
「も、勿論、行かせて頂きます……」
「だよねー。あたしが誘ってるんだから来て当然よね」
咄嗟に声を絞り出し、私は言いたくなかったその言葉を告げた。赤澤はとりあえず機嫌を直したようで、口元に笑みを戻してそう言った。
……ああ。夏休みまでも私はこいつらから逃げられないのか。この悪魔共から。
「じゃ、話はそれだけだから。さっさと掃除終わらせなよ。……あたし達の分までね」
最後にそう言って、赤澤達は教室を出て行った。後には散らばったゴミと、私だけが残される。
……赤澤が死んでくれれば。いじめられるようになってから、そう思わなかった事はない。
自分で殺す。それも考えた。けどそうしたら私は前科持ちになってしまう。社会の落伍者。それだけは絶対に避けたい。
理想は、誰かが赤澤を殺してくれる事。でも誰が? そんな都合のいい存在、知らない。
私は神様なんて信じない。もし本当にいるなら、赤澤を殺してくれる誰かを遣わせて欲しい。そうすれば、迷わず信じてあげるのに。
そんな意味のない事を考えながら、私は再び掃除を始めた。
――この時、私は、まだ知らなかった。
神様は、本当にいたんだという事を。