続き2
教授の部屋の前へと来た。
用件はなんだとか、なんか持ってこいとか、そんなのは全く持って知らなかったので手ぶらできた。私、霧妃子は物を持つのが嫌いだ。
部屋の扉の前で立ち往生する。「おーぷんせさみー」と棒で読んでみたがやっぱりだめらしい。「ひらけぃごまぁぁああ」と重低音をブンスン言わせながら言ってみたがやっぱり駄目だった。
と、扉があいた。私、霧妃子は歓喜した! 私の祈祷が通じた!
苦笑いを浮かべた初老の、それでいて品のいい教授が顔を出す。
「なぁ、貴君よ。とっとと開けて入ってきたまえよ? 私はどうしていいかわからないじゃないか。頭の痛い生徒の相手をすると、名誉教授たる、私の名が折れる。だからな、貴君。とっとと廊下に立ってないで入りたまえ」
促されるまま部屋に入る。大した機器もなく事務室の一角といった感じだ。こぢんまりとしていてそれでいて何か居心地の良い和室のような空気が漂っていた。大日本天照大御神之娘連盟であった私にはピッタリな空気である。あまりの感激に深呼吸を二、三度すると教授が閉めた扉に押された空気が巻き上げる髪の毛、ダニ、ダニの糞、カビの胞子が私、霧妃子の二酸化炭素と酸素と交換され、湿った口腔内に貼りつき、喉にも付着して、とどのつまりむせた。
「うっ…」
「ああ、すまんすまん。貴君が扉閉めるとむせるアレルギーとは知らずに。すまん」
とりわけ悪そうな気概もなく、自らの頭を数回たたく仕草には殺意を覚える。
喉を抑えつつ、呼吸を整えていく。苦しく閉じてしまった目を開くと微小な違和感に襲われる。壁を埋めるように並んだ本棚の一つ、そしてその上から三段目の周りの本と大差ない汚れ、くたびれ具合の本がある。それだ、それに違和感。私、霧妃子はそこを凝視する。
お茶を入れていた教授が、私の視線を追う。
「なにかね? そこに何か?」
「うっ…いえ、うっ…何も…」
教授の応対に目を一瞬離した刹那、そこに青い附箋が貼りついていた。私は驚きのあまり、すぐに駆け寄って書かれている文字を読んだ。
『硝煙立ち上る戦場で繰り返される情熱の交わり』
さらに青い付箋には一八禁とまでご丁寧に書かれていた。
異変に気付く教授の声色と顔色が変化する。私、霧妃子には愉悦の笑み。
「き、貴君! な、なにかね!? うろちょろしないでくれると、うれしいよ? なぁ、諸君もそうだろう!?」
と、そこに存在しない観客たちに手を広げ表現する。教授の癖だ。
私、霧妃子はいたずらっ子。こんな素振りを見せられてはもう――止まらない。躊躇なく、その本を手に取った。そして、堂々たる声で一言。
「教授。この本――開いていいですか?」
「…ごめん」
「だから、開いて…」
「ごめんってば」
「いや、そのですね、私、霧妃子がきいているのはですね」
「ごめんって言ってるでしょ!? 聞こえないの!? もう、返してよ! 私の本でしょ!? 死ね! クズ! 外道! 女以外の生物括弧ミトコンドリア括弧閉じ!」
教授が壊れた。ぷ、プンスカしながら近づいて、本は取られた。
唖然。ただ唖然。これが、二重人格というやつですね。また一つ大人になりました。ありがとうございます。お礼の意を込めて、
「す、すいませんでした」
おとなしく謝ってみた。私、霧妃子はまじめっ子でいい子である。
本をマジックのように服の内側にかくし、安全を取り戻した教授は、乱れた髪の毛を撫でつけ、口にある無精ひげをこれでもかと撫でた。じょりじょりている。じょりりり。
「いいよ、貴君にばれてしまった僕が悪いんだ」
じょりー。
「はい、そうですね」
じょり。
「しかし――しかし、だ。なぜこの本を見破ったのか。私はそこに興味がわく。別件で貴君を呼び押せたのだが、さあさあ、どうしてだろうか。面白いものが舞い込んできた」
途端に髭がこすられる音が変わった。人間の志の高さが垣間見える、そんなある種の異変を不気味ととらえられるようなものだった。私、霧妃子はそれに少しばかり臆したが、面目なさそうに目を伏した。
附箋のことは言うべきか。そもそも私、霧妃子自身この現象について確証を持っているわけではないし、信頼しているわけではない。たまたまいろんなものに附箋がついていた。それだけの現象と言い切れなくもない。何より十中八九、これは私、霧妃子にしか見えていない現象であること。これが一番言うべきかどうかというある意味、人間の、いや、私の人格を疑われかねない、他人からのオピニオンを決定する大事な要因を握っている所以であるのだ。
教授がぱぁっと表情を変えた。
「ま、いいよ。さて、用件を言おうか。座って座って」
本がトントンと積もった椅子を示したので、私、霧妃子は勢いよく、思い切り本をブっとばした。
晴れ晴れとした顔で椅子に座り、教授と向かい合う。
渋いロマンスグレーの老人といえば変かもしれないが、若々しく見える。私、霧妃子は年上が好みな故に少し惚れてしまいそうだが、こんなネズミ小屋に住みたくはないのでご遠慮する。
「うっ」
「ん、どうしたんだい?」
目にゴミが入った。糞が、このきたねえ部屋のせいだよおっさん! 消えろ! と暴言を吐いても仕方がないので、おとなしく涙を流した。教授の前でなんで泣かねばらならんのだと、小一時間問い詰められたら、スラグ弾で頭部を撃ち抜いてやる。
目をつぶり、涙を流す。もういいかなと思ったぐらいで目を開く。
――みんな、附箋だ!
『 四十六歳 名誉教授 男性 扇動家。思想家』
私、霧妃子は目を見張った。これは、明らかに風が云々ではない。神風を誇る人間が貼りつけた云々ではない。時間を超越する、光を超越する特殊能力保持者云々ではない。サイコキネシスなんてちゃちなもんじゃない。明らかにこれは、異変だ! そう直感した。
粗末な脳ですいませんお母さんと謝りたい。だけれども今こうして私の妄想か何かが具現化して、しかも他人の額に、少し剥げ散らかった額に貼りついてまるでそよ風待っているかのように危なっかしくくっついている! 私、霧妃子はそれに微笑を以て堪える愚行をすることしかできないんです、ごめんなさい!
異変に気付いた教授が棘をさすように言葉を投げた。
「貴君よ、人の顔を見て馬鹿笑いならばまだしも、微笑はいかんよ? 人にしてはいけないこととして、爆笑するよりも微笑する勿れだ。爆笑は相手もばかばかしく思え、トイレに流すが、微笑は一方的に侮辱され恥辱の果てに凌辱されているようで業腹である。わかったかね?」
「は、はい…」
また、申し訳なさそうに目を伏せる。私、霧妃子は相手の同情を誘って早めに鎮静化を図るのがうまい、猫かぶり上手である。別に猫の内臓を取り払ってかぶるよりはずいぶんかわいいものだ、と思う。
ひげをなでる音が鳴る。
「話が一転、二転三転ぐらいしているが、今聞きたいことは先ほどの君の愚行だ。さてと、答えてくれたら先ほどのことはなかったことにしよう。そして単位をあげよう」
単位を人質に取られた。これは為す術なしと女の感性が言っている。私、霧妃子は実に合理的主義である。
臆せず教授に近づき、すいません。とだけ言って、額についていた黄色い附箋を引きはがす。教授の双眼は終始きょろきょろと私の動作を見ていたが、不思議といった表情とは百点満点の形容だった。
引きはがされた後、教授は自分の額をひたひたと触った。
「なんだね、なんだね? 何が起こったのかね? 諸君らに聞いてもわからんか」
「…やっぱり、見えていないんですね」
「何を言う。何が見えていない」
手元にひらとした附箋がある。事細かに教授について記述されたその附箋――本当のことが書かれているのか、偽りか。そんな些細なことよりも、出現し、現に触ることができ、そして、どうやらこうやら――私、霧妃子にしか見ることも触ることもできない。
恐怖だ。これは恐怖だ。私、霧妃子はそう形容する。朝、パンに附箋がついていたことも、コップに附箋がついていたこともすべては怪奇だ。ひょっとして狂ったんじゃなかろうか。そう錯覚する。しかし、しかし…。
「貴君よ。何をしたのか言いたまえよ」
教授の疑問が口から飛び出し、部屋を転がる。それか、散々する。
私、霧妃子はいたって普通だ。そう思っていた。しかし、この附箋が見える、今日、この瞬間から、いや、これを奇怪と、怪奇と、見なした今この瞬間から、だ。普通ではないと、そうなったのは。
恐る恐る口に出す。
「ふ、附箋…み、見えませんか?」
ひらと教授の目の前で振って見せ、教授から剥がした黄色い附箋が揺れ動かす。
きょとんと形容するがいい。教授は解せないといった表情だ。はは、私、霧妃子を解する者は現段階では、希望的観測をしてさえ存在しえないのだ。
「何をだね? 君は何をつまんでいるパントマイムをしているのだね?」
手を静かにおろす。小さく小さく、手の内に附箋を取り込み、小さく、小さく。
「いえ…教授、何でもありません」
ぶるぶると腕が、手が、震えている。理由はきっと一つ。
「貴君よ、あ、ああ! そうかそうか、ゴミでもついていたのかね。それはありがとう。諸君らも見習いたまえよ?」
空虚な言葉だ。また部屋を転がるだけだ。
いや、私、霧妃子にはそう思えたのかもしれない。
「ま、この話は置いておこう。今は本題だ。諸君らも事の展開を早急にすることを望んでいるに違いないさ」
「…はい」
意気消沈――とは間違ったものではあると思うが、それでも何かこう、暗黒物質でもない、タールでもない、どろどろとしたものに足を突っ込んでいる感じだ。億劫なのだ。一歩一歩が。私、霧妃子は面倒くさがりである。客観的に見ても主観的に見ても。
教授は私をよそ目に話を始めた。
「今日貴君を呼んだのはだね、簡単な、そう、簡単なアルバイトの話が転がり込んでいてね。それに誰を使わそうかと思ったところ貴君が適任かと思った次第さ」
「はあ。それで私は何を?」
早く家に帰りたい。そればかりが募る。
沢山積み上げられた書類の山から一枚の、日焼けしたコピー用紙を取り出す。教授はそれを以てまたこちらに戻ってきた。そして、ひげをひと撫でして話を続けた。
「ここに一人の少年だか、少女だかが住んでいる。あとは彼、彼女に聞いてくれ。なぁ、諸君らよ、ようやく話が進みそうで、いや、再会できて楽しいなぁ! はは、ははははははっ!」
途端、手を大仰に振り上げて笑い始めた。そろそろ焼きが回ったのか。私、霧妃子は冷徹な目を使って他人を死に至らしめる呪師である。
笑いを止め、こちらに向き直った。手に持ったそれをこちらに渡してきた。そして、話を終わらせた。
「さぁ、持って行きたまえ。諸君らも待ち望んでいるのだ。ささ、貴君がなんにせよこういう運命だったことに祝杯をあげつつ、今宵は宴だ――帰っていいぞ」
「はい」
間髪入れずに返事をし、日焼けたコピー用紙を手に握り、その場を後にした。扉が閉まったとき、その内側から埃に咽る教授の喉が鳴り響いているのが聞こえた。すでにあたりは暗くなっていた。静謐な大学構内だ。私、霧妃子は静謐を好む。いや、嫌う? そんなことはどうでもいいから、人のいないこの空間からいち早く逃げ出したかった。私、霧妃子は臆病者でさびしがり屋のピーター・ラビットなのだ。




