附箋の春
朝。普通の人は目を覚まして、何をするだろうか? 覚醒しつつある脳へ心臓がさらに血液を送り出し、意識をどんどん覚醒していく。そうして寝惚け眼の目をこすりながら、「ふぁあ」と声をあげ、右手を耳の少し後ろ、左手をぐっと高く伸ばして「むいぐ」と伸びをする。それでしゃんとしない人もする人も、時計を見て、学校だ、あれ会社だ、子供の弁当だと慌ただしくも厳かに静謐な朝を始める。
私、富樫、富樫霧妃子の朝は違った。
今朝、目を覚ました。いつもと同じ天井――ではなくて真っ暗、真っ暗。半回転して天井を見る。窓から太陽が燦々と、布団の繊維の間にうごめく微生物を熱線で焼き殺していた。う~ん、太陽のにほい。
左腕を曲げ、左手を耳の後ろあたりに持ってくる。右腕右手は天高く伸ばして「ぐぐー」っと伸びをする。目を「ぎゅーっ」とつぶり、涙と眠気を絞り出す。
「さ、動こう」
時計をちらりと見る。
『六時三十分二十七秒。電池が切れそうです。』
青い附箋が時計にでかでかと張り付いていた。邪魔だったので剥がすと、時計の単針は六時と七時の半分。秒針は三十数秒を動いていた。
そもそもこの附箋はなんだ? 私、霧妃子はこんなものつけていない。昨日の自分に今の自分が問うても答えは見つからないが、記憶に間違いはない。そもそもこの字、私の字ではない。誰の字だ?
血糖値の低い私は、ここで考えるのをやめた。深く考えるのは苦手なたちである。対人関係でも大抵思ったことはそのまんま、がモットーで生きている。
キッチンへと向かって、食パンと調味料各種を取り出す。袋の中、最後の一枚の食パンをトースターに入れ、空袋を捨てる。待つこと三分。カップラーメンもかくやといわれるスピードで、私、霧妃子もいつもおったまげる。
ささ、血糖値をあげるためにトーストにバターとジャムと、これでもかとメープルシロップを塗りたくりましょう。仕上げに砕いたチョコをぱらり。『ちよこれいとのぱん』の出来上がりだ。私、霧妃子の絶賛するお気に入りの食べ方であり、また唯一の料理と呼べる一品に仕上げることができる混合物である。
さぁ、大きく口を開けて、かぶりつき、食いちぎる。乙女だとか、妙所なのに! とかどうでもいい。朝ぐらい、自分の家でぐらい野性味あふれる野生の女王でいさせて。もし私に彼氏ができたとしたら、そんな私を許してくれる人でないとダメだ。ふん。
「わー…これなんか食べぁ…」
口の端にわずかな違和感。髪の毛でも食べたかなと思って引っ張ってみると――青い附箋だ!
『五○○カロリー。六枚切りトースト使用』
疑問符。
私は先ほど捨てた食パンの袋をゴミ箱から取り出す――六枚切り!
さすがにカロリーは測り兼ねるが、それでもこの附箋は、どうやらこのパンについて言及しているらしい。『附箋』が『言及』というのも言いえて妙だから、でも現実は小説よりも奇妙というし…というのではなくて、つまり、『附箋』はこのパンについての『説明』をしているのだ。
さっきの時計、私は何気なく附箋に書かれていた数字と時計を見ていたが、よくよく思い出すと書かれていた時間と時計の表示する時間の差は微小でまるで、私があのタイミングで剥がすのをそれこそ時計自身が予測していたみたいであろう。奇妙なことだ。
幻覚の一種だろうか? 私、霧妃子は昨日は何もキメてませんが…はぁっ! まさか、まさかと思いますが、日ごろ醤油を湯水のごとく使用して摂取しているため、中毒症状が出始めた…とか? わかりません。
ふぅ。考えるのも馬鹿らしい。食べてしまおう。
また口を動かし、喉を通し、胃に収める。うん、積もった。そして、甘い! よし、血糖値上がった! きっと上がった!
食事を終え、皿を流しへ洗面と歯磨きをしに、洗面所へと向かう。私は朝食をとってから歯を磨くタイプの人間です。
鏡を見て、自分の仏頂面に赤面しつつ、苦笑しつつ、まずは歯ブラシを手に取る。歯磨き粉をこれでもかと盛り、盛りすぎて落ちた。私、霧妃子は盛るのは好きだが、いつも盛りすぎて落ちるのが関の山。
今度は適量を盛り、口に運ぶ。軽快な動作で歯ブラシを動かし右下から左下、右上から左上、そして前面、舌と磨いていく。歯磨き粉の成分がエナメル質を磨き上げていく。
一通り磨き終わり、水を汲んでおいたコップへと手が伸びる。しかし手に違和感。同じようなものだ。
「むむ…」
視線をずらし、コップの取っ手を見る――青い、附箋だ。
歯ブラシを口にくわえ、附箋を剥がす。また、字が書いてある。
『一九○ミリリットル入るコップです。現在、一○○ミリリットル弱』
恐ろしくなった。
歯ブラシを加えたまま、キッチンへと走り、計量カップを取り出す。透明に赤い標線がついたそれに、コップに入っていた水を流し込む。
私は思わず、声をあげた。
「むむもももふぁ!」
しまった、歯ブラシを咥えたままだし、何よりまだ口の中もお外も歯磨き粉であわあわである。私、霧妃子はおっちょこちょいではない!
しかし、どういうことだろうか。私はこんな附箋をつけていない。それとも、後ろに誰か…いるわけでもあるまい。まさか別次元からの干渉によって何か、ヘルプメッセージを同時に受信している…とか超怪奇現象的なセスエフ展開もあり得まい! ではなんなのか! 知らぬ! 私、霧妃子は血糖値が上がっても考えるのは苦手だ!
だけど、奇妙な点はそこだけではない、なぜ張り付いていた、というよりも書いてある文章にも、私、霧妃子は注目すべきだと主張したい。なんつったって乙女だもの。ふふんだ。
口を漱いだ。
顔も洗う。タオルで拭いた。
今は、疑問をどうにかするよりも、学校へと向かうことのほうが大切である。私、霧妃子は、遅刻欠席があと数回で単位を落としてしまうことになる。それだけは勘弁せしめねばならぬ。
急いで服を着替え、髪の毛を整える。化粧も軽くして、よし。
手早く身支度を済ませ、玄関へ。靴を履き、扉を開き、外気をすいこむ。別段静謐な朝でも、しんしんと身に染み入るような雪の降る日でもなく、ただ単に、電車の車輪と車体と線路と、すべてが重なり合いずれる音。車のタイヤがアスファルトをえぐる音、エンジン音――ばたん。とどこかの家の扉が閉まる音。
喧騒が始まっている。都会の朝。私もそれに混じって足早に大学に向かう。大学は徒歩五分だ。
道中、一個の信号がある。十字路の交差点でなかなか長く待たされる。私、霧妃子はこれで幾度となく遅刻した。この信号の別名を『動摩擦係数最大値』とつけたこともある。誰にも理解されえなかった。憤慨する!
今日も案の定。いざ渡らん! と意気込んだ瞬間、緑色が点滅して、悠々と赤色に変化した。ぶち殺すぞ。
目から熱線を出して、歩行者信号を溶かしてやろうかというぐらい熱心に呪った。無機物を呪っても誰も得も損もしないし、幸も不幸もないのだ。万々歳だ丸く収まれ。
私、霧妃子の視力は決して悪くない。裸眼で多分両目三,○はあるだろうと言われて、言っている。乱視も入ってないし、ロックオン機能も当然ついていない。
しかし、誰に言われるわけでもなく異変に気付いたのだ。私、霧妃子は。
――青い附箋…。
今日で何度目だろうか。四度目? 三度目? どちらでもいいが、まあご丁寧にどうもだ。しかし、あの附箋は偶然誰かがメモ書きした附箋を間違えて歩行者信号に貼りつけたかもしれないし、風に飛ばされてくっついただけかもしれない。
信号が青に変わる。歩きはじめる。ずんずんと青い附箋のもとへ、そして書かれている文字を読み取る。
『歩行者信号。待機時間…「赤」一分。「青」四十五秒。以上。』
やっぱり。変態もいたものだ。いくら暇をつぶすからって赤信号と青信号の長さを図るなんて。しかもお前、それだと一回余計にまってんじゃん! ばかじゃん! とかそんなわけないですよね。
私はやっぱり特に気にもせず学校へと足を進める。青い附箋なんかに気を取られて単位を落とすと、私、霧妃子の寿命も取られる。
学校に着き、教室に入ると、もうすでに教授はいた。点呼も始まっていた。時計を見るとすでに開始時間を過ぎている。
慌てて声を上げる。
「はいはいはいはい。あのう、霧妃子います。霧妃子います」
アピールする。
教授が出席簿に丸を付けているのが見える。今日の席は前に近めのところにしよう。別に当たって何かを答えるゼミでもなし、授業でもない。
前のほうで空いている席を探すと、一つの机に――青い附箋だ。
『空いてます』
なんだこれ! もはや悪戯だろ! と突っ込みたくなったのを、私、霧妃子はそこを悠然と座り、そして附箋を剥がし、丸めて捨てました。だけど、気になったのは朝触ったものと、さっき目で見たもの、絶対ではないけれど同じ附箋だった気がする。だとすると、悪戯の犯人はこの教室に…いや待て、そうだとしたら住居不法侵入だな。ない。
時計の長針がごとりと音をたて、始まりの時間になった。
「諸君桜という物を知っているかね」
――お話が始まった。私、霧妃子は熱心に聴き始めた。
終わった。実にいい話だ。三回ぐらい涙するところがなかった。くだらん。
今日出るべき講義はすべて終わり、暇になった。
時間は正午。今日は午後から行きたいところもなし、かといって家に帰っても何もすることはない。あ、パンが切れたから買わないと。
食堂へと向かう。素うどんを頼んだ。
「あんた、たまには野菜とか食べなさいよ」
食堂のおばあちゃんは、いつも優しい。私、霧妃子はいつも感謝して、特に何も言わないで素うどんを受け取る。そして、空いている席に適当に座る。二人が腰かけられる丸テーブルだ。堂々と占領する。
「おっしょうゆ、おっ、おっ、おっしょうゆ」
カバンから持参した老舗醤油屋の醤油が入った小瓶を取り出す。ふたをあけ、素うどんにぐるりと一周。乙な食べ方だと自負している。何より素朴な料理を好む日本人らしい、この食事を誇らずしてどう諸外国に顔向けできようか、いやできまいと、私、霧妃子はしょっちゅう熱弁するのだが、いつも、こいつ、。突然私の目の前の席に座ったこいつに、いつも否定されている。
「なぁ、君よ。どうしてそんな風に食事を行うのだい? 今日はまだうどんだから醤油をかけていても何ら違和感ないように思えるが、君、野菜食べるときだって、カレー食べるときだって、なんだって醤油をかけるじゃぁ、ないか。それじゃぁ、野菜をお皿にして醤油を飲んで、カレーを醤油にして飲んでいるようなものさ」
「お前は、何を言っている」
ずるずるとうどんをすすっていく。具材がないが十分おいしい。
一代はとんかつ定食と――ド定番の料理を食べていた。面白味もない。しかも野菜はそのまま、とんかつも何もかけない上に、その無味のとんかつと白米を食べている。正真正銘の変態だ。とんかつの衣に抱かれて消えろ。
――さてと、食し終わった。
片づけようと席を立つ。一代が気づいたように目線をあげた。
「あ、ああ、そうだ、君よ。教授が君を呼んでいたぞ?」
「…教授、はいはい」
「はい、は一回でいいと何度言えばいいんだ。僕がいなくなったら君は本当にどうするんだ。躾もなってないまま、犬を放し飼いにしたくはないね」
「うるさい! 私がいつ手前の犬になったのか、申し上げてろ!」
私、霧妃子は激昂した。故に、その場を足早に去った。




