深雪(2)
ゼホン…ゼホンゴホンゴホンゴホン…コホン、コンコン コホンコンコンコンコン…っ、
薄い不織布の白いマスク越しに、がらがらと水っぽい咳が零れる。艶やかな背中までの髪、白いリボンが蝶のように揺れる。
はぁ…、
少女は小さなため息をつき、端整な顔の半分を覆うマスク越しに口唇を微かに押さえる。マスクの白が目立たないほどに白い手。
「深雪、本当に大丈夫?」
黒髪を顎の辺りで前下がりに切りそろえた、凛とした日本人形のような少女が尋ねる。
「大丈夫だってば、少し風邪気味なだけだし」
マスク越しに微笑む、深雪と呼ばれた少女。その肌は夏の陽射しの中で透き通るほど白く、その名の通り雪のよう。特に半袖のセーラー服から覗く腕は、折れそうに細く、血管が青く透けていた。
白磁の肌、まるで蝋細工のような手足…深雪は重い喘息を患い、病弱だった。
「でも、この前退院したばかりなのに、」
「もう二ヶ月も前よ」
「40日しか経っていないわ、」
「平気よ、夏風邪だもの。それに…」
言い淀んでうつむく深雪。
一学期の大半は入院してしまった深雪には、補習講座の受講が義務付けられていた。高等部に進学した時点で一年間の入院による休学を余儀無くされた深雪には、これ以上の欠席は許されなかった。
「わかった、けど具合が悪くなったら連絡してね」
深雪の面持ちに意を汲んだ小百合は、小さく手を振り、所属しているオーケストラ部の部室へと急いだ。
――ゴホ、ゴホンっゴホ…
親友の背を見送りながら、深雪は押し殺すような咳を零した。
それから三時間、
ンぅッ――…くッ、ふ…ぅ、うゥッ――…
深雪は厚手のタオルで口を押さえ、必死で咳を押し殺していた。冷房の効いた教室で肩を冷やした所為か、瞳は熱に潤み、胸がぜろりと熱い痛みに喘ぐ。ゼィゼィと、気管支の狭まる音まで混ざり始め、呼吸を間違えれば発作が起こりそうだった。
――い、嫌…、
深雪の脳裏に、教室で嘔吐までしてしまった酷い発作の経験が過る。
あんな恥ずかしい思いは、二度としたくない。できるだけ気を使われたくない……
幸い、補修講座に参加しているのは海外への留学を終えて復学した生徒がほとんどだった。深雪が重い喘息だと、知っている者はいないに等しい。
咳き込みそうになる度に、ペットボトルの水を含み、くふ、ごふ、と背中を震わせた。なんとか息を整える度に、白いマスクが口元に貼り付き、ゼィゼィと震える唇の輪郭をなぞった。
ゼヒュ―――…っ、、キぅゥゥっ、ゼごッッ
胸の奥から、扉が軋むような音が響く。はっと胸を押さえる深雪。隣の席の少女がこちらを見た気がしたが、深雪は気づかない振りをした。
――大丈夫、喘鳴なんて身近に患者がいなければわかるはずないもの
でも、痛ッ…ーー
胸の疼くような痛みは、キぅキぅと硬い喘鳴と共に強くなっていく一方で
っ――、ゼッ… ぉォォ―――…ッ!
押し殺した咳は、濁った痙攣となってほとばしった。タオルに深く顔を伏せ、ぶるぶるっと胸を、背を震わせて、咳の衝動を逃がす。思わず涙が滲み、熱にほんのりと赤い瞼と頬を一筋濡らした。
「どうしたの?涙目だけど、風邪、酷いんじゃ、」
隣の少女が流石に具合の悪そうな深雪に問いかける。深雪は咳き込まないよう、そろそろと息を殺して
「ぃ、いえ…、欠伸が出てしまって、風邪薬を飲んだから…」
語尾がぜろりと痰にもつれたが、同時に響き渡ったチャイムにかき消される。
「休み時間だけでも、保健室で休んだ方がいいわよ。だいぶ違うから」
初対面の深雪に、少女は気さくに手を振った。微笑み返そうとする口唇が、マスクの下で咳に歪んだ。
北棟のひと気の無いトイレの個室。マスク姿の美少女が、よろめきながらなだれ込む。
はァ、ハァッ、、ゼッえフ!ゼェぇフゼェフゼホゼホゼホゼホゼホンゼォンゼォンっ、、
ッは、ゼホぇッ!ゼほェッ! ッヒ――ッぐぅぅ…――ッふゼフッぜふゼフゼフゼホンゼホンゼホンゼホゼホゼホゼホ…
堰を切ったように、必死で押し殺していた咳が溢れた。立て続けの烈しい咳。深雪はマスクの口元を押さえようとするが、宛がいかけた手にゼッゼと咳を浴びせてしまう。咳き入るたびにマスクから溢れた咳が、眉の辺りで切りそろえられた前髪を吹き上げ、細い肩がゼィゼィと軋んで上下する。
ハぁッ、ゼハぁ゛ぁッ、ゼォぉ――…ッ!ゼェぇぇフッ、ゼェェ――…ッふ うゥゥ…!
ゼほぉッッ!! ゼホゲホンゲホンゲホンゲホンゲホンゲホンゲホンゲホゲホゲホゲホゲホゲホ…
走った所為で胸の疼きは強く熱を帯び、もつれた息に喘鳴がキぅ、ゼぜゥと絡みつく。
洗面台に倒れこみ、ゼィゼィゼィゼィ…嘆くように咳き喘ぐ。異音をたっぷりと絡めた咳がほとばしる度に、狭まった胸からキぅキぅと硬い痰が絡まる音が湧いた。スカートのポケットから吸入器を取り出そうとするが、指が震えて上手くいかない。
ゼッ…ゼぇェェェ―――っ、ぐ、ッゼェふ!
ゼェぇフゼェほゼホゼホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホゴホッ、、ぅ、うェッ、、
水分を奪われていく喉に、喘鳴が貼り付いて痒い息苦しさとなり、咳に咳を呼ぶ。マスクの口を覆う手の中に、猛烈な咳がばたばたと溢れては、華奢な少女の体を跳ね上げる。
――く、苦しい…ッ、
ゼぉゼぉと裏返る肺の勢いに、深雪は思わずうゥぇッ、と大きく口を開き、マスクの中で舌を突き出してしまう。
うゥ…――ッ、っあ゛ァ…ッ!ッゼほぉッッ
思わず恥らうような声で喘ぎ、マスクの上から両手で口を覆い、うッうッと押し殺すように咳き入り続ける深雪。
ゼはァッ、ゼはぁあ゛ァァァッ、、ゼェえっほ!ゼェほゼェほゼェほゼェホゼホゼホゼホゼホゼホゼホゼホっ
かシュッ、ゼヒュぅぅぅッ、
マスクをずらし、やっとのことで吸入を吸い込んだ。その時だった。
ッ――!ゼぉ゛ッゼほゼホゼホゼホゼォんゼォンゴォンゴボゴホゴホゼホゼホゼホゼホゼホゼホゼホッ
思わず白目を剥き、舌ごと吐き出すかのような咳がほとばしる。霧状の薬が喉に貼りついて、烈しく咽せかえった。まるで肺からの嘔吐のような、ぜぼごぼと粘液質な咳が、途切れることなく溢れかえる。
――痛ッ…な、何、この咳…ッ、、
まるで肺の奥深くが爛れて千切れていくような咳が、後から後から溢れて止まらない。病の層が幾重にも折り重なったような、くぐもって濁った咳。
ゼほェ!ぅうェ…ッゼぉンゼォンゼォンゴホンゴホンゴホンゴホゴホゴホゴホっ、うゥえェッ、
はくはくと白いマスクが咳に膨らみ、うぇっと吐き出される舌に突かれる。咳の狭間にゼヒュぅと胸を、背を波立たせて必死に息を吸い込む度に、マスクは鼻に、唇に張り付いて、まるで呼吸を阻む病そのもののように、咳の輪郭を縁取る。
深雪は胸を押さえながらゼイゼイと苦しみに瞳を見開き、ゼは、ゼはぁっ、とマスクの下で唇を戦慄かせて喘ぎ、何時終わるともしれない咳に咽ぶ。純白のマスクの縁を、烈しい咳で溢れた涙が濡らしていく。
ゼぇェェ――ッ えふゥッ、、ぐェぇッ…!ゼェフぅうゥ――ッ!
ゼゴぇッッ、と痰の塊が破裂するような喘鳴に呻く。わなわなっと全身を窒息に震わせ、がくりと膝をつく。
ゲホッゲホげほゼホゼホゼホゼぉっ、ぅゥッ、ゼぇぉォォっゼホゼホゼホゼホゼホぜほッぜほェ!
ヒぅゥッぜほォぉェ゛っ、、ゴぇエっ…――っエほお゛ッッ!!
ごぼッ、ばたばたばたッ、、
マスクを剥ぎ取る暇もなく、大量の吐瀉物がマスクから溢れ、床を汚した。
ゼぉエッッ、ゼぉッゼヒぃッ、ゼホゼホゼォンっゼホっゼホっ…ぅ、ぐ…ッ
苦しさにもがくように剥ぎ取ったマスクからは、粘液がねっとりと糸を引いた。整った鼻筋や、薄青の花びらのような口唇からも、べしゃりと滴る。咳を止めるため繰り返し飲んでいた水で水っぽい吐瀉物には、ねっとりした緑がかった痰がぜろりと絡みついていた。羞恥と苦しさに、深雪はうぅ、と呻いた。
ゼェぃッ、ゼェぃッ、ゴホ、うぅ゛…ッゼホ、ゼホ、ゼホゴホ、ゴホ…
汚れた口元を拭う間もなく、残滓を吐き出すような咳が零れる。
――これ、で少し楽、に…
深雪はゼひゅ、キぅ、と鳴る胸を押さえ、ほっと息をつこうとした、が
ッ――! っゼホゼホっ、ゼぉォ…お゛ッ、ゼホゼホゼホゼホンゼホゼホゼホゼホゼホゼホっ、
うゥ…っゼぇエほっ!ゼホゼホゼホゼホゼホゼホゼホゼホゼホゼホぉお゛ッ、
咄嗟に汚れた口を両手で覆う。息は吸い切らないうちに咳となって膨れ上がり、再び胃と肺を裏返した。
ゼェえふゥうゥッ! ゴッ…ぉホえ゛ほォゼホンゼホンゼホンゼホンゲホンゲホンゲホンゲホンゲホンゲホンっ、
ゼはッ、ゼはァあ゛ッ…!っゼぉォォ――っゼォンゼホンゼぉォォンゼォンゼぉンゼぉンっ、ゼゴぇェェェ――っ、、
まるで肺が吼えているかのような咳、咳、咳。
――く、苦しい…ッ、で、も…吐ききれば、吐ききれば楽になるはず…、
胸の奥でゼロゼロと疼く熱は、ずるずると尾を引くように咳いて、咳いて、咳いて、吐き出されぬままごぅごぅと少女の胸で、喉で、あざ笑うように横たわる。
ゴぇぇ゛っ…ゼぇエほっ、――ゼぼお゛ッッ!!
吐瀉が、涙が、鼻腔を塞ぐ。胸を掻き毟り、白目を剥いて、ゼォごぼと胸の病んだ澱を吐き出した。
ばたばたばたッ、びしゃッ、、
深雪は洗面台に縋ったが、間に合わずに、水のような吐瀉が紺のスカートを再び黒く染めた。
はぁッはァッ、ゼホ、ゼホン ゼホ、ゼホ、ゼヒューー…ッゼぉ、ゼォ、
ゼォンゼホンゼホンゼホンゼホンゼホンゼホンゼホン…
吐き出したものを見て、深雪は苦しみの中で愕然とする。吐き出せたのは水と胃液ばかりで、胸の痛む澱みはそのままに、ぜろぜろ、ぜひゅうごひゅうと再び鎌首をもたげていた。
「そ、んな…ッ――うゥ…ッ! 」
ゼォっ、、ゼォンゲホン、ゲホゲホンゼホンゼホンゼホンゼホンゼぉンっ
ッぜほっ、ゼホンゼホンゼホンゼホンゼホンゼホンっ、ゼびゅぅうゥゥ…ッ!
吐ききれなかった痰が絡みつき、また窒息しそうな咳を呼ぶ。
――さ、小百合…
深雪は震える手で携帯を取り出したが、吐瀉物に塗れた制服に、はっと指を止め、
――い、嫌…ッ、こんな、こんな姿、小百合にも見られたくない…!
うぅ゛…ッ、ゼゴぉッ、ゼハぁ゛ぁッ、ゼォぉ――…ッ!
まるで胸の奥を大蛇が這いずるような咳に、身を折り曲げた。気管支が浮腫み、その隙間を痰がゼロゼロと尾を引くような咳が、がぼがぼとせり上がる。深雪は便座に顔を埋め、
ゼェぇ――っゲぇンゼェンゼェンっ、ぅゥぶ!ゼゴぉぉ゛ッ、ゴボンゴボンゼぇふッ
ゼロゼロと這いずってくる吐瀉に嬲られるまま、咳いて、咳いて…何度吸入しても喉に貼り付いて、余計咳き込み吐きそうになる。
――苦しい、苦しいッ、このままじゃ、窒息…だ、誰か・・・
深雪は震える指で、必死に小百合の番号を押した。
「さ、ゆ…ッゼぉ゛っ、ゼゴぉォォォ――・・ッ!ゼホゼホゴボゴホゴホゼホぉ゛ッッ、、」
“深雪! どうしたの、発作が酷いの?! だから言ったのに…”
電話の向こうから聞こえる小百合の声に、縋りつく深雪。が、烈しい咳がそれを阻み、
「ッくる、し…ッゼォほぉ゛ッ、、苦 、しいィィっ!ゼえ゛ほ!ゲボゼホゼホゼほお゛ッ、、」
ぼたたっ、ガぼッッ、、
泣き叫ぶ咳とともに、嘔吐ががふりと胸に、制服に溢れ、儚い少女の身体はトイレの床にくずおれた。
“みゆき!!”
遠くから、小百合の声が聞こえる。
ゼッほゼホゼホゼホゼふゼふ…ッヒーー…ッゼッゼッゼッ…ゴぼッ、、
深雪の口元を泡のような吐瀉が伝い、床を濡らしていった。
深雪の虚弱な胸は、エアコンの微小なカビや雑菌が原因の肺炎を起こしていた。吸入にも咽せぶ深雪は、処置を受ける間にも真っ青になって咳き込み続け、再び嘔吐し失神するまで苦しんだのだった。