表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

せんぱい、の、バケツ

作者: 早河素子

【4/30】後半、あからさまに矛盾した記述を修正しました。

【5/8】誤字脱字や表現の乱れを修正しました。一部表現も変更。これはこれとして、完成として、ゼミで頂いた批評を受けて全面的に改稿したいと思います。

 僕は今、病院にいる。なんでいるのかと聞かれても僕には良く分からない。強いて言えば、それが分からないからこそいるのだろう。

 ここに書くのは僕の周りで起こった事でそれに僕と言う存在も付属している、そんなカタチの物語になると思う。この手記の中では僕はいつも孤独な観察者だ。でも、そうじゃいられなくなって今はここにいる。

 これは僕が先輩に憧れた話。先輩を視ていた話だ。そして、いつの間にか視ていたはずの先輩に視られるようになった物語。

 先輩が視てくれる事が怖くて苦しくて嬉しくて楽しくて、気がついたら檻の中で三食昼寝付き時々診察の生活をするようになった間抜けな僕の手記。

 これを読む人には先輩の事を分かって貰いたい。本物の先輩ではなくて、僕の中に存在する先輩の事を。一緒に視て視られて欲しい。

 それでは始めよう。これは僕と先輩とバケツのこんがらがった物語。




 先輩はいつも何か難しい事を考えているように見える。その上、何事につけても反応が淡白で人間味が薄い。そもそも滅多に笑わない。大学に入学して、先輩と一緒の『SF研究同好会』に入ってもう一年半ほど先輩を近くで観察している僕でさえ、先輩が笑うのを視たのはほんの数回しか無い。その笑いですら僕には理由が読めない。

 先輩はごく稀に分厚いハードカバーの哲学書を、控えめな笑い声をあげながら漠々と読んでいる時がある。先輩がその本を読み終わってから、僕もその本を撫でたり嗅いだり舐めたり(舐めると言っても表面がよれない程度だ)して、最終的にそれらの無効を悟り(実際分かるのは紙と先輩の指の味と匂いと温もりくらいだ)観念して実際に読んでみたところで、興味深いという感情が湧きこそすれ先輩のようにクスクス笑うような部分は見当たらない。だから、先輩が笑っていた時に一度聞いてみた事がある。

 なんで笑ってるんですか? って。

「笑ってないよ」

 先輩はそれだけ答えてさっさと読書にお戻りになられた。

 僕はそれから一ヶ月の間、先輩の発言の意味について真剣に吟味してみた。心理学の分厚い本も何冊か読んでみた。最終的に何も分からなかったが、気づいた事はあった。恐らくあれは先輩のユーモアだったのだ。素晴らしく分かり難いと僕は思うが、僕のほうが鈍いだけかも知れない。

 僕は先輩を視ているのが好きだ。恐らく、一日中視ていても飽きないだろう。実際、先輩を一日中観察しようと努力している。以降に幾つか、先輩に関する僕の当時の日記を引用する。



 四月二十日


 今日、僕は素晴らしい人に出会った。僕より一つ年上で学年も一つ上、つまり先輩だ。先輩とは大学の部室棟の三階の端っこで出会った。

 先輩は部室の前に机と椅子を出して静かに本を読みながら座っていた。机の上にはくの字に折れ曲がった『SF研究同好会』というプレートがちょこんと載っていた。一応、新入生の勧誘のつもりらしかった。誰も先輩と先輩の会に興味を持った人はいないようだった、僕を除いて。

 僕は先輩の近くに寄って読んでいた本を覗き込んで、たぶんSFは好きかどうかなんて阿呆な事を聞いた。そんな事"SF研究同好会"とやらの人間にする質問ではない。僕はその時すでに、先輩という存在との邂逅に舞い上がっていたのだと思う。

「私にはSFの普遍的定義が定められない。だから、好きかどうかは分からない。でも……」

 先輩はそこで少し躊躇ってから言った。

「……たぶん、好き」

 先輩は僕の質問を真面目に捉えて答えてくれた。その時には僕は、この部に入ろうという気になっていた。他にも同好会の事を質問してみたが、教えて貰えたのは、現在の会員は先輩だけであること、活動と言えば部室で本を読むだけだということだった。

 ここで先輩がどんな女性かも少し書いておこう。あとでこの日記を見直すときに興味深いかも知れない。

 先輩を一言で表すなら現実感を伴った夢。恐らくそれは先輩の彫刻的な美貌に由来する。彫刻家の脳内からそのまま削りだされたようなくっきりとして官能的なラインの細面に僕は陶酔しきってしまった。

 髪は黒檀の芯のように黒く艶やかで長く、しなやかさに溢れている。右目の下の泣き黒子は先輩の思春期の少女のような青白い肌にあって一種砂漠のオアシスのような役目を担っていた。先輩の繊細で美しい皮膚はあまりに眩し過ぎて、長い間直視し続けると目が潰れてしまいそうなほどなのだ。そこで仕方なく彼女の綺麗な瞳と頬骨の上部との隙間に浮かぶ黒いオアシスで視線を一休みさせる事になる。

 先輩の細くたおやかな指が書籍のページをめくる為に流れるように滑らかに決まりきった動作を反復するのを視ると、何故自分が書籍でなくて人間に生まれてしまったのか後悔が僕を襲う。後悔したところで仕様が無いのだけれど。

 もっと先輩の事が知りたい。もっと先輩を視たい。



 これは僕が初めて先輩と遭遇した日の日記だ。元々、僕はごく気が向いた時のみ日記をつけていたが、この日より暫くは、ほぼ毎日つけるようになった。勿論の事ながら、殆ど全ては先輩に関する内容だったけど。

 これからしばらくの僕の行動は先輩の熱心な信奉者という枠に収まると思われる。せいぜい肉眼で先輩を捉えて、脳味噌のしわに先輩を写した画像を蓄える程度の事しかしていなかったからだ。

 そのうち一線を犯すチャンスが僕に訪れる。もっとも僕は自分が何か悪い事をしたとは思ってはいない。ただ、医師がそれが一線だったと言っていたのを聞いた事があるからに過ぎない。医師曰く「君は非常に不安定な精神状態だったところに来て、○○さん(先輩の苗字)の無防備な部分に接して歯止めが利かなくなってしまったのではないかな?」

 馬鹿らしい。何の事は無い。来るべき時が来て、僕は先輩の観察者として然るべき事をしたのみだ。



 八月十六日


 今日も先輩は美しかった。キャンパスの中庭のベンチに足を組んで座り読書する先輩。僕が外で本を読もうと誘って(部活の一環だ)、部室の外に連れ出したのだ。ちょうど木陰になっていて涼しい。先輩も特に不満は無いようだった。

 僕は隣で本を読むふりをしながら、先輩の脚をこっそりと鑑賞した。先輩は女性としても小柄な方だと思うし手も足も細く小さいが、骨と皮だけというのとも違う。絶妙なバランスで、少女の華奢で儚げな足と成熟した女性の指の吸い込まれそうなむっちりとした肉叢の間を揺れているのだ。

 隣に座っていては正面から先輩の足を眺める事が出来ないので、僕は飲み物を買ってくると言い訳して一旦先輩の居るベンチから離れ、まず離れた位置から用意しておいた双眼鏡から、組まれた先輩の両足を覗いた。その後は飲み物を買い(先輩の好きな飲み物は緑茶だ。メーカーにはさほど拘らないらしい)、肉眼で先輩の足を視ながら最大限の時間を掛けてベンチのところに戻った。

 先輩の折れそうにか細い足首、愛らしい踝、それらに僕が魅了されるのは当然の事に思えた。

 僕が緑茶の缶を差し出すと、先輩は礼を言って受け取った。手に持っていた本に栞を挟み、表紙を上に向けてぴっちりと閉じて膝の上においた。

 プルトップをぱきっと小気味良い音をたてて開けると、先輩は緑茶の缶に口をつけた。よっぽど喉が渇いていたのだろうか、無口で無表情な先輩がこきゅこきゅと微笑ましい音を出しながら一生懸命に緑茶を飲む姿を見て、僕は奉仕者としてのえも言われぬ悦びに打ち震えた。

 沈黙を好む先輩との会話の糸口を常に模索している僕は、先輩が膝の上に置いていた本にすぐさま目をつけた。先輩が缶を口元から離すと同時に僕は声を掛けていた。

「最近、東欧系の作家の作品よく読んでますよね、先輩。僕も読んでみたいんですけど、お薦めとかあります?」

 先輩が普段読んでいる書籍は全て確認している。最近はアレクセイ・トルストイ、イワン・エフレーモフときて、今日読んでいるのはストルガツキー兄弟の『収容所惑星』だった。読んだ事はないが、全員がソ連圏の著名なSF作家達だ。

 先輩に話しかけるのが主目的とは言え、全く興味が無いというわけでも無い。先輩と数ヶ月過ごす内に僕も立派なSF読みになっていたからだ。

「家に来てくれれば、私のもう読み終わった本を貸す……それで良ければ」

 先輩が何でもない事のようにさらっと言い放った言葉に僕は愕然とした。何故なら、その言葉こそ僕が先輩と出会ってからずっと求めていたものだったからだ。

 しかし、今日すぐにというのは都合が悪かった。計画を実行するためには入念な準備が必要だ。僕は先輩に都合が悪い旨を伝えて、明日では駄目かと聞いてみた。断られたらと思うと心臓が張り裂けそうなほどの収縮と膨張を繰り返した。

「私は別に用はない。だから構わない。明日、講義が終わったら部室に居て。家まで案内する」

 先輩の言葉はご他聞に漏れず素っ気ないものだったが、確かに言質を取ったことには変わりなかった。

 その後も先輩としばらくはそこにいたが、都合が悪いと言った事を怪しまれるのが怖くなって別れて家に帰った。

 帰宅してから、この日記を書き始める前に必要な準備は終えておいた。

 明日が楽しみだ。これからは先輩の事をいつでも視ていられる、いつでも。



 八月十七日


 今日は講義の最中もずっと上の空だった。頭の中では先輩を中心とした計画が組み上げられていたが、僕の想像の中でそれらはぐらぐらと揺らぎ続け、今にも空中分解しそうだった。

 先輩は今日は午後も講義がある日なので、先輩が部室に来るのは三時を過ぎてからだと思われたがそんな事は関係なく、講義が終わると僕は部室へ急いだ。

 先輩が来るまでの間、僕は特にする事もなく部室に置いてある本を次々と手にとっては眺めていた。

 先輩がようやく部室に姿を現すと、僕は急いで荷物をまとめ先輩に従って大学を出た。先輩の家は大学から電車で三駅、駅から徒歩十五分の場所にあった。

 見た目は一軒屋と言うより邸宅と呼ぶに相応しい威風、築二十年以上は過ぎていそうに見える。駐車スペースもあり白いセダンが停まっていた。しかし随分長い間手入れをされた様子も無く、駐車スペースには庇もあったがそれでも間に合わないほど放置されているのか、凄まじい量の塵が堆積している。発掘作業を行えば化石や土器が発見できそうな雰囲気だった。

 実に先輩らしい家だと思った。車は徹底的に風化に任せているのに、庭を通って玄関に至る道は掃き清められており、建物自体も古びた印象は大いに受けるものの、むしろ建築美が浮き彫りになり、気圧されさえする。その先輩が掃除したのであろう道も、人工的なものというより、独りでに出来た獣道のようなものに見えた。そう思うと先輩は廃墟に住み着いた一匹の狐のようにも思えて、僕はくすりと笑った。

 先輩自身の佇まいも古代の神殿の廃墟といった風情で、人の手から遠ざかり確実に風化することよって、人工的な部分を徐々に剥ぎ取られ自然へと戻りつつあるが、未だその中に残された腕や頭部を欠いた古代の女神達や神殿を支える優美な装飾を施された柱は、鑑賞という本来の役目を喪失しながらもその被造の美を秘めたまま時の流れに身を任せ、ただ呆然と存在するのだ。

 閑話休題。

 先輩が鞄からじゃらじゃらと鍵をぶら提げたキーホルダーを取り出して、その中から一つ選んぶと鍵を鍵穴に差し入れて鍵を開けた。僕は一瞬ちらりと見えた鍵の形状をしっかりと脳裏に焼き付けた。このチャンスできちんと鍵の形状を記憶出来るかどうかが計画の要だからだ。

 ありがたい事に家の中はハウスキーパーでも雇っているのかと思うほど綺麗だった。廊下も磨き上げられているし、窓枠には塵一つ無かった。

 居間に通された僕はそこで機会が巡ってくるのを待った。先輩が出してくれたお茶を飲みながら話を聞いたところ、この邸宅は元々先輩の祖父が住んでいたらしい。先輩の祖父が亡くなった後高校生だった先輩がこちらの高校に通うために一人で越してきたとの事だった。

 一息ついたあと、先輩に従って書斎に行き先輩が示した数冊の本を居間に運び出した。僕は大きめのバッグを用意していたのでその中に先輩から借りた本を仕舞って礼を言った。

 その後も僕はしばらく先輩のお薦めの作家に関して質問をした。先輩の家に居る時間を引き延ばすためだった。少しすると無口で無表情なはずの先輩は何故か表情を変えていった。決して家に居座る後輩に怒ったわけではない。普段から先輩の事を視ている僕でなければ気づかないほどの微細な変化。どこか困惑と羞恥が交じり合ったような表情をのぞかせていた。

 先輩は突然席を立つと僕を残したまま、居間から出てどこかに向かった。十中八九お手洗いだろう。恐らく先輩は強烈な尿意に襲われていたはずだ。僕が先輩の隙を見てお茶にフロセミド(強い利尿作用を持つ薬品だ)を混ぜておいたからだ。突然の猛烈な尿意に混乱する先輩の表情は素晴らしく僕の歓心を誘った。

 先輩が部屋から出て行くと僕は急いで先輩の鞄を探った。そこにはこの邸宅の鍵が入っていた。そうだ、これが僕の本来の目的だった。沢山ある鍵の中から先ほど覚えておいた鍵を見出した僕は、特殊な型取り用の粘土を取り出し、慎重に慎重を期してそれに鍵を強く押し付けた。しっかりと型が取れた事を確かめると鍵を元に戻し、バッグの中に仕舞った。

 それから先輩が戻ってくるまで待ち、再び丁重に礼を言って先輩の家を出た。

「そう。では、また明日」

 そう言って僕を見送ってくれた先輩は、もういつもの冷静な先輩に戻っていた。

 家に帰った僕は鍵の型を取った粘土からそっくり同じものを複製した。これでようやく僕の計画の第一段階が終了した。明日からが楽しみだ。



 日記はこの日を境に中断する事となった。先輩に関する事を記録する手段が別の媒体に切り替わったからだ。僕は次の日から大学を数日休んだ。もちろん仮病だった。

 大学を休んだ僕は複製した鍵を携えて無人の先輩宅へ向かった。先輩の家に機材を運び込む為だ。五十以上のカメラと設置のための工具は相当な大荷物になるため、数日に分けて運び込まねばならなかった。

 幸い、広い邸宅には先輩が使っていないと思しき部屋が幾つもあったお陰で、他人の家だというのに隠し場所には困らなかった。全ての機材を運び終えて後は、巧妙な偽装を施しつつ邸内各所にカメラを設置した。先輩に気づかれないようにそれだけの数のカメラを設置する事は至難だった。

 とうとう全てのカメラを設置し終えた僕は、その日から先輩の生活を観察し始めた。大学が終わって先輩と部室で別れた後も、僕はずっとモニター越しの先輩と一緒にいた。カメラの設置に一番悩んだのは浴室だった。先輩の美しい裸体を鑑賞するためのもっとも重要なプランについて僕は必死に頭を捻った。カメラはかなり値が張ったが防水性で高性能なものを用意し、浴室内の三ヶ所に取り付けた。

 そうして僕は(少なくとも表層的な部分については)先輩本人以上に先輩の事を知るようになっていった。

 先輩は朝が弱いので目覚ましを三段階に分けてセットしている。六時に一回、六時十五分に一回、六時三十分に一回目覚ましが鳴り、それからようやくベッドを降りる。

 先輩は寝る時、長い髪が乱れないようにナイトキャップをしている。フリルで装飾されたピンクのナイトキャップを被って、眠そうに目元を擦っている先輩は愛らしい天使のようだ。

 先輩のいつも朝食にジャムを塗ったパンを食べる。先輩はいつもちょっと焦げるくらいまで食パンを焼いてバターを塗ってかりかりと食べる。たまにほっぺたにジャムが付いていることもある。

 先輩は毎朝、家を出る前に必ず祖父の仏壇に声を掛ける。帰宅すると線香をあげる。先輩は祖父を敬愛していたようだ。

 先輩は家に帰ると必ず手洗いうがいをする。玄関では靴もきっちりと揃える。きっと両親の躾が良かったのだろう。

 先輩は毎週金曜日に決まって買い物に行く。一週間の食材、生活用品、大学で使う文房具、書籍等々全てを一気に揃えようとするので毎回両手に凄い荷物になる。それでも先輩は家に帰ってくる頃になっても表情一つ変えず、疲れた様子も全く見せない。その姿が何となく誰も見ていないのに一人で意地を張っている自意識過剰な子供のようで、僕はつい微笑んでしまう。

 先輩が家の中でもっとも長い時間を過ごすのは寝室を除けば、お祖父さんの書斎だ。そこは小さな図書館と呼べるほど各種文学、辞典、論文が揃っていて、そのお陰で先輩が書店で購入するのは最新の書籍が殆どだ。わざわざ購入しなくても大抵の古い本はそこに埋もれているからだった。

 先輩は週に一度しか浴槽にお湯を溜めない。その日以外はシャワーで済ます。その日とは日曜日の事で先輩の中では一週間のリフレッシュをする特別な日に位置づけられているらしい。

 先輩がシャワーを浴びる姿はどれだけ視ていても飽きる事が無いかのように思える。実際そうだろう。浴室の外に仕掛けたカメラには徐々に徐々にあらわになる先輩の肢体が毎日映し出される。先輩はいつも上着から脱ぎ始め、最後に靴下、下着の順番に脱衣を行う。下着しか先輩の裸体を覆うものが無くなり、先輩が自ら下着に手を掛け、後ろ手にホックを外し、程よい張りを保った細く伸びた足から抜き取る時、僕の中で官能のカタルシスの序章が始まる。

 先輩は水がお湯に変わるのを待ってシャワーを浴びる。お湯が先輩の鎖骨に当たり飛沫を散らしながらほっそりとした身体と対照的にふくよかな胸の谷間に流れ込み、なだらかな腹部を伝わり、薄い茂みを濡らし、両足から床へ流れる。カメラが仕掛けられたマジックミラーを湯気が曇らせる。時折、じっと鏡に視線を向ける先輩に、気づかれているのではないか、という疑惑が僕をひやりとさせる。

 シャワーを浴び、身体を洗い終えた先輩は浴室から出て、柔らかなタオルを濡れた髪に滑らせる。長い髪をタオルで纏めると新しいタオルで身体を拭う。先輩の白磁の肌に浮かぶ水滴がふっくらとした繊維に吸い込まれて行く。

 そして再び先輩が下着を身に着け、服に袖を通す。そうして僕の中でヴィーナスの浄化と転生の儀式が完成するのだ。

 入浴を終えた先輩は髪がある程度乾くまで居間で読書をし、ドライヤーで乾かした後はベッドに入り、十二時頃まで読書して就寝する。

 僕は何時でも先輩の事を視ている。

 閑話休題。

 先輩の本格的な観察と同時に僕が開始した作業がある。先輩の等身大ドール製作だ。その為に必要な資料は全て揃えた。様々な角度、距離から撮影しているカメラから画像を抽出し、それらから先輩の身体データを導き出した。

 後は、僕の美的感覚と先輩への愛が物を言う。

 僕はホームセンターで購入してきた画用紙を数枚張り合わせて、大きな一枚の画用紙を作った。それらに先輩のパーツの大凡の形を描きだして行く。頭、胴、腕、大腿、太腿、手足は骨組みを入れて、また別に製作するため、描きこまないでおく。

 そして、その周囲を少し感覚を開けて線を入れる。後で、図面に合わせて切り出した発泡スチロールの形を整えるために削る時のことを考えた上での配慮だ。

 出来上がった図面に合わせて、発泡スチロールの巨大な塊から、ニクロム線を利用して手作りした切断機を使ってそれぞれのパーツを削りだしていく。削りだしたパーツの形を鑢で削り、形を整える。

 何種類かの粘土を配合したものを発泡スチロールの上に盛って行く。発泡スチロールは粘土の体積を考慮した設計図から削りだしてあるので、僕だけの先輩が完成時に独活の大木になる心配は無い。

 全ての粘土が乾燥して、完全に固まったら、中の発泡スチロールを棒などを使い、首や手足の接続部に開けた穴から掻き出す。

 冷たく固まった先輩の偶像、未完成の偶像からぼろぼろと崩れ落ちる内臓をがりがりと掻き出して、代わりに虚無と僕の魂を入れ込んでいく。


 眠るように横たわった先輩の柔らかな腹部にゆっくりとメスを這わせる。まずは表面の皮膚に切れ目を入れ、臍から垂直に切り下ろして行く。皮膚にぷちぷちと血滴が膨らむのをじっくり眺める。その後、初めに入れた切れ目を外れぬよう細心の注意を払いながらメスをぐいと肉に押し込んで行く。

 表面の薄い脂肪層を抜けた刃が適度に引き締まった筋肉の束を綺麗に切断していく。腹腔内は思った以上に空洞で、先輩の大事な大事な中身が詰まっている。

 先輩のキュートな胃を切開してみる。ぬめる臓器を固定して、メスをまっすぐに走らせる。

 半分ほど溶けた胃の内容物をスプーンですくってみた。酸っぱい匂いが僕の鼻腔を刺激して、官能を高ぶらせる。緑黄色系の野菜だな。ほうれん草のお浸しを食べたみたい。それと魚の骨、先輩、よく噛まないと駄目ですよ。どろっとしたそれをスプーンで口に運び、口腔内でねっとりと嬲るように味わう。えぐい酸味の濃厚なスープ。先輩の中で生産された流動食は刺激的な塩酸のスパイスが効いていた。

 体表面温より暖かな大腸と小腸を引っ張り出して、ぐにぐにしてみる。やわらかい、母の温度がする。

 大腸にもメスを入れ、中身を指でかき出してみる。小腸で水分を吸収される前なのでかなり水っぽい、すするように飲むと、喉が潤った。

 先輩の中身をすべてかき出し、喰らって、代わりに中に納まりたい、そういう感情に襲われる。子宮回帰願望に近いものだろうか? 分からない。


 無意味で、先輩の人形に似て空虚な妄想は終わりを告げ、僕はやすりを強くかけすぎていた事に気づいた。深く掘り込みすぎて、異常に浮き出た肋骨の模りに指を這わせる。

 上から粘土を塗り込んで、厚みを増し、再びやすりをかける。

 おおよその形が整うと、次はサンドペーパーで表面を滑らかにして行く。

 僕はかすかに触れる事のある先輩の手の甲と指の感触を思い出しながら、その記憶を人形の膚に塗り込んでいく。

 徐々にサンドペーパーを目の細いものに変えてゆき、それにしたがって人形の膚も吸い付くような滑らかさを獲得していく。関節の無い人形の指の一本一本まで、僕の魂を篭めて研磨していく。

 万遍無く鞣された膚に、人形の胴に頬ずりする。何百回も何千回も先輩の不鮮明な裸体を鑑賞しながら、記憶に刻み込んだ胸部のふくらみとなだらかな鳩尾から恥丘に掛けての曲線は完璧なまでに再現されているように感じた。

 雑然と並べられた人形の手足、眼球の無い頭部にぽっかりと虚ろな闇を湛えた眼窩には鉛のようになった僕が沈み込んでいきそうになる。

 裏返った吸盤のような形のアクリル製の義眼を接着剤で固定する。カメラの画像を何度も拡大解析して、先輩の瞳孔のサイズや虹彩の色を把握し、もっとも近いモノを幾つもの店を回って手に入れた。

 アクリルの人工的な瑞々しさが眼窩の暗黒を飲み込んだ。空虚な眼底の裏側には僕自身が眠っている。

 四肢に空いた穴に削りだされた球体関節を嵌め込んでいく。弾性のある紐を繋げるように通して、わかたれていた四肢をしっかりと接合する。

 先輩の為に購入したアンティークのスツールに座らせ、壁にもたれ掛けさせる。

 先輩の膚にアクリル絵具で生命の温かみを塗り込んでいく。頬を染める先輩、僅かな胸のふくらみの先端、乳頭の赤み。

 購入した市販品を加工した睫を、先輩のぱっちりした二重の下に慎重に貼り付ける。

 全裸の先輩の足を持ち上げ、慎重に濃い黒のストッキングを滑らせる。先輩の細くたおやかな下肢を黒い薄絹が覆っているのを視るのは神聖ですらある。

 上手に先輩の身体を後ろから抱きかかえながら、派手でない程度に柔らかいフリルをあしらった下着を手足に潜らせる。

 神々しさを増した先輩の肢体をゆっくりと堪能した後、再び細心の注意を払ってスツールに座らせる。握った手の甲を持ち上げ、そこに恭しく接吻した。

 先輩の手は膝の上に軽くのせ、僕は先輩の足元に女王に傅く卑しい召使のように這い蹲る。

 搾り出すような声で先輩のお御足に触れる許可を嘆願する。黙ったまま身動ぎ一つしない先輩の心が鏡合わせの僕に映る。

 室温と同期した先輩の体温をふくらはぎに押し付けた頬に感じる。ひんやりとしたふくらはぎに頬の接地面からじんわりと人肌の温かみが伝わり始める。入れ代わりに僕の体温は奪われているはずだが、性急に鼓動を刻み始めた心臓が熱を持った血流を頬の接地面に送り込み、むしろ熱は上がり続けている。


 汗ばんだ肌、荒い吐息、官能に緩んだ瞳、それらが先輩の真新しいアクリル製の眼球に映りこんでいた。自涜のエクスタシーとその背徳感、霊的な狂気に彩られた醒めやらぬ興奮、何もかもを打ち捨てながら得たもの、平生の、手を掛けた瞬間に消え失せる幻の虚しさは無い。先輩は表情一つ姿勢一つ変えずに、僕の目の前の空間を占めていた。

 いつもなら、精緻に再現されつつも砂上の楼閣に過ぎない妄想は消え去り、後に残されるのはちっぽけな絶望と鋭く切り裂かれて血を流す空漠な自尊心だけだった。

 掴んでは消え、また視界の端をちらつく空想を現実で補強するという事、もう後戻りは出来ない。

 永遠に消えない妄想の具現が、僕の心の中の何かを加速させていた。



 数日間は自宅で先輩に夢中になっていた僕だったが、久しぶりに通学を再開する事にした。さすがに大学を休んでばかりは居られない事ともう一人の先輩への思慕が募ってきたからでもあった。物言わぬ先輩に飽きたというのでは無い。僕は彼女に自分の心血を注いだ。僕の思い入れが強まれば強まるほど、彼女は先輩そのものに感じられた。

 それでも抑えがたい先輩を求める心に突き動かされ、僕は午前の講義に顔を出した後、部室へ向かった。

 いつかと同じように部室に置かれた本を本棚から取り出しては矯めつ眇めつし、そわそわと適当にページを繰っては戻すという事をしていた。

 ふと、ドアの外に人の気配を感じた。

 こんこんっ、とドアをノックする音。外の気配はドアノブに手を掛けてがちゃりと回しかける。

「誰か、いるの?」

 先輩の声だ。鍵が開いていた事で、中に先客が居ることを悟ったのだろう。

「……僕です。すみません、最近顔を出せなくて。風邪を拗らせてしまって、大学の方もしばらく休んでたんです」

 声はわずかに上ずっていた。しかし、何か感づかれるような理由はない。

「……そう」

 いつも通りの先輩の無愛想な返答に、僕は得体の知れない不安を感じていた。扉の向こうで、金属同士が擦れあうきいきいという耳障りな音がした。再び、ドアノブに手を掛けた先輩が扉をゆっくりと押し開いた。

 血のような鉄臭さが僕の鼻腔をつんと刺激した。本棚と本、どちらも樹木を原料に作られたものが醸し出す生命的な温かみと午後の麗らかさに満ちた室内で、その金属的な感触はあまりに異質だった。

 先輩の血の通った手足が僕の目の前に姿を現し、しかし殆ど無表情ながら、いつも僕の情感を刺激する先輩の面貌は、一か所の四角い目出し穴を除いて完全に覆い隠されていた。

 古びて薄汚れた。所々に赤錆の浮き出た。ぎざぎざ縁の四角い目出し穴を備えた。せんぱい、の、バケツ。

 先輩は紛うことなきバケツを被っていた。いや、バケツでは無い。それは確かに元はバケツであったが、目出し穴を開けられ、液体を満たすというそのバケツとしての存在目的を果たせなくなったそれは、バケツとは別の何かだ。

 バケツの縁からは先輩の長い艶やかな黒髪が溢れるように流れだし、肩へと降っている。其処に居るのは、人間とバケツの合の子、先輩ともバケツとも一線を画す何かだった。

 まるでマスプロダクションされる製品がベルトコンベアを流れていくように淀みなく、先輩はパイプ椅子に着き、肩に掛けたバッグを机に置き、開いてハードカバーを取り出す。

 普段のその様子がモリゾやルノワールが描く絵画のように見えるとしたら、今日のその光景はブルトンかダリ、キリコの描くシュルレアリスムの絵画のようだ。

 僕の、意識に、現実に、妄想に、混乱を生じさせようとしている。光景、光景、光景。相変わらず鼻腔を突く金属的異臭。目が離せない。その光景。僕は先輩を視ている。

 しかし、駄目だ、観測、いや、凝視、監視、透視、見抜かれている。

 僕には先輩の一切が覆い隠されていた。あれだけ親しんだ筈の先輩の面貌をくっきりとそのバケツを被った人物の頭部に重ね合わせ再現しようという僕の創造的努力は失敗した。

 捉えどころの無い、僕の現実を越えて横たわる超現実が、そのぎざぎざ縁の目出し穴から覗いていた。

 視ている。視ているのだ。すっすっとページを繰りながら、先輩がふとこちらを視る瞬間がある。その眼は暗がりに隠れて僕からは確認出来ない。

 その眼、出発点を失った視線のみが僕の上を彷徨う。彷徨う?

 僕は先輩を視ている。確かに視ているのは間違いないが、僕の瞳に映るバケツを被った怪人は先輩なのか? 人間は顔という器官に、相貌認識に、眼球に、人の識別を任せているのではないか。それらを確かめる手段を失った今、僕は目の前にいる怪人が先輩であると確かめる事は不可能ではないか。

「……どうしたの?」

 バケツの怪人が僕に声を掛ける。先輩の声色によく似ているが、かなりくぐもった反響を伴った音声、空気の振動の絡まりがある。これは先輩の声だ、バケツの中で反響してくぐもって聴こえるだけ、そう言い聞かせても僕のどこかが納得しない。

 僕は先輩を確かに誰よりも、より明確に認識していたはずだった。平生から先輩に張り付き、その日常を観測していたはずだった。しかし、僕の目の前のバケツの怪人は、僕の現実を超えた何かに他ならなかった。

 バケツの取っ手が、赤錆の浮いた取っ手が、きいきいと音を鳴らして揺れる取っ手が、バケツが僕に迫ってくる。

「顔色、悪いみたいだけど?」

 僕の中の知的で彫刻的な先輩の美貌の偶像は、汚らしい、じゃりじゃりして、耳障りな音を立てる、貪欲なまでのバケツの空漠に押し潰され始めていた。

 だが、バケツの奥の視線は確かに僕を捉えて離さない。がんじがらめに絡め捕られて、僕の精神は恐慌をきたし、冷たい汗ばかり滝のように流していた。

 先輩の存在を確として定義づけていたはずの僕の視線は対象を失って、泣き叫び、寄る辺を失った対立する狂気と理性はどちらも途方にくれていた。

 単なる視る視られるの立場の逆転では無い。僕の前に現出したのは不完全な異質、不完全であるが故に、どっちつかずの不安を伴うもの。超えてきたものが僕を視る。僕にはそれを視る事は能わない。単に見ることは出来る、光の反射を網膜に捉える事は出来る。しかし、僕には視れないのだ、理解が及ばないのだ。

 風景が捻れて視える。バケツの怪人から歪みが生じて、視界全体にノイズが混じる。視る事は不可能だ。

 音声が捩れて聴こえる。バケツの中でくぐもった空気の振動が、聴覚を掻き乱す。聴く事は封じられた。

 これは、なんだ?

 なみなみと溢れんばかりに注がれた不安と苦痛が濁流となって流出する。理性も狂気も一緒くたにし、綯い交ぜにして押し流す。

 僕はパイプ椅子を蹴るようにして立ち上がると、背後から投げ掛けられる困惑の混じるくぐもった声を無視して、部室を飛び出した。


 得体の知れないが故に、より具体性を増す恐怖感に追い立てられ、僕は走った。午後の講義の事が一瞬頭を過ったが、それは過っただけのことだった。

 気が付くと自分の住むアパートから徒歩一分ほどににある児童公園のベンチにへたり込んでいた。

 ゆっくりと呼吸をし、激しく打つ心臓を鎮め、肉体的には落ち着きを取り戻す。がっしりとした木製のベンチに座っていてすら、何やら得体の知れない感触を感じて沈み込みそうになる。

 もはや僕は逃れられないのだった。何処へ逃げてもあれは追ってくるだろう。何故なら既にあれは僕自身なのだから。

 それでも肉体の落ち着きに比例するように精神の混濁も僅かながらおさまってきた。

 ふと時計を見る、午後四時過ぎ、下校の途中か友達に手を振りつつ女の子が一人公園を横切ろうとする、うちのアパートの近所に住む子だ、公園を抜けると近道になるからだろう。

 今まで特に意識して来なかったものの、女の子は先輩によく似ていた。綺麗な長い黒髪で、ほくろの位置も同じ、まだ幼いが知的な風貌。

 彼女はバケツを被ってなどいなかった。当たり前だ。僕は今まで一度だってバケツを被った人間など見たことが無かった。むしろ、彼女くらいの、小学生くらいの年の子が、ふざけた戯れか酔狂で被るというなら理解出来る。いや、解釈出来る。

 しかし、先輩が、先輩が突然バケツの怪人に変貌してしまった事は、僕には不合理過ぎた。掴み所が無く、解釈のしようも無い。

 視ているうちに、女の子は僕の目の前を通り過ぎた。僕の目には、通り過ぎる彼女が先輩に変わっていくのを視た。僕のヴィジョンの投影に過ぎないのか、どうだろう、検証の必要はある。僕の先輩は何処に行ってしまったのだろうか。物言わぬ先輩は、恐らく未だ僕の部屋のスツールに黙って腰かけているだろう。だが、僕はそれだけでは不満足になってしまったようだった。

 僕は重い腰を上げて、女の子に声を掛けた。

「ねえ、君……」




 フィリップ・ヘイワード博士は、閉鎖病棟の一室で彼が書いたメモと裁判資料の要約に一通り目を通し終えた。博士は壮年のがっしりとした体格の男性で、戦時中に負った怪我の影響で足が悪く、黒光りする杖を携えていた。

「博士は、どう思われますか?」

弁護士は僅かに緊張した様子でおずおずと述べた。

「少なくとも、少なくとも彼を留置所ではなく病院に収容した事は適切だったと思うね。事件の残虐性から見ても、彼が狂っていると判断した事は間違いでないように思う。私は精神病理学者では無いから、詳しい事は分らんがね」

「そうでしょう。しかし、このまま裁判の行方を量子コンピュータに委ねて良いものかどうか。驚くべき事にこの事件に関しては未だ計算処理が済んでいない事は博士もご存じでしょう。あらゆる彼の人間関数を入力し、事件全体の膨大な、このメモを含む膨大な資料をどんなに詳しく入力したところで量子コンピュータが二週間経っても計算結果を出せないなどおかしな事だ。事実、今までにもっと複雑な事件があったが、ものの数秒で判決は下されている。むろんその後、人間の陪審員の賛成を得て、判決は正式に決定される」

「ああ、この国の量子コンピュータを利用した裁判制度のことは知っているとも。その正確さも。今までに誤審を犯した事が無いと言うのは、いささか出来過ぎの感も否めないがね」

「私はこの事件は、量子計算機の裁判官の手に余ると考えています。しかし、そう主張した所で、検察側からの問題のすり替えである、という主張に沈黙せざるを得なかった。我々の作り出した究極の理性である量子コンピュータに、狂人の心理や動機を理解、いや計算出来るでしょうか? いや、もしかしたら彼は狂人ではないかも知れない。彼には狂気を装うだけの理性の狡知があるのかも知れない。しかし、我々弁護団は彼の病室にカメラを設置し、二十四時間監視を続けてきましたが、彼の狂気は動かしがたい事実であるように感じます」

「ふむ、君の国の量子計算機裁判官は、司法権力を委ねられた知の結晶、権力と知の構造の体現と言える。人間の理性的・科学的と思われる部分の集大成が下す判断を君は信じないのかね?」

「信じない、いえ、そんなはずは無い。私は確かに最終的に納得するでしょう。血に飢えた大衆は喜んで彼の死刑に同意する筈だ。しかし、一抹の疑問は残る。本当に我々の知の結晶は、彼のこのテクストから真実を拾い上げる事が出来ていたのか、と」

「彼は、その、少女の顔面の皮膚を剥いだのだったね?」

「ええ、そうです。残虐で幼稚な犯行です。被害者の少女は一命を取り留めましたが、損傷が酷すぎて手術でも彼女の顔は元には戻らないでしょう。顔面の筋肉も傷ついていて、食事すらままならない。まだ十二歳の娘には残酷すぎる運命です。だからこそ、私は真実を明らかにしたいのです。これは計算機に委ねて良い問題ではない。時間を掛けて人間が討議すべき問題です」

「彼は何故、人間性皆無とさえ言える残虐な犯行に及んだのか。私も時間を掛けてゆっくり討議すれば、少なくともこのテクストから辿って手掛かりくらいは掴めるように思う。例えば、この"先輩"と呼ばれる人物には会ったのかね? 私が見た裁判資料には彼女の記述が無かったのだが」

「それが……居ないのです。彼が犯行を行うに至った最大の理由と思えるこの人物、大学の記録にも確かに在籍した痕跡があり、彼女を目撃した者も大勢います。彼女が聴講していた講義を持つ教授たちも一様にレポートの提出は早いし、真面目な学生だったと証言しています。しかし、名前は覚えていないのです。大学の記録に残された痕跡というのも、彼女のものと思しき学生証の番号が図書館のゲートを出入りした記録です。しかし、肝心の学生の記録は失われている。人間の記憶にも姿形は残っても、名前など具体的情報は残されていないのです」

「彼女は真面目にレポートを提出する学生だったのだろう。まさか無記名で提出していたという事もあるまい。それを調べればいいだろう」

「それが、無いのです。間違えて破棄してしまったとか、紛失したとか、中には無くなった理由がまるで思い当たらないという教授もいました。とにかく、存在した事は確かなのですが具体的な記録は不自然なまでに抹消されているのです。検察側はこの現象を集団幻覚の一言で説明しようとしていますが、あまりにも不自然です。何物かの意思が介在したとしか思えない。しかし、データや紙媒体は抹消できたとしても、人々の記憶全体から彼女についての情報を消す方法があるとは思えない。この点がこの事件のもっとも不可解な部分でもあります」

「確かに君の言うとおり、これは量子計算機裁判官の手に余る仕事に思える。狂える青年の噴出した血の叫び、単なる猟奇事件として片づけるには、人間関数の公式に当て嵌めて計算仕切れると確信するにはちと苦しい、と」

「しかし、私にはこれ以上何をすれば良いか分かりません。量子コンピュータがいかに優秀とは言え、それを作り出した我々に不明な事柄で構成された人格方程式を解くことが可能ははずはありません」

「優美な死骸……」

「え、なんですって?」

「このメモを含めたこの事件のコンテクストが、だ。"優美な死骸"と言うのは、シュルレアリスムにおける共同制作の技法だ。複数の人間がお互いの制作しているものを視ずに自分のパートのみを制作する。全体の整合性を保つために、お互いの作品の接合部分だけは視てもよい。結果、完成するのは接合部分を除いてまったく趣の違う奇妙な作品だ。この事件もそうでは無いかね。彼以外の謎の意思の介在が私には感じられる。彼らはお互いに無視しあいながらも事件のコンテクストを構成し、その不自然さは事件のテクスト自体に注目しようとすると消え失せる。この事件を読み解くには全体性の把握が肝要だよ。マクロな視点とミクロな視点での差に着目すれば、ヒントを得られるはずだ。君の言う通り、量子コンピュータに任せるよりも優秀な人間を幾人か集めて、この事件についてより精細な分析を行う事が必要だろう。量子コンピュータの登場で人間は分析という作業を失いかけている。君の国の人々は正確な情報の入手という事に囚われて、入手した情報の分析という次元の違う重要な事を忘れかかっている。君たちは情報という砂糖を運ぶ働き蟻に過ぎなくなっている。その砂糖を味わうのは量子コンピュータだけだ」

「しかし、先ほども言ったように量子計算機裁判官の存在自体に疑問を投げ掛ければ、検察の厳しい非難に晒されるのは目に見えています」

「何も、量子コンピュータを利用するという事に問題があるのでは無い。それに頼りきるという事が問題なのだよ。そうだな、まずこの優美な死骸的コンテクストを量子コンピュータに分析させるには、被告の人間関数、人格方程式だけでなく、彼のテクストから読み取れる情報を利用して、先輩なる人物の人間関数、人格方程式を不完全でも良いから入力してみればいい。その二つを並列に処理させた上で、二種の式を合成した式を導けるだろう。そうして合成された式を利用して再計算すれば、より正確な判決が下せるだろう」

「二つの人格を利用した計算ですか。そんな事は前代未聞だ。しかし、やってみる価値はあるでしょう。計算にも時間が掛かっている。量子計算機裁判官自身も足りないのが情報では無く、それを計算する為の人間関数と人格方程式だと気付いているのかも知れない。いや、機械がそんな直観的な事を考えるとはナンセンスですがね」

「我々に機械の考えている事が理解出来るかね? 視えるのは0と1の羅列くらいな物だ。ありえないと確信を抱く事自体がナンセンスだよ。だが……この痙攣的手法で書かれたような事件のコンテクストを理解する為にはそのナンセンスさも必要かも知れんな」



 判決は下された。有罪。罪状は誘拐と殺人未遂だった。この国にしては珍しく、青年の刑は半年後に執行された。青年は呆けた表情のまま、床が抜けると同時に奇妙な果実の一員に名を連ねる事となった。


「結局のところ、私の力は及ばなかった。私には最後まで理解できませんでしたよ、博士」

「彼らは、知自体を発明したと確信しきっているのだ。その幻想が崩れるのが怖くて、君の主張を受け入れるを良しとしなかったのだろう。もし、良ければ君の持つ裁判資料の写しが欲しい。被告の人間関数と人格方程式を先輩なる人物のものと共に大学の量子コンピュータで再現してみよう。民間での分析だ、法的な根拠は得られないだろし、肝心の被告の生命は失われた。しかし、真実の一端には手を掛けられるだろう。結果は君にも報告するよ」

「……分かりました。私の持つ資料は、ヘイワード博士、貴方に全て託しましょう」

「私は、この事件に関する考察と科学的分析を纏めて本を書こうと思う。君たちの国の言語でね。少しは大衆にも伝わるかも知れない。私の著作は君の国の大衆には受けが良いようだから」

 博士は痙攣的微笑を浮かべた。


作品の構成上、重大な欠陥が発見されたので、長編作品として全面改稿を行う予定です。

ただし、これはこれで完成した作品なので、改稿した作品はまったく別物になると思われます。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 主人公の行動・心理の書き方がとても上手いです。異常な行為なのに、彼の主観視点であるがために正当化される、という雰囲気がよく伝わってきました。 一つの事象に対し、いろいろな方向(過去、現在、…
[良い点] フェチズムとSFの見事な融合を見せていただきました。よい小説をありがとう! [気になる点] ちょっとセリフの羅列が多い部分が気になりましたが、説明的でないので無問題。 [一言] こういう作…
2011/04/27 21:48 退会済み
管理
[一言] バタイユバージョンが読んでみたいなあ。
2011/04/25 21:04 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ