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最初で最後の愛を喰らう

作者: 耳無 桃
掲載日:2026/04/09

私は人魚。

どこにでもいるような、名もない人魚だ。

人が好きだった。

理由は分からない。

ただ、波間を渡る笑い声や、遠くの灯りを見るのが好きだった。

だから私は毎晩、お気に入りの岩の上に座って歌う。

月だけが聴衆の、静かな歌を。

海は優しく、そして残酷だ。

それを知っているから、人間には近づかないようにしていた。

——あの日までは。


夜更け、小さな影が浜辺に立っていた。

幼い男の子だった。

「ぼうや、こんな時間に何をしているの?」

私が声をかけると、彼は迷いなく答えた。

「声が聞こえたから。もっと聴きたくて声を探しに来た。」

だから家を出てきたのだという。

愚かな子だと思った。

けれど彼の腕には、夜の暗さとは違う影があった。

転んだにしては規則的な痕。

私は深く考えなかった。

人間の事情には触れないと決めていたから。

ここは海。

穏やかな顔をして、人を簡単に奪う場所だ。

「帰りなさい。ここはあなたがいていい場所じゃないわ」

少年は悲しそうな顔をした。

胸が、少しだけ痛んだ。

「……また明るい時間に来なさい。歌を聴かせてあげる。」

そう言ってしまった瞬間、自分で驚いた。

昼間に歌うのは嫌いだった。

人が集まる。

見つかれば、私は捕らえられる。

それなのに、不思議と後悔はなかった。

次の日、海面から目だけを出すと、少年は本当に来ていた。

私は聞いた。

「名前は?」

「ヨルゴス」

と幼い男の子は名乗った。

海から少し離れた農村に住んでいるらしい。

私の歌が聞こえるほど、耳が良いのだと笑った。

他愛もない話をして、私は歌った。

波が静かに揺れ、ヨルゴスはただ黙って聴いていた。

その時、人の足音が近づいた。

怖くなって私は潜った。

すると、水の中へ彼も飛び込んできた。

人間は水中で息ができないことを知っていた私は、慌てて彼に口を寄せた。

息を分けるために。

それは人魚のあいだで、特別な行為だった。

自分の呼吸を分け与えることは、ただ命を救うという意味ではない。

同じ流れの中で生きることを許すということ。

海では、それは伴侶の誓いに近い。

けれど人間にその意味は通じない。

だから私は、深く考えなかった。

ヨルゴスは恐れるどころか、光に満ちた海の中を見て目を輝かせていた。

その瞬間、思った。

私はこの子を、こちら側へ引き摺りこんでしまったのかもしれない、と。


それから毎日会った。

季節が何度も巡り、ヨルゴスは成長した。

来るたびに、小さな傷が増えていた。

頬の薄い青痣。

彼はいつも「転んだ。」と笑った。

私は問い直さなかった。

問いかければ、陸の世界に踏み込んでしまう気がしたから。

少年は青年になった。

関係は変わらなかった。

海と陸の境界で、ただ話し、歌を聴かせるだけ。

けれど最近、彼の笑い声は少し短くなっていた。

波が引くように、言葉が減っていたことに、私は気づかないふりをしていた。


けれどある日、彼は来なかった。

胸騒ぎがした夜、ヨルゴスは現れた。

傷だらけで。

話を聞いて、私は初めて彼の世界を知った。

家庭では父親の暴力。

学校では【いい子】でいるしかない孤独。

「もう疲れた。」

そう言って、彼は海へ入ろうとした。

私は必死に止めた。

沈黙のあと、ヨルゴスは言った。

「人魚って、人間を食べるんだろ。……俺を食べてよ。」

意味が分からなかった。

普通、人間が人魚を食べるのだ。

不老を得るために。

私は首を横に振った。

けれど彼は泣き続けた。

私はどうしていいか分からず、口を塞ぎたかった。

ただ口を寄せた。

二度目だった。

一度目は救うため。

今回は理由を持たないまま。

同じ呼吸を重ねた瞬間、もう引き返せないことを、私はどこかで理解していた。

涙が流れ込む。

塩とは違う温度だった。

それを私は、初めて知った。

その瞬間、胸の奥で何かが囁いた。

——おいしそう。

そして、私は選んだ。

ヨルゴスを食べることを。

彼は穏やかに囁いた。

「俺は貴女を愛している。貴女の一部になれるなら、これ程嬉しいことはない。」

私はゆっくりと彼を抱いた。

彼は幸せそうな顔をしていた。

その顔を見たとき、気づいた。

あの日、姿を消さなかったこと。

関わり続けたこと。

何も知らなかったこと。

そのすべてが、間違いだったのだと。

それでも私は言った。

「美味しいわ、ヨルゴス。出会えてよかった。大好きよ。」

もう彼に意識はなかった。

けれど耳の良い子だから、きっと届いたと思う。

味は、決して美味ではなかった。

悲しみの味。

人生の味。

それは不思議なほど甘かった。

私は罪を背負った。

けれど後悔はない。

出会えたこと。

愛したこと。

ひとつになれたこと。

すべてが、満ちている。


私はこれからも生きていく。

ヨルゴスと共に。

彼を魅了した罪を抱いて。

最初で最後の食人。

——ご馳走様でした。


そして私は、今夜も歌う。

私の中の大地に届くように。

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