最初で最後の愛を喰らう
私は人魚。
どこにでもいるような、名もない人魚だ。
人が好きだった。
理由は分からない。
ただ、波間を渡る笑い声や、遠くの灯りを見るのが好きだった。
だから私は毎晩、お気に入りの岩の上に座って歌う。
月だけが聴衆の、静かな歌を。
海は優しく、そして残酷だ。
それを知っているから、人間には近づかないようにしていた。
——あの日までは。
夜更け、小さな影が浜辺に立っていた。
幼い男の子だった。
「ぼうや、こんな時間に何をしているの?」
私が声をかけると、彼は迷いなく答えた。
「声が聞こえたから。もっと聴きたくて声を探しに来た。」
だから家を出てきたのだという。
愚かな子だと思った。
けれど彼の腕には、夜の暗さとは違う影があった。
転んだにしては規則的な痕。
私は深く考えなかった。
人間の事情には触れないと決めていたから。
ここは海。
穏やかな顔をして、人を簡単に奪う場所だ。
「帰りなさい。ここはあなたがいていい場所じゃないわ」
少年は悲しそうな顔をした。
胸が、少しだけ痛んだ。
「……また明るい時間に来なさい。歌を聴かせてあげる。」
そう言ってしまった瞬間、自分で驚いた。
昼間に歌うのは嫌いだった。
人が集まる。
見つかれば、私は捕らえられる。
それなのに、不思議と後悔はなかった。
次の日、海面から目だけを出すと、少年は本当に来ていた。
私は聞いた。
「名前は?」
「ヨルゴス」
と幼い男の子は名乗った。
海から少し離れた農村に住んでいるらしい。
私の歌が聞こえるほど、耳が良いのだと笑った。
他愛もない話をして、私は歌った。
波が静かに揺れ、ヨルゴスはただ黙って聴いていた。
その時、人の足音が近づいた。
怖くなって私は潜った。
すると、水の中へ彼も飛び込んできた。
人間は水中で息ができないことを知っていた私は、慌てて彼に口を寄せた。
息を分けるために。
それは人魚のあいだで、特別な行為だった。
自分の呼吸を分け与えることは、ただ命を救うという意味ではない。
同じ流れの中で生きることを許すということ。
海では、それは伴侶の誓いに近い。
けれど人間にその意味は通じない。
だから私は、深く考えなかった。
ヨルゴスは恐れるどころか、光に満ちた海の中を見て目を輝かせていた。
その瞬間、思った。
私はこの子を、こちら側へ引き摺りこんでしまったのかもしれない、と。
それから毎日会った。
季節が何度も巡り、ヨルゴスは成長した。
来るたびに、小さな傷が増えていた。
頬の薄い青痣。
彼はいつも「転んだ。」と笑った。
私は問い直さなかった。
問いかければ、陸の世界に踏み込んでしまう気がしたから。
少年は青年になった。
関係は変わらなかった。
海と陸の境界で、ただ話し、歌を聴かせるだけ。
けれど最近、彼の笑い声は少し短くなっていた。
波が引くように、言葉が減っていたことに、私は気づかないふりをしていた。
けれどある日、彼は来なかった。
胸騒ぎがした夜、ヨルゴスは現れた。
傷だらけで。
話を聞いて、私は初めて彼の世界を知った。
家庭では父親の暴力。
学校では【いい子】でいるしかない孤独。
「もう疲れた。」
そう言って、彼は海へ入ろうとした。
私は必死に止めた。
沈黙のあと、ヨルゴスは言った。
「人魚って、人間を食べるんだろ。……俺を食べてよ。」
意味が分からなかった。
普通、人間が人魚を食べるのだ。
不老を得るために。
私は首を横に振った。
けれど彼は泣き続けた。
私はどうしていいか分からず、口を塞ぎたかった。
ただ口を寄せた。
二度目だった。
一度目は救うため。
今回は理由を持たないまま。
同じ呼吸を重ねた瞬間、もう引き返せないことを、私はどこかで理解していた。
涙が流れ込む。
塩とは違う温度だった。
それを私は、初めて知った。
その瞬間、胸の奥で何かが囁いた。
——おいしそう。
そして、私は選んだ。
ヨルゴスを食べることを。
彼は穏やかに囁いた。
「俺は貴女を愛している。貴女の一部になれるなら、これ程嬉しいことはない。」
私はゆっくりと彼を抱いた。
彼は幸せそうな顔をしていた。
その顔を見たとき、気づいた。
あの日、姿を消さなかったこと。
関わり続けたこと。
何も知らなかったこと。
そのすべてが、間違いだったのだと。
それでも私は言った。
「美味しいわ、ヨルゴス。出会えてよかった。大好きよ。」
もう彼に意識はなかった。
けれど耳の良い子だから、きっと届いたと思う。
味は、決して美味ではなかった。
悲しみの味。
人生の味。
それは不思議なほど甘かった。
私は罪を背負った。
けれど後悔はない。
出会えたこと。
愛したこと。
ひとつになれたこと。
すべてが、満ちている。
私はこれからも生きていく。
ヨルゴスと共に。
彼を魅了した罪を抱いて。
最初で最後の食人。
——ご馳走様でした。
そして私は、今夜も歌う。
私の中の大地に届くように。




