第十二章 修正なし
修正という語は、紙の上では便利だ。
便利な語ほど、どこにも載っていない。
ノートンは保留籠を机の中央へ寄せ、いったん蓋をした。蓋をするのは隠すためではない。封筒の端が空気で反り返るのを防ぐためだ。反り返った端は次に封筒へ戻すとき裂ける。裂けは欠落を呼ぶ。欠落は事故になる。事故になれば、事故票が増える。事故票が増えれば、欄が増える。欄が増えれば、紙が増える。
机の脇に、手続書の函がある。函は木で、角が磨耗して丸い。丸い角は人の手が触れ続けたという工程の痕だ。工程の痕は規則ではない。規則にすると、規則の提出が要る。
ノートンは函の蓋を開け、索引札を一枚ずつめくった。札は増やさないが、ここにある札は既に制度の一部として許されている。許されている札だけで、許されていない動作を埋めることはできない。
索引には、差し戻し、再提出、再上呈、回付、返送、保留――その語だけが並ぶ。
「経路変更」や「分散」や「代行」は、索引の見出しとしては存在しない。
無い見出しは、無いまま扱うしかない。
ノートンは索引を閉じ、手続書の本文を開いた。本文は条番号で区切られ、条番号ごとに許可された工程が列挙されている。列挙の語は短く、短い語ほど意味を持たされやすい。
・受理
・配分
・回付
・返送
・再上呈
・差し戻し(形式不備の場合)
列挙の末尾に、注意書きがある。注意書きはさらに短い。
| 上記以外の処理は行わないこと
行わないこと、という語は命令だ。命令は理由を伴わない。理由が無い命令は、紙の外形だけを増やす。
ノートンはその一文の下に、改訂番号が付いているのを見つけた。改訂番号は小さい。小さい改訂番号ほど、誰も内容を覚えていない。
改訂番号の横に、公布印がある。印影は薄い。薄い印影は争いになる、と文官長は言った。争いが生まれる前に、ここでは文字だけを拾う。
扉が開き、無名の書記が入ってきた。手には薄い票が二枚。票は通達票ではない。照会票だ。照会票は「聞く」ための紙で、答えは紙で返さなければならない。口頭で返すと、言った者の責任になる。
書記は票を机に置き、声を小さくした。
「保留の整理で……経路を変えてよいか、という照会です」
経路を変える。変えるという語を使うと、変えた後の責任が生まれる。責任を生まないために、制度は語を用意していない。
用意していない語を、照会票が引きずり出す。
ノートンは票を読まず、照会番号だけを拾った。番号があれば工程になる。工程になれば返せる。返せるものだけを返す。
照会番号の隣に、起案課名がある。起案課名は人の名ではなく部署の名だ。部署の名なら、ここで扱える。
ノートンは受領簿写し束を開き、照会番号の控え欄に印を押した。照会も工程にする。工程にしておけば、消えない。消えないものは事故になりにくい。
「照会は、手続書の該当条を示す」
書記が言葉を止める。
「該当条が……」
「無いなら、無いと返す」
無い、と言うことは結論に近い。結論は禁じられていないが、結論には理由が付く。理由は付けない。付けずに返すには、条文の引用だけが必要だ。
ノートンは手続書の該当箇所に紙片を挟んだ。紙片に文字は書かない。文字を書けば札になる。札になると分類が増える。分類が増えると点検が来る。点検は様式を増やす。様式は紙を増やす。
紙片が挟まった場所を指で示し、書記に言った。
「上記以外の処理は行わない。――これで返す」
書記は頷き、照会票を引いた。照会票が引かれると、次に来るのは返送票ではない。返答票だ。返答票は、制度が「無い」を形式として受理したことを示す。
制度が受理した「無い」は、誰の判断でもない。
ノートンは手続書を閉じ、函へ戻した。戻す動作は静かだが、静かな動作ほど重い。重い動作は時間を奪う。時間を奪われると当日分が詰まる。詰まるという語も避ける。詰まったという評価が生まれるからだ。評価が生まれれば、報告が要る。
扉が再び開き、カールスが入ってきた。机の蓋の閉じた保留籠を見て、言葉を短く落とす。
「修正の票は作るな」
修正の票。存在しない票を作るな、という命令だ。命令が先に出ると、作る予定の無かった票まで「作られる可能性」として数えられる。可能性は点検を呼ぶ。点検は禁則を増やす。
ノートンは返事を短くした。
「了解」
カールスは机の端に置かれた照会票の控えを見ずに続けた。
「戻すか、上げるか。それだけだ」
戻すか、上げるか。二択は簡単だ。簡単な二択ほど、紙は増える。どちらを選んでも紙が増えるからだ。
だが、二択である限り、判断は制度の外へ出にくい。制度の外へ出にくい判断は、責任になりにくい。
ノートンは蓋を開け、保留籠から封筒を一通だけ抜いた。封筒の表に、起案側の小さな書き足しがある。欄内に収まっている。形式は成立している。
成立しているなら、修正はしない。修正が無いなら、工程は固定される。
封筒を回付籠へ落とし、受領簿写し束の行に小点を一つ追加する。
小点は索引で、結論ではない。結論にしないために、小点は小さく残る。
返答票が戻るまでに、紙はさらに動く。
動くのは内容ではない。外形と印だけだ。
外形と印だけが動く状態を、制度は「進行」として扱う。進行という語を口にしない。口にすれば、進んでいないものの説明が要る。
ノートンは当日分の籠を処理し、空になった籠を机の端へ置いた。空籠は場所を取るが、空籠を片付けると「余裕がある」と見える。余裕は仕事を呼ぶ。呼ばれた仕事は札を増やす。札は増やせない。
だから空籠も、工程の一部として置く。
保留籠の蓋を開けると、封筒の端が一斉に立つ。立つ端は空気のせいで、意思ではない。だが意思に見えるものは禁じられやすい。禁じられれば、禁じた理由の票が増える。
その封筒の間に、一枚の紙が挟まっていた。起案側の添付ではない。受理側で誰かが挟んだ紙だ。紙の角が、受領簿の罫線紙と同じ規格で切られている。規格が同じだと紛れやすい。紛れる紙は欠落を作る。
ハロウが近づき、紙の存在だけを見て言った。
「補正か」
補正という語も、索引には無い。無い語を口にすると、語が先に制度になる。制度になる前に、語を消さなければならない。
消す方法は一つしかない。票に戻して、起案側へ返す。
ノートンは紙を引き抜き、文面を読まずに確認した。
日付がある。署名欄がある。だが署名は無い。署名が無い紙は、誰の責任でもないように見える。見えるだけで危険だ。危険は点検を呼ぶ。点検は「誰が挟んだか」という照会を生む。照会は人の名を呼ぶ。人の名はこの部に不向きだ。
ノートンは紙を二つに折らず、そのまま机に置いた。折ると「処理した」に見える。見える処理は理由を呼ぶ。
理由を作らないために、紙は「置いた」ままにする。
扉が開き、無名の書記が返答票を持って入ってきた。返答票は定型の文で埋まっている。短い文ほど、余白が多い。余白は解釈を呼ぶ。
| 経路変更は行わない
| 既存経路で再上呈すること
経路変更は行わない。
「上記以外の処理は行わない」と同じ語形で、同じ硬さだ。硬い語は工程を固定する。固定された工程は、別の工夫を禁じる。
ノートンは返答票を受領簿写し束に挟み、机の上の「補正紙」を指で押さえた。押さえるのは読むためではない。動かないようにするためだ。動けば別の封筒へ紛れ、紛れれば欠落が生まれる。欠落は事故になる。
書記が小さく言った。
「この紙は……どうしますか」
質問の形をしているが、答えは既に返答票の中にある。
答えは制度が出す。人が出すと、人の責任になる。
ノートンは方向だけを示した。
「返送。理由は作らない。――返答票の条を示す」
示す、という行為だけで足りる。足りないときは票が増える。増えた票は禁じられる。禁じられた工程はさらに回り道を作る。回り道は紙を増やす。
ノートンは返送函を引き寄せ、補正紙を単独で入れた。封筒へ戻さない。封筒へ戻すと「差し替え」に見える。差し替えは修正に近い。修正に近いものは禁じられる。
ハロウが、机の端の返答票を見て言った。
「結局、直せない」
直せない、は結論に近い。結論を出す権限はないが、返答票が結論を代わりに出している。
ここで言うべきは結論ではなく工程だ。
ノートンは短く返した。
「直さない。戻すか、上げるか」
返送函に入った紙は、起案側へ戻る。戻った紙は、また日付を変えて戻ってくる。戻ってくるかどうかの予測はしない。予測は責任になる。
責任を避けるために、工程を繰り返す。
返送函を運搬係が持ち去ると、机の上は一瞬だけ平らになった。平らな机は余裕に見える。余裕に見える机ほど、次の束が置かれる。
次の束を置く場所がある限り、制度は「回せる」と判断する。判断するのは制度で、人ではない。
ノートンは受領簿写し束を閉じ、端を揃えた。
修正は無い。
無いという事実だけが、票と同じ硬さで残る。




