突入
黒い何かは、先端をスライムの様に不規則に伸び縮みさせながら、ユウの体に少しずつ迫ってきていた。よく見ると、中は空洞のようになっていて、どこまで深い闇が続いている。
触れたら取り込まれてしまいそうな程の重圧を感じ、ユウはその場に留まっていた。
「こんな悪霊になっちゃうなんて、かわいそうに」
こんな状況だというのにユウの中には、不思議と恐怖は無かった。ただ、胸の奥に小さな温もりのようなものだけがあった。それが弟への愛情なのか、それとも度重なる異常体験による慣れなのか、ユウ自身にも分からなかった。
六宝は立ち上がると、ユウの隣に並び立った。
「善だ悪だと語るのは、生きてる者だけだよ。肉体を離れてそこにあるのはいつも、純粋な魂だけだ」
「純粋な魂……。そうですね。僕の弟が、悪い子なはずがない」
ユウは大きく息を吸い込むと、小さく数回、自分に言い聞かせるように、頷いた。
「覚悟はいいね?」
「ん?まあ……はい。でも、ここから何するんですか?」
「幸い、アズコの結界のお陰で、キミの弟を取り巻いていた雑魚達はもういない。後はこの黒いアメーバだけ。こいつに取り込まれる前に弟を見つければキミの勝ち。出来なければ、今までありがとう。キミとのたくさんの思い出は忘れない」
「まだ会って十分も経ってないでしょうが!」
「ははは。やっぱりキミは真面目だねー」
そういうと、六宝はユウを片手で軽々と持ち上げた。
62kgはあるユウを赤子同然に扱うその姿は、六宝の細身の体からは想像もつかなかった。
「えっ……ちょっ、まっ……これってもしかして……」
ユウはこれから起こることを、六宝の視線と、その腕の動きで悟った。
間違いなく六宝の目線はアメーバにある。
「そう。そのまさかさ。じゃあ、アメーバの体内旅行に一名様、ごあんなーーーーい!!!!」
六宝は、大きく振りかぶると、槍投げの要領で、アメーバに向かってユウを思いっきり投げつけた。
「ぎぃゃゃゃあああああ!!!!!」
ユウはスピードに乗った。まるで高速道路を生身で走っているかのように、生身で風圧を切り裂く。
骨が震える。目なんて、とても開けていられない。全身の皮膚は、ジェットコースターにしがみつく乗客のように、必死にユウの体に張りついていた。
抗う術もなく、ユウは、アメーバの真ん中へと文字通り、突入した。
ものすごい勢いで何か柔らかい膜を突き破った瞬間、音が吸い込まれた。
胎動のようなぬめった音が、粘膜の壁越しに響いてくる。足元は柔らかく沈み、内側には赤と青の光が管のように流れている。それはまるで、生き物の中に迷い込んだようだった。
飛び込んだユウを、無数に伸びたアメーバの先端が狙っている。
「どこだ?どこにいる?」
ユウは辺りを見回すが、弟らしきものは見つからない。
あれだけあった勢いも、完全に落ち着いた。
ユウは地面に不恰好に着地すると、慌てて走り出した。
少しでも緩めると、捕らえられてしまう。
バイト三昧のユウにとって、運動など得意なわけはない。すぐに脇腹は酸素不足に陥り、痛みを迎えた。
それでも走るしかなかった。このいつまで続くかも分からない闇の中で、ただ闇雲に。
母さんが死んだ時、手を伸ばしていれば弟は助かったかもしれない。自分が絶望などせず、心を閉ざすことなどせず、手を伸ばしていれば……。そう思うと、歩みを止めることなどできるはずもなかった。
「もうすぐ会えるね」
声が聞こえた。
間違いなく、これは十年前のユウ自身の声だ。
母さんのお腹の中に語りかける、ユウの声。
ここがまだ、生まれる前の弟の世界なのだとしたら、そこに弟はいるはずだ。
ユウは声の聞こえる方に向かった。
すると、道はどんどん細く、狭くなっていく。天井は低く、壁がじわじわとせり出す。
「会ってどうする……今さら……」
「何ができる?……お前に……」
「消えろ……消えろ……」
アズコの結界内で聞いたのと同じ声。だが、ユウに恐怖は無かった。
「お前ら怖いんだろ?そうだよな?僕が弟に会えば、一緒に自分も消えちゃうかもしれないもんな?でも安心しな。弟は消えないから……。
ていうか、幽霊だろうとなんだろうと、兄弟の問題に他人がぞろぞろ首突っ込んで来てんじゃねえよ!!!!」
閉ざされようとする道から、無理やり体をねじ込み、ユウはギリギリ飛び出した。
息も絶え絶えに周りを見渡すと、薄い赤色の壁が、脈のように唸っていた。
正面は、壊れたモニターのように、薄ら明かりだけが見えている。そしてその向こう側から、
「もうすぐ会えるね」
という言葉が何度も何度もリピートされている。それはまるで、遠い記憶を繰り返す古い録音テープのようだった。
ユウは、ぼんやりと明滅する明かりの方へと、一歩ずつ足を進めた。
足元はぬめり、沈み込むたびに微かに潮と鉄の匂いが立ちのぼった。
呼吸するたび、空気も湿っていた。
明かりに近づくにつれて、何かが聴こえてきた。
――心音。
それは明かりに照らされた場所から、確かに聞こえていた。まるで何かの心臓が、ゆっくりと、しかし確実に拍動しているような音。
「そこにいるんだね」
ユウは真っ直ぐにそこへ向かうと、しゃがみ込んだ。
「もうすぐ会えるね」
「もうすぐ会えるね」
「もうすぐ会えるね」
「もうすぐ会えるね」
「もうすぐ会えるね」
「もうすぐ会えるね」
「もうすぐ会えるね」
「もうすぐ会えるね」
「大丈夫。僕たちはもう、会えたから」
ユウはそっと、両腕を伸ばした。
抱き上げたのは、小さな影。
へその緒のようなものが、どこかと繋がっている。透明で、脆くて、でも確かにあたたかさを感じる。
それは、少しずつ人の形を成していく。
ひと目見て分かる。それが自分の弟だと。
写真で見た赤ちゃんの頃の自分と、そっくりだったから。
弟は、精一杯ユウに向かって手を伸ばすと、そっと頬を撫でた。特大の笑みを見せると、まだ不慣れな声で笑っている。
「こっちは大変な目にあったっていうのに。よく笑えるよ」
ユウは弟を胸に抱きしめた。
小さな背中から、ぽかぽかとした温もりが伝わってくる。
それだけで、ユウの十年間の寂しさを溶かすには充分であった。
これで願いは叶った。
しかし、ユウにはまだやるべきことがあった。
強すぎる力で願いを叶えた後の代償。
母さんは弟を授かることにより、自ら命を絶つことになった。
今考えても、理不尽極まりない。
だったら今回の代償も、それ相応に納得のいかないことが起こるに違いない。
そしてその予感は的中した。
明かりの向こう側から、ぬるりと何かが這い出した。
壁を突き破り、赤黒い液体を引きずりながら、現れた白く長い影は、まるで生まれたばかりのような未成熟さと、古代から這い出たような禍々しさを併せ持っていた。
巨大な白蛇。しかしその白さは清浄とは程遠いものであった。
ぬめりを帯びた鱗はところどころひび割れ、内側からは青白い光が透けている。
蛇の瞳は、人の顔に似た表情を浮かべており、何千もの悲鳴がその目に宿っているようだった。
口を開けば、何本もの鋭い歯を見せ、言葉のようなうめきが漏れ出し、空気を震わせる。
ユウは弟を強く抱きしめた。
「なーにが守護霊だよ。二回も弟を殺されてたまるか!」
威勢よく啖呵を切ったユウではあったが、出来ることはたった一つ。
「よし、逃げる!六宝さん!約束通り、なんとかしてくださいよ!」
ユウは背を向け走り出した。
だが、先程入ってきた道は既に完全に壁に阻まれていた。
後ろからは、シャーっと音を立てながら、白蛇がユウに向かって動き出している。
こんな状況でも楽しそうに笑う無邪気な弟に向かって、ユウはため息を吐いた。
「ほんと呑気だね……兄ちゃんはとんでもなく大ピンチだよ」