第7話 オリウス王国 七番街
裏切りの夜から、三ヶ月の時が過ぎた。
ノアの故郷、オリウス王国の王都は十の街に区分される。
一から三番街は煌びやかな貴族の世界。
四から七番街は民の暮らす市井。
そして八から十番街には、影と血の臭いが沈む。
その内の七番街。
孤児としてノアが育った場所であり、今は落ちぶれた彼が再び身を寄せている街区だった。
(……このパン、カビが生えてるけどまだ食えるな)
酒屋の裏口に置かれた、ゴミ箱から全体の八割はカビにまみれたパンを懐にしまいこむ。
これでも最近の生活ではご馳走レベルの収穫に頬を緩ませると、ふと建物の窓にノアの顔が写り込んだ。
脂にまみれ伸び放題の金色の髪と髭、頬はこけ、瞳の輝きはとうに失せている。
映っていたのは、英雄と呼ばれた若き剣士の面影ではなく、ただの浮浪者だ。
あの夜の事件で、所持していた物はほとんど奪われた。
最後に残った一本の剣の柄さえ、飢えと治療費のために手放したが、それで得た金もすぐに底をついた。
家などもちろん無い。
今の住まいと呼べるのは、人通りの絶えた路地裏で、廃棄された木箱や木の枝に破れ布を寄せ集めただけの粗末な寝床。
とても家と呼べる代物ではないが雨風さえ凌げれば、今のノアにはそれで十分だった。
「……ただいま」
身をかがめて潜り込んだ中は、かろうじて大人一人が横になれるほどの狭さ。
奥には、これまたゴミとして捨てられていたクッションと、掛け布団としては貧相すぎる布切れで作られたベッド。
その上に――手のひらサイズまで縮んだ赤髪の彼女が眠っていた。
名前も、正体も知らない。
あの夜から三ヶ月間、傍らにいた小さすぎる同居人。
彼女を連れて来たのには訳がある。
それはもちろん、あの夜の真相。
仲間の裏切り、ドラミホールの異様な姿、そして……目の前で眠る彼女自身がいったい何者なのか。
かびまみれのパンをひとかけ口に頬り込み、天井代わりの板の隙間から空を見る。
(こんなの……死んでるのと変わりないよな……)
生きているのか、ただ朽ちているのか、その境目さえ曖昧になりつつある。
乾いた笑いを漏らしたその時だった。
「……ん、うぅ……」
か細い声が響き、ノアは顔を上げる。
声の主は三ヶ月間待った、彼女だった。
紅の髪が昼下がりの光を受けて揺れ、閉じられていた瞼がかすかに震える。
「おい! 聞こえるか!?」
思わず身を乗り出し、声を荒げるが返事はない。
しかし紅い睫毛がわずかに震えわせた彼女の瞳は程なくして……ぱちり、と開く。
そして金色の瞳がノアを映した。
「……ここは……」
「オリウス王国の七番街だ」
「オリウス……あぁ、中界の国ね……」
「中界?」
知らない言葉に、ノアは思わず眉をひそめる。
しかし今はどうでもよかった。そんなことよりも、彼女には別のことを語ってもらう必要がある。
「まぁいい……それよりもあの夜のことを教えろ。お前は何者だ? ドラミホールのあの姿は――」
「……ん……ここ、せま……枕、かたい……」
ノアの言葉を遮り、彼女がゆっくりと体を起こす。その動作に、ノアは慌てて手を伸ばした。
「ちょ! 待っ――!」
ノアの手は間に合わず、体を起こした彼女から布切れがずるりと滑り落ちる。
「……え?」
視線をさげた彼女は、一瞬きょとんとした。
肩から落ちた布切れのせいで、幼い肢体が露わになる。
小さな胸は平らに近く、白磁のような肌は差し込む隙間光に照らされ、いやに生々しい艶を放っていた。
「……あ……あぁぁ……」
自分の格好に気づいた瞬間、金色の瞳がみるみる大きく見開かれる。
彼女の顔はみるみる朱に染まり、耳まで真っ赤になった。
「…………っっ」
小さな肩がぶるぶると震え、口がパクパクと開閉する。
ノアが息を呑み、思わず後ずさる。
「お、おい……?」
そして……一瞬の静寂のあとだった。
「――――きゃああああああああああああっ!!!」
甲高い悲鳴が狭い路地裏を突き抜ける。
彼女は布切れを引っ掴み、必死に体を覆い隠した。
「この変態! 浮浪者っ!! ドスケベ! 私が寝ている間に……なにしたの!?」
「ち、違うっ! 俺はなにもしてねぇ! しょうがなかったんだ!」
「しょうがない!? 女の子を裸で転がしておいてしょうがないですって? サイテーっ!」
「き、君に合う服がなくてどうしようもなかったんだよ!」
「へぇっ! だから私はこんな脂まみれの男と同じ布団で寝てたってわけ!? キャー誰か助けてー! 襲われるぅー!」
「ちょ! 少し黙れっ!」
「黙れるかぁぁぁ! 私の貞操の危機なんですけどぉ!? このドブネズミみたいな浮浪者に汚されるくらいなら死んだ方がマシよ!」
「だ、誰がドブネズミだコラァ!」
「なによやる気!? かかってきなさいよ人類最強(笑)」
「か、括弧笑はやめろぉぉぉ!!」
真相を語る場になるはずの、路地裏の貧相な寝床は怒鳴り声と罵倒で埋め尽くされた。