第4話 勇者の最期 中編
「アリビア……? どうして……?」
「……」
ノアの背中に刃を刺したまま、アリビアは沈黙を続けていた。
(もしかして精神操作系の魔法を受けたか? いや、神の使いと称されるプリーストの彼女には耐性があるはず……)
「……ゴフッ!」
内臓をやられたのか、口腔から黒ずんだ血があふれ出す。
視界は揺れ、呼吸すらまともに続かない。
「アリ……ビア……」
その名を呼んだ瞬間、刃が背から引き抜かれた。
栓を失った傷口から鮮血が奔流のように噴き出し、ノアは膝から崩れる。
本来ならば、これしきの傷はまだ致命傷ではない。
しかし、体がまるで他人のように言うことを聞かず、握っていた剣が砂をこぼすように無力に指先から滑り落ち、ノアの身体も地に伏せた。
(これは……神経毒か……それもとてつもなく強力だ)
視界の端に、アリビアの姿が映る。
彼女は無言のまま、血に濡れた刃を握りしめていた。
青の女神と謳われたその顔は冷ややかで、慈愛も哀しみも浮かんでいない。
美しい碧眼も、今はまるで人形のように生気を感じなかった。
その様子から、アリビアは間違い無く正気じゃ無いと、ノアは悟った。
きっと彼女の耐性を突き抜ける程の、強力な洗脳を受けているに違いないと。
でなければ……
(――アリビアがこんな事するはずがない)
「……ドラミ……ホール、デーゲン……ハルト……アリビアが……助け……」
ノアはアリビアの背後に立つ、ドラミホールとデーゲンハルトに手を伸ばした。アリビアを救えるのは二人しかいないと信じて。
そのノアの言葉に応えるようにドラマホールがノアにゆっくりと歩み出した。
そしてノアが伸ばす手に、ドラミホールもまた、手を差し出す。
……しかし、ドラミホールの手はノアの手を掴む事は無く、すり抜けた。
「……ッ!? あ゙あ゙あ゙あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙っ!!」
闇夜にノアの悲鳴が響き渡る。
ドラミホールはノアの傷口に手を入れ、弄り始めた。
「おーおーこりゃ凄い声だなぁ……勇者様とあろう人間がよ」
「……ドラミ……ホール!? ぐあぁぁぁ!」
「残念だがノア、お前の旅はここまでだ」
ドラミホールが傷口から手を引き抜く。
その表情は、悪鬼のような笑みを浮かべていた。
「おいデーゲンハルト」
ドラミホールがデーゲンハルトを呼ぶ。
デーゲンハルトは魔導書を閉じて、魔法を唱えた。
「樹縛鎖」
地面から伸びた無数の木の根が、ノアの四肢を絡め取る。
血で濡れた体を地面に縫い付けるように締め上げ、ノアの体を完全に拘束した。
「クッ……ぐ、ああぁ……!」
抗おうとするも、力は入らない。
毒と出血で蝕まれた身体に、根の圧力が追い打ちをかける。
「皆……ど……して……」
かすれた声が闇に呑まれた。
すると、状況をまったく理解できないノアの背に、アリビアが馬乗りになる。
そして彼女は左手をノアの背中に添え、右手で逆手持ちにしたナイフを振り上げた。
「……アリ……ビア? やめ……ッ!」
必死な声を最後まで聞きもせず、アリビアはナイフを——振り下ろした。
「あぎゃっ! あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙っ!」
アリビアはナイフを引き抜いては突き刺し、引き抜いては突き刺す。
何度も、何度も。何度も何度も何度も。
青の女神の美しい髪と肌は返り血で赤く染まっていく。
血飛沫は月光を弾き、やがてノアの周りには大きな血溜まりが広がっていた。
十分にノアを穿ったのを確認すると、アリビアは無言のまま立ち上がり、ドラミホールにのもとへ歩み寄る。
それでも、奇跡的にノアは生きていた。
コヒュー、コヒューと喉を鳴らし、かろうじて続く呼吸。だがその命の灯は今にも消え入りそうなほどに弱々しい。
「ここまで弱らせれば、十分だろ」
拘束の魔法が解かれると同時に、ドラミホールはうつ伏せのノアを無造作に蹴り飛ばす。
泥と血が頬に張り付き、月明かりの冷たい光がうっすら開いた瞼の隙間に差し込んだ。
「……ふむ。あれほどの男も、こうもあっけないものか」
デーゲンハルトが冷ややかに呟く。
「やはり最強といっても所詮は人間。肉体を削ぎ落とせば人の域を出ない」
「ははっ、最強の勇者様もこのざまよ。なぁノア?」
ドラミホールはにやりと笑い、血まみれのノアの頬を靴で踏みつける。
「さて……死んでしまう前にやるか」
ドラミホールがノアを見下ろしながら、口角を吊り上げた。
その笑みに呼応するように、空気がぐにゃりと歪む中で……こう呟いた。
「――穢神ノ胎」
ぶちっ、ずちゅっ……。
肉の裂けるような音と共に、ドラミホールの身体が変わり始めた。
皮膚が内側から膨れ、異様に膨張していく。
骨が軋み、腕や脚の関節がボキボキと音を立てて、あり得ない方向へねじ曲がる。
顔は崩れ、口元が耳まで裂ける。
粘液まみれの鋭い歯がいくつも重なって現れ、右目は垂れ下がり、左目は赤黒く腫れ上がっていく。
蠢く肉と腐臭を撒き散らすその姿は、もはや人ではなく、赤黒い肉塊の化け物だった。
「やっと……食べ……れる……」
禍々しく低い声でそう言いながら、ドラミホールだった化け物はズル、ズルとノアに這い寄る。
「あ……あぁ……やめ……やめて……くれ」
ノアの血と化け物の粘液が、地面でぐちゃりと混ざり合う。
鼻を衝く腐臭が立ちこめ、その不快さがノアの胸をえぐり、恐怖を更に掻き立てた。
「おい、そのままいくなよ?」
突如、ドラミホールの背後で言葉を発したのはデーゲンハルトだった。
その言葉にドラミホールはぎこちなく動きを止め、獣のような荒い呼吸と共にデーゲンハルトへ振り返る。
「……あぁ、わかってる」
一言だけ返したドラミホールは、再びノアへ視線を戻す。
「やめ……て……嫌だ……」
恐怖と痛みに押し潰されながらも、ノアは血まみれの視界をわずかに動かす。
目に入ったのは先程からこの惨劇を傍観していた赤髪と金色の瞳の女。
女の表情は冷ややかだ。
しかしその双眸には、はっきりと憐れみの色が浮かんでいた。
ノアはその光を見逃さず、藁にも縋る思いで女に手を伸ばした。
「た……助け……!」
その声も虚しく、ドラミホールが屍を屠る獣のようにノアの胸に喰らい付いた。