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第29話 ノーリスク

 

 人々の喧騒が遠ざかる。

 路地裏の奥、辿り着いたのは偶然にもかつてノアとラビエナが身を寄せていた、あの見窄らしい小屋だった。

 

 雨風を防ぐために入り口にかけられたボロボロの浅布を捲り、中腰の姿勢で中に入るとそのまま部屋の隅に腰を下ろした。

 

 室内にはノア達が過ごしていた頃の名残りがあった。

 

 擦り潰した薬草、汚れた包帯。欠けた茶碗はノアの食器で小さなラビエナの食器は木の実の殻。

 寝具はダニがわいていてもおかしくないボロボロの麻布。ここで幾晩も飢えを凌ぎ、身を寄せ合って眠ったのを思い出す。


「ラビ……」


 手の中でぐったりと横たわるラビの左の手足は、既にほとんど砂となって崩れ、さらさらと指の隙間から零れ落ちていく。

 それでも、ラビエナは微笑んでいた。

 血の気を失った唇で、どこか安らかな微笑みを。


「ノア、短い間だったけど……今までありがと」

「何言ってんだよ! 勝手にいなくなるなんて許さないからな!」


 叫びにも似た声が響く。だがラビエナは首を横に振るだけ。すると今度は彼女の右脚が膝下から、音もなく崩れ始めた。

 

「駄目だ……駄目だラビ!」

「しょうがないよ。禁忌を破った罰を受けないと」

「その禁忌ってのはなんなんだよ!」

「力の無償譲渡……契約も交わさずに自分の力を与えたら、魔族はこうやって崩れて消えてしまうの」


 淡々と語るその表情に、恐れも後悔は微塵もない。美しい金色の瞳は、ただ穏やかにノアを見つめていた。


「なんで……なんでそんな事を! 俺はお前の大嫌いな人間なんだぞ!」


 ノアの声は掠れ、震えていた。

 ラビエナはそんな彼を見つめ、微笑んだまま小さく首を振る。


「確かに人間は嫌い。でもね……ノアやフィアと出会って、全部がそうじゃないってわかったんだ……」

「ふざけんなよっ! なにか……なにか手があるはずだ! ラビが消えなくても済む方法が!」


 その叫びに、ラビエナはノアから視線を逸らした。

 

「……無いわけじゃない。でも無理だよ……」

「無理ってなんだ? そんなこと言ってる場合じゃないだろ! 教えてくれ、何をすればいい!?」

「……この場で契約すればいいの……」

「ならすぐに――」


 思いの外、呆気無くラビエナを救えると感じたノアの言葉を、ラビエナは「でもね」と遮った。


「成功する保証は無い。もし失敗したら……ノアは死んじゃう。たとえ成功しても、魔族と契約した人間は……人間と魔族の両方から蔑まれる。だから……」


「――なんだやっぱり簡単じゃないか!」


 今度はノアがラビエナの言葉を遮った。


「ラビ、今すぐ契約しよう!」

「でも……でも! 死んじゃうかもしれないんだよ?」

「その時はその時だ! 俺はラビがいてくれないと嫌なんだ!」


 即答だった。

 何の躊躇もないその言葉に、金色の瞳が一瞬で滲む。


「いいの? 本当に……? 契約したらノアはずっと魔族の私といなきゃいけないんだよ?」

「そんなのリスクにもならないさ。ラビがいてくれたから俺は生きてこれたんだ……ラビがいてくれたから俺は独りじゃなかった。だから今度は俺がラビを独りにはさせない! だから……」


 ノアは言葉を一度区切った。

 ラビエナの金色の瞳には黒髪のノアが映る。その表情は、これから死ぬかもしれない男のものとは思えないほど、穏やかな笑みを浮かべていた。


「これからも一緒にいよう」


 迷いの無い言葉が、金色の瞳から涙を溢れさせた。


「ありがとう……ありがとうノア……私、ノアが大好き」

「な、なんだよ……いきなり……」

「だって死んじゃうかもしれないんだもん……言いたい事は伝えなきゃ後悔しちゃうもん」

「まったく……ほら、ラビが消える前に始めよう。何をすればいい?」


 問いかけに、ラビエナは残された右腕をゆっくりと持ち上げ、指先でノアの胸元を指し示した。


「心臓……ノアの心臓を私にくれる?」


 ノアは間髪入れずに頷いた。


「心臓だな。よし! 持ってけ!」

「ありが……とう」


 その言葉を最後に、ラビエナは残る力のすべてを解き放った。

 床一面に黒と赤と金の光が走り、瞬く間に入り混じって複雑な魔導陣が展開する。

 

 魔導陣からは禍々しい黒い煙が立ち上り、渦を巻く。それは生き物のようにうねりながらラビエナの身体を持ち上げ、ノアの手の中からふわりと離した。

 

 宙に浮かんだラビエナの小さな身体は、ゆっくりと黒い煙に包まれていくと、やがてそれは一つの球体の形を成す。黒の中に赤と金が脈打ち、不気味さすら覚えた。


 すると、球体から一本の黒い手がゆっくりと現れる。

 黒い手はゆっくりとノアの胸へ伸びると、まるで水面に触れるように音もなく沈み込んでいった。


 次の瞬間。


「……あがっ!?」


 喉の奥から絞り出されるような声が漏れる。

 胸の奥で何かが掴まれた。強く、容赦なく。


「……ッッッ!! あ゙ぁ゙ぁ゙ぁ゙!」


 あまりの苦痛に、悲鳴すら許されない。

 しかしノアは必死に歯を食いしばり、目の前の球体を睨みつけた。


「大丈夫だ……ラビ……遠慮せず……やれッ!!」


 ドクンッドクンッ! と今まで感じたことない短い間隔の鼓動が胸を叩く。

 そんなノアの言葉に応えるかのように、球体から伸びた手はノアの胸から、ずぶっと引き抜かれた。


「――ガッッ!?」

 

 引き抜かれた黒い手には、いまだ鼓動を続ける赤黒い心臓が握られていた。

 しかしノアの胸に傷は無く、血も流れていない。

 心臓は即座に球体に取り込まれる。

 同時にノアはその場に横たわった。


「カハッ!! はぁ……はぁ……」


 必死に息を吸って吐く。

 抑えた胸からは、煩かった鼓動が感じられない。

 

 一方、ノアの心臓を取り込んだ球体は突如弾けた。すると、球体の中にいたラビエナが姿を現し、そのままぽとりとノアの隣に落ちた。


「ラ……ビ……」


 横たわるラビエナに手を伸ばす。

 先程まで崩れていた彼女の体は、元の姿を取り戻している。


「……ん……」


 微かな声と共にラビエナの指がピクリと動く。ゆっくりと開かれた金色の瞳に黒髪の青年が映ると、彼女は優しく微笑んだ。


「――ノア、これからも……よろしくね……」


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