第21話 私の英雄
「寒くないか?」
ノアが隣に腰を下ろしたフィアに問いかけると、彼女は首を横に振った。
「ううん、大丈夫」
夜風にさらされた白髪が、月明かりを帯びてふわりと揺れる。どことなく嬉しそうに見えるフィアのそばでノアは夜空を仰いだ。
「……どうして宿屋を始めたんだ?」
その問いに、膝を抱えたフィアが少し遠い目をした。
「覚えてる? ノアが旅立つ時に、私が『嫌だ』って泣き喚いたの」
フィアの言葉にノアは沈黙を返す。
しかし彼女は構わず続けた。
「子供みたいにノアに縋り付く私に、ノア言ったよね。『必ず帰ってくる』って……だから、ノアが辛い旅の疲れも癒せるようにお金を貯めて宿屋を開いたんだ」
懐かしむようにフィアが呟く。
ただその無垢な言葉は、ノアの胸を強く締めつけるだけだ。
「……なんで……そんなことを……」
「……私の両親は、この見た目を呪いだといつも嘆いていた。住んでいた村の人達も、私の目を見ただけで『気味が悪い』って……そんな蔑まれる毎日だった」
声は微かに震わせるフィアは、まるで痛みを堪えるかのように膝を更に強く抱えた。
「そのまま捨てられて、辿り着いたのが七番街の孤児院だったけど、最初は誰も私に近づきはしなかった。でもね、ノアだけは違ったの。真っ先に話しかけてくれて、私の目を見て笑ってくれた」
語った過去を再現するようにフィアは、ノアと視線を合わせる。そしてにこっと笑った。
「本当に……本当に嬉しかったの。救われたの。ノアは私の世界に光をくれた英雄。だから今度はノアが困っている時は、私が助けてあげたいの」
赤い瞳はまっすぐで、迷いがない。
ノアはその言葉を受け止めきれず、思わず視線を逸らす。
英雄。今の自分には、あまりにも似つかわしくない呼び名だと。
「お、俺は……」
それ以上の言葉が出てこない。
喉の奥が震えるのに、声にはならなかった。
フィアはそんなノアを見つめたまま、穏やかに微笑み続けている。
ただ、その柔らかな笑顔は自分を偽ることを忘れさせるほどにまで、痛い。
「俺は……俺には何も残ってない。英雄の名も、誰かを救える力も……」
やっと絞り出した声にも、フィアは優しい表情のまま首を横に振った。
「そんなことない。少なくともノアは今も一人の人間を救ってくれてるよ」
その言葉にノアが「え?」と声を漏らすと、フィアは膝を抱えていた姿勢を解き、ノアへ体を向ける。
そして膝を折って草の上に正座をした彼女は、胸にそっと手を当てた。
「ノアが生きていてくれた……それだけで私は絶望の底から救われたよ」
月光を浴びた白髪が風に揺れる。
美しい以外の表現が浮かばない彼女の表情に、ノアは唇を噛んだ。
「どうして……どうしてそこまで……」
「私にとって、ノアが大切だからだよ。何があったかなんて聞かない。生きていてくれるだけで十分なの……だから……」
フィアがそこで言葉を一度切った。
「——今はゆっくり休んで」
柔らかく、暖かいフィアの言葉が夜風にのってノアの頬を撫でる。
同時に、その風はノアの胸の中を覆っていた黒い霧ようなものを払うように吹き抜けていく。
後悔や悲しみ、そして無力感が歪に絡みついた胸が少しだけ軽くなった気がした。
「……ありがとう……」
そう口にした時、熱い雫がノアの頬を伝った。
「泣かないでノア」
フィアがノアに近寄る。
雪のように白い手が、迷いなくノアの頬に伸びた。
指先が涙をなぞり、そっと拭い取る。
その手をノアは数日前のように拒むことはしない。
「ありがとう……ありがとうフィア……」
「ふふ、やっと名前を呼んでくれたね」
フィアはそっとノアを抱き締めた。
「……おかえりなさい、ノア」




