第19話 フィア・アルシェル
「ノア、ノアだよね!?」
質素なエプロン姿、輝くほど美しい白髪、そしてルビーのような赤眼を震えわせながら、彼女はベッドの上で体を起こすノアの真横まで駆け寄ってきた。
まるで夢にまで見た願いがようやく叶ったかのように、その瞳には涙が滲み、頬を伝いそうなほどに潤んでいる。
彼女の名はフィア・アルシェル。
ノアと同じ孤児院で共に育ち、同時に幼馴染でもある。
「どうして今まで隠れていたの!? どうして死んだことになってたの!?」
矢継ぎ早に投げかけられる問い。
揺れる赤い瞳に髭面の自分が映ると、ノアはフィアから目を逸らした。
「……俺は、ノアなんかじゃない」
「嘘っ! 私にはわかるよ! いくら見た目が変わっても、ノアはノアだもん!」
「……人違いだ」
ノアが低く呟く。しかしフィアの瞳は揺らいだままノアを映している。
「人違いなんかじゃない! ねぇノア、私だよ! 孤児院で一緒に暮らしたフィアだよ!」
必死に縋りつくような声。フィアは人並み以上に白く美しい両手でノアの手を握った。
「——っ!!」
フィアの手が触れた時、背筋を這い上がるような得体の知れない悪寒がノアを襲った。胸の奥が酷くざわつき、皮膚の下を虫が這うような感覚が広がっていく。
その時、脳裏にとある光景が過った。
今のフィアのように、何度もノアの手を握ってくれた美しい手。
傷ついたノアを幾度も癒し……そして、握ったナイフでノアの背を何度も突き刺した……愛しあっていたはずの彼女の手を。
「触らないでくれ!」
鋭い声と共にノアはフィアの手を弾くように振り払った。
弾かれた手が宙を彷徨い、フィアは呆然とノアを見つめた。
「ノア……」
彼女の頬を一筋の雫が伝い落ちる。
それでもノアは顔を背けたまま、何も返さない。
静寂の中、フィアはゆっくりと立ち上がる。
そして、逃げるように部屋から去っていた。
部屋には、閉じた扉の向こうで遠ざかる足音と、どうしようもない沈黙。
しかし長くは続かなかった。
「あの人、この前ノアの献花台の前で泣いてた喪服の人だよ」
ラビエナの言葉に、胸がひどく締めつけられた。
「あの、倒れるほど衰弱してた女が……フィア?」
ラビエナは静かに頷いた。
「そう。誰よりもあなたの死を嘆いていたのが、あの子」
ノアは喉の奥がひりつくのを感じた。
唇を噛みしめても、込み上げる痛みは抑えきれない。
しかしノアは首を振り、無理やりその思考を断ち切った。
「……関係ない」
搾り出すように呟くと、再び沈黙が訪れる。
その時、コンコンと扉が叩かれる音が聞こえた。
「……ノア?」
扉の向こう聞こえたのはフィアの声。
ノアの胸は再び酷くざわついた。
「……お腹空いてるでしょ? 扉の前に食事を置いておくから……食べてね」
それだけを告げると、扉の向こうは静かになった。
喉はからからに乾いている。腹は痛いほど空腹だ。
しかし、体は動けずにいた。
「ノア」
ラビエナは金の瞳でじっとノアを見据えていた。
「食べよう? いい加減、ノアには暖かい食事をしてほしいし、フィアが作るご飯、とても美味しいの……それに」
言葉を一度切ったラビエナはノアの眼前までふわりと浮かんだ。
「ノアが食べなかったら、その冷めた食事をフィアが泣きながら食べるんだよ?」
ラビエナの声は静かだったが、その一言は鋭い刃となって、確かにノアの胸を抉った。
想像してしまう。赤い瞳から涙を流しながら、震える手でノアのために作った料理を口に運ぶフィアの姿を。
そんな想像を振り払うように、ノアは乱暴に頭を振ると、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
足元がまだ覚束ない。ぎしりと床板が鳴るたびに、胸のざわめきが増していく。
扉の前に立ち、しばらく手をかけられずにいた。
深く息を吸い、吐く。
そして――ゆっくりと扉を開けた。
そこには木の盆が置かれていた。
上には素朴だが温かな湯気を立てる野菜のスープ。
焦げ目を避けるよう丁寧に焼かれた柔らかなパン。
そして、小さな器には刻んだ薬草を混ぜ込んだ粥が盛られている。
どれも、弱った体を気遣ったものばかりだった。
偶然でないことは分かる。
これらは確かにフィアが、ノアのために作ったものだ。
ノアはしばし盆を見下ろしたまま立ち尽くした。
そしてゆっくりと手を伸ばし、盆を両腕に抱えると湯気が頬を撫で、香りが胸の奥を揺らした。
扉を閉め、部屋へと戻る。
机の上に盆を置くと、しばらく無言でそれを見つめ続けた。
逃げ場のない空腹と、胸を締めつける想い。
やがてノアは恐る恐る匙を取り、スープを掬った。
口に含んだ瞬間、舌に広がった味はやけに懐かしく、痛いほど優しい。
ごくりと飲み込むと、まるで今までの辛い日々を慰めるように、喉から胃へと暖かさが落ちていった。
「……くそ……」
堪えきれず、視界が滲む。
匙を握る手が震え、ぼたりと雫が器に落ちた。
「美味しい?」
不意に耳に届いたラビエナの声は、まるでからかうようでいて、どこか優しさを含んでいた。
「……あぁ……美味いなぁ……」
視界はもう滲んで見えず、涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃのまま、ノアは嗚咽を噛み殺しながら、ただ必死に食べ続けた。




