第9話:「夕顔(ユウガオ)と歪んだ愛情」
《植物標本室》は、盛夏の光に包まれながらも、その奥底には常に静謐な空気が満ちていた。三条蘭は、埃を払ったガラスケースの標本を眺めながら、これまでの事件で触れてきた様々な「心の毒」に思いを馳せていた。少女たちの純粋さの中に潜む不安や嫉妬、そして外部からの悪意。それらが、植物という媒介を通して具現化される様を、蘭は静かに見つめてきた。しかし、今回持ち込まれる問題は、より複雑な、そして深く歪んだ「愛情」が関わっているようだった。
夕刻、窓の外の学園の喧騒が遠のく頃、標本室の扉が叩かれた。佐伯冬子先生が、いつになく困り果てた表情で、高等科一年生の風間怜を伴って現れた。怜は、学園でも特に目立つ生徒ではなかったが、いつも明るく、友達に囲まれている印象があった。だが、今の彼女は、顔色が悪く、その腕には、まるで爪で引っ掻いたかのような、不自然な赤い筋がいくつも走っていた。
「蘭さん、風間さんが、どうも様子がおかしいのです」
冬子先生の声は、心配と戸惑いが入り混じっていた。
「怜さんは、数日前から、夜になると強烈な幻臭に悩まされていると訴えています。具体的には、『肉が腐敗したような、甘くねっとりとした匂い』だそうで……。その幻臭がすると、ひどい吐き気に襲われ、同時に、腕のこの傷が増えるというのです」
幻臭。そして、自傷行為にも見える腕の傷。蘭は、怜の腕に走る赤い筋に目を凝らした。それは、確かに爪で引っ掻いたようにも見えるが、よく見ると、特定の植物が持つ微細な棘による、直線的な傷のように見えた。そして、傷の周囲には、かすかに粘り気のある、透明な液体の跡が残っている。その液体は、ほんのわずかに、夜の庭園に咲く、ある植物の香りを帯びているようだった。
「風間さん、最近、何か変わったことはありましたか? 特に、夜の間に、何かを触ったり、どこかへ行ったりしたことは?」
蘭が静かに尋ねると、怜は怯えたように目を伏せた。
「何も……でも、最近、私の部屋の窓の外に、白い花が咲くようになったんです。昼間はしぼんでいるのに、夜になると、急に大きく開いて、甘い匂いをあたりに漂わせるんです」
怜は、顔を覆うようにして、震える声で続けた。
「そして、その花が咲くと、あの嫌な匂いがしてきて……それがすると、胸が苦しくなって、気がつくと、腕がこんなことに……」
白い花。夜に咲き、甘い匂いを放つ。そして、幻臭と自傷。
蘭は、怜の腕に付着していた透明な液体を、ごく微量採取した。それを顕微鏡で覗くと、驚くべきものが現れた。
「これは……夕顔の茎から出る粘液ですね。そして、その中に、ごく微細なアリや、その他の昆虫の死骸の破片が混じっている……」
夕顔。夜に白い花を咲かせ、甘い香りを放つ植物だ。しかし、その花自体に幻覚作用や、肌を傷つけるような毒性はない。
蘭は、採取した液体を、標本室の分析器にかけた。結果は、蘭の予測を裏付けるものだった。
「この液体から、特定のアルデヒド化合物が検出されました。これは、肉が腐敗する際に発生する、特徴的な匂い成分です。そして、その匂いが、夕顔の甘い香りと混じり合うことで、より不気味な、甘くねっとりとした幻臭として知覚されたのでしょう」
冬子先生は、驚きに目を見開いた。
「肉の腐敗臭が、夕顔の花から? まさか……」
「ええ。夕顔は、夜に咲き、甘い香りで特定の昆虫(例:蛾)を引き寄せます。しかし、この夕顔の花には、昆虫だけでなく、死んだアリなどの小さな虫を誘引するよう、何らかの細工が施されていたのでしょう。そして、その死骸が花弁や茎の粘液に付着し、腐敗することで、あの幻臭を発生させていた。腕の傷は、その花に付着していた腐敗物質や、それによって発生した細菌に、怜さんがアレルギー反応を起こし、無意識に掻きむしったものと推測されます」
それは、ただの幻臭ではない。誰かが、怜の部屋の窓辺に咲く夕顔を、意図的に「毒」の媒介として仕立てていたのだ。
なぜ、そんなことを?
蘭は、怜の表情に、かすかな自己犠牲の精神のようなものを見出した。彼女は、いつも他人に尽くし、自分を顧みない傾向があった。
「風間さん、最近、何か親しい人との関係で、悩んでいることはありませんでしたか? 特に、貴女を『大切にしている』と主張する人物との間で……」
蘭の問いに、怜はびくりと肩を震わせた。
「それは……。私は、幼馴染みの結城さんが、最近、学園で孤立しがちで……。私が、そばにいてあげないと、彼女はもっと辛くなってしまう、と思って……。だから、私が、少しだけ我慢すれば……」
結城。学園で、風間怜に異常なほど執着していると噂される少女だ。怜が他の生徒と親しくすると、すぐに不機嫌になり、時には泣き出すこともあったという。
蘭は、全てを理解した。
「その結城さんが、貴女の部屋の窓辺に、その夕顔を植えたのではありませんか?」
怜は、顔を覆い、嗚咽を漏らし始めた。
「結城さんは、私のことを、誰よりも大切にしてくれている、と……。だから、私に、私にしか咲かない特別な花をあげる、って……。夜中に、そっと窓の下に植えてくれたんです。私は、嬉しくて……」
それは、歪んだ愛情だった。
相手を独占したいがために、精神的に追い詰める。
「夕顔は、『儚い恋』や『魅惑』を象徴する花です。結城さんは、その花に、貴女への**『歪んだ愛情』と『独占欲』を込めたのでしょう。夜に咲き、甘い香りで誘惑し、そして、死んだ虫の腐敗臭で幻臭を引き起こす。それは、貴女を精神的に追い詰め、他の人との交流を絶ち、自分だけを頼るように仕向けるための『毒の花』**だったのです」
その毒は、単に肉体を蝕むだけでなく、怜の精神を孤立させ、結城への依存を深めさせることを目的としていた。
「そして、この幻臭。単なる腐敗臭だけではありません。その匂いには、ごく微量のアンモニア系の揮発性物質が含まれていました。これは、人間が極度の不安やストレスを感じた際に、体から発散される匂いに似ています。結城さんは、この匂いを嗅がせることで、怜さんの『孤独感』や『不安』を増幅させ、自分への依存を強めようとしたのかもしれません」
冬子先生は、怒りと悲しみで顔を歪めた。
「なんと、恐ろしい……。これは、怜さんの心を、意図的に壊そうとした行為です」
「ええ。その通りです。最も残酷な毒は、時に『愛情』という名の仮面を被って現れるものです」
蘭は、標本室の棚から、乾燥させたカモミールの花が入った袋を取り出した。
「風間さん。このカモミールは、精神を落ち着かせ、安眠を誘う効果があります。お茶にして飲んでみてください。そして、窓辺の夕顔は、すぐに撤去します。貴女は、誰かの歪んだ愛情に縛られる必要はありません」
怜は、カモミールの香りを吸い込んだ。その優しい香りが、彼女の心を少しだけ解き放ったようだった。
「蘭さん……私、どうすればいいか、分からなくて……」
「貴女は、自分の心の声を、もっと大切にすべきです。誰かのための自己犠牲は、時に、自分自身を蝕む毒となります。本当の愛情は、相手を縛り付けるものではありませんから」
冬子先生は、すぐに結城の事情聴取と、学園内の生徒間の関係調査に乗り出すことを決意した。
蘭は一人、窓から見える夕顔の白い花を眺めた。
夜にひっそりと咲き、甘く香るその花が、これほどまでに歪んだ感情の象徴となり得ることに、蘭は深い静かな悲しみを感じた。
蘭は知っていた。
この学園には、表面上の美しさや純粋さの裏に、深く、そして見えにくい「心の毒」が潜んでいることを。
そして、その毒の根源は、蘭自身の「決して明かしてはならない過去」と、標本室の奥に眠る“外に出してはならない”秘密の標本に繋がっていることを。
歪んだ愛情が作り出した、夜の花。
蘭は、その毒の真実を、静かに見つめ続けていた。