第8話:「彼岸桜(ヒガンザクラ)と届かぬ声」
《植物標本室》には、夏の日差しがさらに強さを増し、標本のガラスケースの中に閉じ込められた植物たちも、どこか息苦しそうに見える。三条蘭は、窓をわずかに開け、熱気を帯びた外の空気を入れ替えていた。これまで、学園の少女たちの心に潜む「毒」を解き明かしてきた蘭だが、今回は、その毒が「集団」という形で現れた、より根深い問題が持ち込まれようとしていた。
夏の風が、微かに土と古びた紙の匂いを運んでくる。そんな中、標本室の扉が、ゆっくりと開かれた。佐伯冬子先生が、疲労困憊の様子でそこに立っていた。彼女の顔には、憔悴の色がはっきりと見て取れる。そして、その表情は、これまでのどんな事件にも増して、深い悲しみを湛えていた。
「蘭さん、今度は……集団で、です」
冬子先生の声は、かすれて今にも消え入りそうだった。
「高等科一年生の一クラス、ほぼ全員が、原因不明の発熱と倦怠感、喉の痛みを訴え、次々と倒れているのです。学園医も、ただの夏風邪だと診断していますが、これほど広範囲に、そして症状が重いのは異常です」
集団感染。しかし、冬子先生の様子から、ただの病ではないと蘭は直感した。
「何か、変わったことはありましたか? 例えば、特定の場所に集まっていたとか、何かを共有していたとか」
蘭が静かに問うと、冬子先生は、俯いたまま絞り出すように言った。
「それが……そのクラスは、先日、学園内の**『慰霊碑の庭』**の清掃活動に参加していました。そして、その活動中、生徒の一人が、慰霊碑の裏手から、奇妙な桜の枝を持ち帰ってきたというのです」
慰霊碑の庭。学園の敷地の一番奥、滅多に生徒が立ち入らない場所だ。そこには、学園の創設期に起きた、ある悲劇の犠牲者を祀る慰霊碑が建っている。そして、奇妙な桜の枝。
蘭は、冬子先生の手にある、小さな木の枝に目をやった。それは、すでに枯れかかっているが、それでも、わずかにピンク色の小さな花弁が残っている。その花弁は、一般的な桜よりも小さく、そして、時期外れにもかかわらず、その枝には新しい芽がいくつか膨らみかけていた。
蘭は枝を受け取ると、その花弁を指でそっと触れた。
「これは……彼岸桜ですね」
彼岸桜。彼岸の時期に咲くことからその名がある。一般的な桜よりも早く、あるいは遅れて開花することもある。しかし、この枝には、わずかに粘り気のある、黒っぽい液体が付着していることに蘭は気づいた。そして、その液体からは、かすかに土と、そして、金属のような、錆びた匂いがした。
蘭は、枝の先端を顕微鏡で覗いた。そこには、彼岸桜の細胞とは異なる、不規則な形をした微細な粒子が多数付着しているのが見えた。
「この枝には、特定の微細な真菌類(カビの一種)の胞子が大量に付着しています。これは、通常、湿った土壌や、 decaying organic matter(腐敗した有機物)に生息するものです。そして、この黒っぽい液体……これは、その真菌が生成する微量な毒素と、土壌に含まれる鉄分が酸化した物質が混じり合ったものです」
冬子先生は、震える声で言った。
「真菌の毒素……? それが、生徒たちの症状の原因だと?」
「ええ。この真菌の胞子は、吸入することで呼吸器系の炎症を引き起こし、発熱や喉の痛みを伴う風邪のような症状を呈します。特に、免疫力の低い生徒や、長時間その環境にいた生徒ほど、症状が重くなるでしょう」
蘭は、さらに詳細な分析を行った。採取した液体から、特定の**マイコトキシン(真菌毒素)**が検出された。これは、長期的な曝露により、倦怠感や慢性的な体調不良を引き起こすことが知られている。
「しかし、なぜ、その真菌が慰霊碑の庭に……」
冬子先生の疑問に、蘭は慰霊碑の庭の過去を思い出した。
学園の創設期、あそこで何があったのか。それは、公には語られない、「忘れ去られた悲劇」だ。
蘭は、枝に付着した土の粒子を調べた。そこには、微量ながら、通常の土壌には存在しない、極めて高濃度の特定の鉱物が含まれていた。それは、過去に土壌汚染があったことを示唆していた。
「冬子先生。その『慰霊碑の庭』は、どのような場所でしたか? 特に、土壌の状態や、日当たりについて」
「慰霊碑の庭は、学園の敷地の中でも日当たりが悪く、常に湿気が多い場所です。そして、慰霊碑の裏手は、あまり手入れされておらず、草木が鬱蒼と茂り、地面も常に湿っていました……」
蘭は、頷いた。
「その環境は、この特定の真菌が繁殖するには最適です。そして、彼岸桜。この時期に芽吹き始めたのは、おそらく、その土壌の特殊な条件が、生育サイクルを狂わせたのでしょう。この彼岸桜は、その環境で毒性を持つ真菌を吸い上げ、枝に付着させていた。そして、生徒たちがその枝を触り、あるいは、清掃活動で胞子を吸い込んだことで、症状が広がったのです」
それは、慰霊碑が象徴する**「忘れ去られた悲劇」が、形を変えて現れたかのようだった。
過去の悲劇が、土壌を汚染し、その汚染が真菌を繁殖させ、そして、その真菌が、純粋な生徒たちの体を蝕む「毒」となった。
「なぜ、彼岸桜を……。生徒たちは、何か特別な意味を見出していたのでしょうか?」
冬子先生の問いに、蘭は静かに答えた。
「彼岸桜は、墓地や慰霊の場所に植えられることが多い花です。彼岸に咲き、『生死を超えて咲く』という意味合いを持つ。生徒たちは、無意識のうちに、その慰霊碑の場所に宿る『届かぬ声』**を感じ取り、その象徴である彼岸桜を持ち帰ったのかもしれません」
その「届かぬ声」とは、過去の悲劇によって、誰にも聞かれずに葬り去られた、犠牲者たちの声なのか。
それが、真菌という形で具現化し、生徒たちの体に「毒」として現れた。
「冬子先生。この問題の根源は、その『慰霊碑の庭』の土壌そのものにあります」
蘭は、冬子先生に、慰霊碑の庭の土壌のサンプル採取と、専門家による汚染調査を依頼した。
「生徒たちの症状は、この真菌の胞子を吸入しなくなったことで、自然と回復していくでしょう。しかし、根本的な解決のためには、汚染された土壌の浄化が必要です。そして、何よりも、その慰霊碑に込められた**『届かぬ声』に、学園が耳を傾けるべき**です」
冬子先生は、蘭の言葉に、深く頷いた。その目には、責任感と、そして過去の真実と向き合う決意が宿っていた。
蘭は一人、標本室で、彼岸桜の枝を静かに眺めた。
この学園には、まだ多くの「忘れ去られた場所」があり、そこに「忘れ去られた毒」が潜んでいる。
そして、その毒は、蘭自身の「決して明かしてはならない過去」と、標本室の奥に眠る“外に出してはならない”秘密の標本に深く繋がっていることを、彼女は知っていた。
彼岸桜が語る、届かぬ声。
それは、過去の悲劇が、現在の生徒たちに訴えかける、沈黙のメッセージだった。
蘭は、そのメッセージを、静かに受け止めていた。