第7話:「夾竹桃(キョウチクトウ)と毒の肖像」
《植物標本室》は、夏本番を迎える強い陽射しの中、微かに熱を帯びていた。乾燥した植物の匂いが、一層濃く室内に立ち込める。三条蘭は、今日もまた、学園に潜む新たな「毒」の報告を待っていた。これまでの事件で、彼女は少女たちの心に巣食う毒が、時に無意識の行動、時に巧妙な悪意によって具現化される様を見てきた。だが、今回のケースは、その毒が「表現」という形をとって現れた、より複雑なものだった。
午後、佐伯冬子先生が、疲れた様子で標本室にやってきた。その手には、一枚の絵が握られている。それは、学園の美術部に所属する、高等科二年生の**桜井薫**の作品だという。薫は、学園でも将来を嘱望される天才画家として知られ、その作品は常に高い評価を得ていた。
「蘭さん、桜井さんの作品が、問題になっているのです」
冬子先生の声には、困惑の色が滲んでいた。
「彼女は、学園祭の美術展に向けて、渾身の作品を描き上げたのですが……その絵を見た数人の生徒が、めまいや吐き気を訴え、中には意識を失いかけた者まで現れたのです。絵の具に何か毒が混じっていたのではないか、と騒ぎになっています」
絵を見ただけで、めまいや吐き気、意識の混濁。蘭は、冬子先生から絵を受け取った。
それは、写実的でありながらも、どこか幻想的なタッチで描かれた一枚の肖像画だった。学園の生徒と思われる少女が、鮮やかなピンク色の花を背景に、うつろな表情でこちらを見つめている。その花は、どう見ても学園に咲く花ではない。蘭の目には、その花が、ある種の毒草に酷似していることがすぐに見て取れた。
「この絵に描かれている花は……夾竹桃ですね」
蘭は、静かに言った。
夾竹桃。その美しい花からは想像もつかないほど強い毒性を持つことで知られる。特に、オレアンドリンやネリアンチンといった強心配糖体を含み、誤って口にすれば、心臓麻痺を引き起こすこともある猛毒だ。
「夾竹桃? しかし、学園には夾竹桃は植えられていません。それに、絵に描かれたものが、これほど強い影響を及ぼすとは……」
冬子先生は、絵を恐れるかのように、一歩後ずさった。
蘭は、絵の表面に顔を近づけ、深く吸い込んだ。
微かに、薬品のような、しかしどこか甘い、奇妙な香りがした。その匂いは、絵の具の匂いとも、夾竹桃の匂いとも異なる。それは、より人工的で、揮発性の高い化学物質の匂いだった。
「この絵に使われている絵の具に、**特定の揮発性有機化合物(VOCs)**が添加されています。それが、この匂いの正体でしょう。そして、この絵に描かれた夾竹桃……薫さんは、この花をどこで見たのでしょう?」
蘭は、絵の具の表面を、ごく微細なブラシで撫で、目に見えないほどの顔料の粒子を採取した。それを顕微鏡で覗くと、驚くべきものが見つかった。
「この顔料の粒子に、微細な植物繊維が絡みついています。これは、まさしく夾竹桃の葉や茎から採取されたもの。それも、非常に新しい、乾燥させていない生の状態の植物繊維が混入しています」
冬子先生は、信じられない、という顔をした。
「生の状態の夾竹桃が、絵に……? しかし、なぜ?」
蘭は、採取した粒子を高性能の化学分析器にかけた。結果は、蘭の予測を裏付けるものだった。
「この絵の具から、夾竹桃に含まれる毒性成分、オレアンドリンが、ごく微量ながら検出されました。そして、絵の具に混ぜられていた揮発性有機化合物は、クロロホルムです」
クロロホルム。かつて麻酔薬として用いられたが、現在は毒性が強いため使用が制限されている揮発性化合物だ。
「クロロホルムは、神経を抑制し、吸入することでめまい、吐き気、意識喪失を引き起こします。そして、この毒性が、絵の具の表面から揮発し、絵を見た人に影響を与えていたのでしょう」
「しかし、なぜ、桜井さんがそんなものを……」
蘭は、桜井薫が描いた肖像画の少女の表情を改めて見た。その目は、悲しみと、諦めと、そして深い自己嫌悪に満ちているように見えた。まるで、自分自身を毒で描いているかのように。
「薫さんは、最近、何か苦悩を抱えていましたか? 特に、自身の芸術性や、才能に関して」
冬子先生は、顔を曇らせた。
「そういえば……彼女は、常に完璧を求めるあまり、最近、**自分の絵が『生きていない』と嘆くことが増えていました。いくら描いても、自分の理想の表現に届かない、と。周囲の期待が、彼女には重荷になっていたのかもしれません。そして、美術部の顧問の先生からも、『もっと、魂を込めた絵を描け』**と、厳しい言葉をかけられていたようです」
魂を込めた絵。そして、夾竹桃。
蘭の頭の中で、全てのピースが繋がった。
「薫さんは、自分の絵に『魂』を込めようと、夾竹桃の『生命力』と『毒』を取り込もうとしたのでしょう。生の状態の夾竹桃を潰し、その毒性成分と、植物繊維を絵の具に混ぜ込んだ。そして、その毒性を強化し、『絵を見た人に直接訴えかける』効果を持たせるために、クロロホルムを添加したのです」
それは、芸術家としての苦悩が、究極の「毒」となって現れた姿だった。
絵を描くことは、自己表現だ。しかし、その表現が、あまりにも現実の「毒」に近づきすぎた時、それは鑑賞者をも蝕む。
「彼女は、自分の絵に**『生きた毒』**を込めることで、絵を見た人に、自分と同じ苦しみや、何らかの強烈な感情を伝えようとしたのではないでしょうか」
蘭は、絵の少女の、うつろな瞳を見つめた。その瞳は、まさに毒を宿しているかのようだった。
「それは……あまりにも危険です」
冬子先生は、青ざめた顔で言った。
「ええ。夾竹桃は、非常に強い毒性を持つため、扱いは極めて慎重に行うべきです。薫さんは、自身の芸術的苦悩の果てに、無意識のうちに、あるいは意図的に、この『毒の肖像』を創造してしまったのでしょう」
蘭は、桜井薫の絵を、再び手に取った。
「夾竹桃は、『危険な美』を象徴する花です。彼女は、その美しさと毒性を、自身の才能の限界と、周囲の期待に押しつぶされそうな心を映し出す鏡として用いたのかもしれません」
蘭は、標本室の隅にある、薬品棚から、小さなスポイトと、アルコールが満たされた瓶を取り出した。
「この絵から、毒性のある成分を除去する必要があります。そして、薫さんには、毒性植物の正しい知識を伝えると共に、その創作の苦悩を誰かに打ち明ける機会が必要でしょう」
「私が、すぐに薫さんとお話しします」
冬子先生は、決然とした表情で頷き、絵を持って標本室を後にした。
蘭は一人、静かに夾竹桃の標本を手に取った。
学園の教師たちは、生徒たちに「美しい花」だけを見せようとする。しかし、彼女が知る植物の世界は、美しさの裏に、常に「毒」と「真実」が潜んでいる。
芸術という「表現」を通して現れた毒は、蘭の心に、ある種の郷愁を呼び起こした。
それは、彼女自身の「決して明かしてはならない過去」に深く関わる、**「毒の絵画」**の記憶――そして、標本室の奥に眠る“外に出してはならない”秘密の標本の記憶だった。
美と毒。創造と破壊。
学園の闇は、時に芸術の顔をして、その毒を露わにする。
蘭は、その毒の肖像を、静かに見つめ続けていた。