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第6話:「水仙(スイセン)と欺瞞の鏡」

 《植物標本室》は、夏の強い日差しを遮るように、厚いカーテンが引かれていた。室内に満ちる植物の香りは、暑さの中でどこか重く、深く沈んでいくようだ。三条蘭さんじょう・らんは、今日もまた、この隠された空間で、学園に蔓延る新たな「毒」と向き合っていた。これまでの事件で、彼女は少女たちの心に宿る毒を暴き、その根源を探ってきたが、今回は、その毒がより巧妙に、そして悪意を持って仕組まれている可能性を感じていた。


 その日の午後、佐伯冬子さえき・ふゆこ先生と共に標本室に現れたのは、学園の最高学年、高等科三年生の笹原麗ささはら・うららだった。麗は、その名の通り麗しい容姿を持ち、成績も常にトップクラス。学園の演劇部では常に主役を張り、教師からも生徒からも一目置かれる存在だった。しかし、今の彼女は、その輝きを失い、憔悴しきった顔でうつむいている。特に、彼女の左の頬には、赤く腫れ上がった奇妙な発疹が広がっていた。


 「蘭さん、笹原さんが大変なのです」

 冬子先生の声は、かすかに震えていた。

 「麗さんは、数日前から、この発疹に悩まされています。医者からは原因不明のアレルギーだと言われ、薬を処方されましたが、一向に良くならず、むしろ悪化しているように見えます。顔にできたことで、最近は外に出ることも嫌がっていて……」


 発疹。しかも、顔に。蘭は、麗の顔に広がった発疹に目を凝らした。それは、ただのかぶれとは異なり、まるで小さな水泡が破れたような、不規則な形をしていた。そして、その水泡の跡には、微かに透明な液体が滲んでいるのが見える。その液体は、陽光に当たると、ごくわずかに虹色に光るように見えた。


 「笹原さん、最近、何か変わったことに触れたり、普段使わないものを使ったりしましたか?」

 蘭が静かに尋ねると、麗はか細い声で答えた。

 「何も……。ただ、最近、演劇部の舞台稽古で、新しい化粧道具を使うようになったくらいで……。それに、部の後輩の**橘詩織たちばな・しおり**さんが、よく私の楽屋に出入りするようになりました」


 新しい化粧道具。そして、後輩の出入り。蘭は、麗の頬に手を伸ばし、微かに滲む液体を、ごく微量だけ採取した。それを顕微鏡で覗くと、驚くべき光景が広がった。

 「これは……植物の細胞片ではありません。しかし、その構造は、特定の水生植物の根茎から抽出される、非常に粘性の高い液体に酷似しています。そして、その液体の中に、ごく微細なガラス質の結晶が混じっている……」


 蘭は、採取した液体を、標本室の隅にある高性能な化学分析器にかけた。

 分析器が示すデータには、毒性のあるシュウ酸カルシウムの結晶、そして、特定のアミド系化合物が検出されていた。

 「シュウ酸カルシウム……これは、**水仙スイセン**の球根や葉に多く含まれる成分です。皮膚に触れるとかゆみやかぶれ、水泡を引き起こします。しかし、これほどひどい発疹になるには、相当な量が繰り返し塗布されたか、あるいは……」


 蘭は、もう一度、麗の頬にできた発疹の形と、水泡の跡を注意深く観察した。

 「笹原さん、その新しい化粧道具は、具体的に何でしたか?」

 「はい……舞台用の、特に**肌を白く見せるための『おしろい』**です。いつも使っていたものより、少し匂いが強くて……」


 おしろい。そして、水仙の毒。

 蘭の頭の中で、全てのピースが繋がった。

 「そのおしろいには、水仙の球根から抽出された、毒性のあるシュウ酸カルシウムが、故意に混入されていたのでしょう。そして、その『匂いが強い』という成分は、**特定の有機溶媒(例:トルエン、キシレンなど)**です。これらの溶媒は、シュウ酸カルシウムの皮膚への浸透性を高め、発疹を悪化させます。また、これらの溶媒は、吸入するとめまいや吐き気を引き起こすこともあります」


 冬子先生は、驚きと怒りに声を震わせた。

 「故意に……まさか、誰かが笹原さんに毒を塗布していたと?」

 「ええ。そして、その化粧道具に、特定のアミド系化合物が検出されたこと。これは、水仙の毒性を偽装し、天然由来の植物性成分だと誤認させるための、ごく微量の合成香料として用いられた可能性があります。天然の水仙からは、通常このような化合物は検出されません」


 蘭は、麗のもう一方の頬をそっと触った。その肌は滑らかで、発疹は全くない。

 「そして、この発疹が、左の頬だけに集中していること。これは、特定の化粧道具、例えば**『パフ』や『刷毛』の片側だけに毒が塗布されていた**可能性を示唆しています。あるいは、舞台の立ち位置や、照明の当たり方など、麗さんの特定の動作を熟知した人物が、巧妙に仕組んだのでしょう」


 麗は、蘭の言葉に、呆然とした顔で立ち尽くしていた。

 「誰が……私に、そんなことを……?」

 「そして、後輩の橘詩織さんが、麗さんの楽屋によく出入りしていた、と。彼女は、麗さんの化粧道具に触れる機会が最も多かった人物の一人でしょう」


 蘭は、水仙という花を思い浮かべた。

 水仙は、その美しさから「ナルシスト」の語源となった花だ。水面に映る自身の美しさに恋し、水中に落ちて死んだ少年の物語。それは、自己愛と、それゆえの欺瞞を象徴している。

 麗は、学園の誰もが羨む、輝かしい存在だった。しかし、その輝きは、周囲の嫉妬や悪意を引き寄せていたのかもしれない。特に、演劇部の主役の座を常に麗に奪われ、影に隠れていた後輩、橘詩織。彼女が、麗の「完璧な美」という光に嫉妬し、その光を奪おうと画策した可能性があった。


 「笹原さん。貴女は、誰かの『欺瞞の鏡』に映し出された毒に触れてしまったのでしょう」

 蘭は、静かに言った。

 「その発疹は、貴女の美しさを貶めようとする、悪意の表れです。しかし、貴女の本当の価値は、顔の美しさだけではありません。その内面の輝きこそが、貴女を麗しく見せるのです」


 蘭は、標本室の棚から、小さな瓶を取り出した。中には、薄くスライスされたアロエの葉が、特殊な保存液に漬けられている。

 「これは、アロエのゲルです。皮膚の炎症を鎮め、修復を助ける効果があります。このゲルを、発疹に塗布してください。そして、化粧道具は全て、新しいものに替えましょう」


 麗は、震える手でアロエの瓶を受け取った。その目には、諦めと悲しみだけでなく、微かな希望の光が宿っていた。

 「蘭さん……私、どうすれば、この顔を……」

 「貴女の美しさは、決して失われません。この発疹は、貴女が『欺瞞』を見抜くための、大切な教訓となるでしょう」


 冬子先生は、橘詩織の事情聴取と、演劇部の化粧道具の調査のため、足早に標本室を後にした。

 蘭は一人、窓から差し込む夏の光を浴びながら、水仙の標本に目を向けた。

 美しい花には、しばしば毒がある。

 そして、人の心の「欺瞞」は、その美しさを装って、最も無垢な場所に入り込む。


 蘭は知っていた。

 この学園に潜む「毒」は、単なる心因性のものだけではない。それは、時に明確な悪意を持って、人々に危害を加えようとする。

 そして、その悪意の根源は、蘭自身の「決して明かしてはならない過去」と、標本室の奥に眠る“外に出してはならない”秘密の標本に繋がっていることを。

 水面に映る虚像のように、真実と欺瞞が入り混じる学園の闇。

 蘭は、その鏡を曇らせる毒を、一つ一つ拭い去っていく。

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