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第5話:「曼珠沙華(マンジュシャゲ)と忘却の庭」

 《植物標本室》の窓から差し込む陽光は、もはや夏の色を帯びていた。春の喧騒が過ぎ去り、学園は期末試験前の、ぴんと張り詰めた静けさに包まれている。三条蘭さんじょう・らんは、この静けさの中に、新たな「毒」の気配を感じ取っていた。これまでの事件で、彼女は少女たちの心の奥底に潜む苦悩を、植物という媒介を通して解き明かしてきた。しかし、今回の依頼は、これまでとは少し趣が異なっていた。


 佐伯冬子さえき・ふゆこ先生が標本室を訪れたのは、小柄な少女、**遠野光とおの・ひかり**を伴ってのことだった。光は初等科の生徒で、学園の制服がまだ少し大きい。その顔には、年相応のあどけなさが残る一方で、どこか深い悲しみが影を落としていた。そして、何よりも蘭の目を引いたのは、光の首元に巻かれた、真っ赤なスカーフだった。そのスカーフは、不自然なほどきつく巻かれ、まるで何かを隠しているかのようだった。


 「蘭さん、この子を助けていただけませんか」

 冬子先生の声は、いつになく沈痛な響きを帯びていた。

 「遠野さんは、最近、記憶が曖昧になることが多く、特に昨日の記憶がほとんどないというのです。ご家族も困惑されており、医者も原因が分からず……。それに、この赤いスカーフが、どうも気になるのです」


 記憶の喪失。そして、赤いスカーフ。蘭は、光にそっと近づいた。

 「遠野さん、少し、そのスカーフを見せてもらっても?」

 光は、一瞬怯えたように身をこわばらせたが、冬子先生に促され、おずおずとスカーフを緩めた。

 スカーフの下から現れたのは、首筋に広がる、無数の小さな赤い斑点だった。まるで何かにかぶれたかのように、わずかに腫れ上がっている。しかし、その赤い斑点の中には、明らかに植物の茎のような、細く短い黒い棘が何本か刺さっていた。


 「これは……」

 蘭は、ピンセットでその棘を一本、慎重に抜き取った。そして、首元の斑点から、ごく微量の液体を採取した。

 棘の先端を顕微鏡で覗くと、それは、特定の植物の茎から生える、ごく細い毛のようなものだった。そして、その毛には、わずかに赤茶色の色素が付着している。


 蘭は、棘を掌で転がし、鼻を近づけてみた。

 微かに、土と、そして、硫黄のような、しかしどこか甘く、湿った匂いがした。これは、以前、秋月夜の件で嗅いだ「練り香」の硫黄臭とは異なる。もっと、土壌深部の、有機物が腐敗したような、湿潤な匂いだ。

 そして、その匂いの奥に、蘭の脳裏に警鐘を鳴らす、ある植物の記憶が蘇った。


 「遠野さん、最近、どこかに行きましたか? あるいは、何か、変わったものに触れませんでしたか?」

 蘭の問いに、光は首を傾げた。

 「うーん……覚えていません。なんだか、頭の中がもやもやして……。でも、赤い花を、たくさん見たような、見なかったような……」


 赤い花。蘭は、採取した液体を、標本室の隅にある、簡易な分析器(時代設定を超越した蘭の知識と技術を示すものとして)にかけた。

 分析器が示すデータには、微量のアルカロイドの一種と、そして、驚くべきことに、ごく微量の放射性同位体の痕跡が検出されていた。それは、天然の植物には通常含まれない、特殊なものだった。


 「これは……リコリンですね」

 蘭は、棘の持ち主を確信した。

 「そして、この棘。間違いない、これは曼珠沙華マンジュシャゲです。ヒガンバナとも呼ばれる花で、根茎にリコリンという毒性アルカロイドを多く含みます。これは摂取すると嘔吐や下痢を引き起こしますが、茎の棘が皮膚に刺さるだけでも、炎症やかぶれを起こすことがあります」


 冬子先生は、光の首筋の赤い斑点を改めて見て、顔を青ざめさせた。

 「曼珠沙華……しかし、曼珠沙華は、通常、お墓の近くや、川の土手など、日当たりの悪い場所に群生するものでは……」

 「ええ。そして、この棘に付着していた放射性同位体。これは、通常の土壌には存在しません。特定の研究機関や、あるいは古い軍事施設跡など、限られた場所にしか見られない痕跡です」


 蘭は、光の記憶喪失と、この曼珠沙華が繋がっていると直感した。

 「遠野さん、貴女は最近、どこか学園の外に出ましたか? 特に、立ち入り禁止のような場所へ……」

 光は、困ったように眉をひそめたが、やがて、何かを思い出すかのように、小さな声で呟いた。

 「……森の奥に、光る苔が生えている場所がある、と……友達が、教えてくれて……」


 光る苔。そして、森の奥の「立ち入り禁止区域」。

 蘭の脳裏に、学園の敷地外に広がる、古い森の記憶が蘇った。そこには、明治時代に閉鎖された、とある研究施設の跡地があったはずだ。そこは、学園の生徒たちにとって、**「触れてはならない場所」**として、伝説のように語り継がれている場所だった。


 「光る苔、ですか……それは、おそらく、特定の放射性物質によって変異した苔でしょう」

 蘭は、光の首元に刺さっていた曼珠沙華の棘を、慎重にピンセットでガラスの容器に入れた。

 「そして、この曼珠沙華。その棘が皮膚に刺さることで、微量ながら毒性成分であるリコリンが体内に入り込み、頭痛や吐き気を引き起こします。しかし、今回の記憶喪失の主原因は、このリコリンだけではありません」


 蘭は、分析器のさらに詳細なデータを引き出した。

 「採取した液体には、リコリンの他に、ごく微量のある種の揮発性有機化合物(VOCs)が含まれています。これは、特定のキノコの胞子が放つもので、吸い込むことで、一時的な記憶の抑制や錯乱作用を引き起こすことが知られています。そして、このキノコは、高湿で、かつ放射性物質が存在するような特殊な土壌で、曼珠沙華と共に群生することがあるのです」


 冬子先生は、恐ろしさに顔を覆った。

 「まさか、そんな場所が……」

 「ええ。その場所は、まさに『忘却の庭』と呼ぶに相応しいでしょう」

 蘭は、静かに言った。

 「遠野さんは、その『忘却の庭』に足を踏み入れ、そこで曼珠沙華の棘に触れ、同時に、その特殊なキノコの胞子を吸い込んでしまったのでしょう。それが、昨日の記憶を曖昧にしている原因です」


 なぜ、光はそんな危険な場所へ?

 蘭は、光の表情に、かすかな寂しさの影を見出した。

 「遠野さん、貴女は、最近、何か忘れたいことがありましたか?」

 蘭の問いに、光は目を伏せた。

 「私……お兄ちゃんと、ケンカをしてしまって……。でも、そのケンカのことだけ、どうしても思い出せなくて……」


 蘭は、光の小さな手をそっと取った。

 「人は、辛い記憶を忘れたいと願うことがあります。しかし、植物の毒や、特殊な環境の作用で、無理やり記憶を閉ざしてしまうと、心はさらに深く傷ついてしまいます」

 曼珠沙華。それは、彼岸花とも呼ばれ、「再会」や「諦め」を意味する花だ。しかし、同時に「死」や「悲しい思い出」の象徴でもある。


 「遠野さん。その『忘却の庭』は、貴女が逃げ込みたいと願った場所だったのかもしれません。でも、本当の解決は、忘れることではない。向き合うことです」

 蘭は、標本室の棚から、小さな木の箱を取り出した。中には、丁寧に乾燥されたローズマリーの葉が収められている。

 「これは、記憶力や集中力を高める効果があるとされます。お湯を注いで、お茶にして飲んでみてください。そして、お兄さんとのことを、ゆっくり思い出してください」


 光は、ローズマリーの香りを吸い込んだ。その香りは、彼女の頭の中に、かすかな光を灯すようだった。

 「ありがとう、ございます……蘭さん」


 冬子先生は、学園の敷地外の「立ち入り禁止区域」の危険性を再確認し、生徒たちへの注意喚起を強化すると約束した。そして、光の記憶回復のために、蘭の助言に従って家族と話し合うことにした。


 蘭は、一人、標本室で、曼珠沙華の棘を収めたガラス容器を眺めた。

 あの「忘却の庭」は、何のために存在するのか。なぜ、そこに、通常の環境では見られない特殊な植物や、放射性物質の痕跡が残っているのか。

 それは、この学園の、そして蘭自身の「過去」に深く関わる、最も危険な「秘密の標本」へと繋がっている気がした。


 曼珠沙華は、墓標のように、忘れ去られた場所に咲く。

 しかし、その鮮やかな赤は、忘れてはならない真実を、力強く訴えかけているかのようだった。

 この学園の「忘却の庭」には、まだ見ぬ「毒」が、静かに息づいている。

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