第4話:「藤(フジ)と閉ざされた箱庭」
《植物標本室》は、学園の奥深くに、まるで忘れ去られた記憶のように佇んでいる。窓の外では、学園を象徴する藤棚が、初夏の陽光の下で優しい紫の房を揺らしている。しかし、その優雅な美しさとは裏腹に、今日もまた、学園の深部に潜む「心の毒」が、三条蘭の元に届けられようとしていた。
これまでの事件、宮村雪の「自由への渇望」と秋月夜の「孤独と依存」――蘭は、植物の知識と鋭い観察眼で、少女たちの内に秘められた苦悩を暴いてきた。その度ごとに、蘭自身の「決して明かしてはならない過去」が、標本室の奥に眠る“外に出してはならない”秘密の標本と共に、彼女の胸を締め付ける。
午後、標本室の扉が、いつもよりやや乱暴に開かれた。
現れたのは、佐伯冬子先生と、その後ろに続く、焦燥に満ちた表情の少女、**榊原梢**だった。梢は高等科二年生で、華道部に所属し、その才能は学園でも一目置かれていた。しかし、その顔色は生気を失い、目に隈ができており、ひどく疲れているように見えた。
「蘭さん、また、お願いがあります」
冬子先生の声は、いつになく切迫していた。
「榊原さんが、昨晩から奇妙な幻覚に悩まされているというのです。自分の部屋の壁が波打つように見えたり、誰もいないはずの場所に人影がちらついたり……。熱はありませんし、体調も特に悪くはありません。精神的なものだと、医者も首を傾げておりまして」
幻覚。蘭は、榊原梢に視線を向けた。彼女の指先は震え、爪は短く、何かを噛んだかのように傷ついていた。そして、その制服の袖口に、微かに紫色の繊維のようなものが付着しているのが見えた。
「榊原さん、何か、最近変わったことはありましたか?」
蘭が静かに尋ねた。
梢は、顔を伏せたまま、か細い声で答えた。
「何も……。ただ、最近、華道部の部室で、誰もいないはずの場所から、藤の花の香りがするのです。この時期に咲く藤とは違う、もっと濃い、甘い香り……。そして、その香りがすると、決まって、あの壁が波打つ幻覚が……」
藤の花の香り。蘭は、梢の袖口に付着した紫色の繊維を、そっとピンセットで採取した。それは、まさに藤の花弁から剥がれたもののように見えた。
しかし、梢の言う通り、この時期に学園の藤棚はすでに満開の時期を終え、ほとんど散りかけているはずだ。そして、たとえ咲いていても、藤の花はこれほど濃密な香りを放つものではない。
蘭は、その繊維を顕微鏡で観察した。
「これは確かに藤の花弁の組織ですが、一般的なものとは構造が少し異なりますね。そして、この繊維に付着している、微細な油状の物質……」
蘭は、その物質を極微量採取し、嗅覚で分析した。
「これは、イソボルニルアセテート。松の木やトウヒから抽出される精油に含まれる成分ですが、合成香料としても使われます。清涼感のあるウッディな香りがします。しかし、藤の花には、この成分は含まれません」
梢の言う「濃い、甘い藤の香り」と、検出された「イソボルニルアセテート」の香り。これらは全く異なるものだ。誰かが、人工的な香りを藤に付着させ、それを「藤の香り」だと誤認させている可能性がある。
そして、幻覚。特定の植物成分には、幻覚作用を持つものがある。
「榊原さん、最近、華道部で何か新しい作品を制作したり、あるいは、珍しい花材を扱いましたか?」
蘭の問いに、梢は首を横に振った。
「いいえ……。ただ、部長の**里見遥先輩が、最近、華道展に向けて『閉ざされた箱庭』**というテーマで、大作を制作していまして。藤をメインに使う、と話していました」
里見遥。学園の生徒会長も務める、才色兼備の優等生。彼女の華道への情熱は、学園内でも有名だった。しかし、その完璧さの裏に、時折、蘭は違和感を覚えることがあった。
「その『閉ざされた箱庭』は、部室のどこに?」
「部室の奥の、一番陽の当たらない場所に、段ボールで囲って作っていました。人に見られたくないから、と……」
蘭は、梢の爪が傷ついていることに再び目をやった。そして、その傷ついた指先を、わずかに嗅いだ。そこには、微かに土の匂いと、刺激的な芳香が混じっていた。
「榊原さん、貴女は、その『閉ざされた箱庭』の中を覗きませんでしたか? あるいは、そこに触れたことは?」
梢の顔が、さらに青ざめる。
「そ、それは……。一度だけ、先輩が席を外した隙に、覗いてしまいました。中には、たくさんの藤の花と、何種類かの鉢植えが置いてあって……。その時、強い香りがして、思わず触ってしまって……」
蘭は確信した。
「その『閉ざされた箱庭』の中に、幻覚作用を持つ植物が仕込まれていたのでしょう。そして、その植物から抽出された成分が、イソボルニルアセテートのような合成香料と混ぜ合わされ、藤の香りとして拡散されていた。それが、貴女の幻覚の原因です」
冬子先生が、驚きを隠せない様子で言った。
「幻覚作用を持つ植物……一体、どんなものが?」
「代表的なものでは、チョウセンアサガオやベラドンナなどが知られています。これらはアルカロイドを含み、摂取すると幻覚や精神錯乱を引き起こします。しかし、今回の幻覚症状は、単に摂取しただけでは説明できない、特定の視覚情報への作用が強く出ています」
蘭は、梢の袖口から採取した紫の繊維と、爪の間に残る微細な物質を、最新鋭の顕微鏡(時代には存在しないが、蘭の異能を示す装置として)で、分子レベルで解析した。
「この繊維に付着していたのは、単なる藤の花弁の破片ではありませんでした。非常に微細な、遺伝子操作によって特定の香りを増幅された藤の花弁の細胞片です」
冬子先生も梢も、その言葉に息をのんだ。
「遺伝子操作……まさか」
蘭は、静かに説明を続けた。
「そして、この『イソボルニルアセテート』が、ある種の揮発性の麻酔作用を持つ植物の成分(例:ヒヨス、ソラニン誘導体など)と混合され、部室の空中に微量に拡散されていたようです。この成分は、特定の視覚野に作用する神経伝達物質の活動を一時的に阻害し、壁が波打つような、あるいは人影がちらつくような錯覚を引き起こします」
蘭は、梢の爪の間に残る微細な物質を指差した。
「貴女が触れた時に付着したものでしょう。これは、その麻酔作用を持つ植物の精製されたエキスです。華道展の作品の中に、巧妙に仕込まれていたのでしょう」
「なぜ、そんな恐ろしいものを……」
冬子先生は震える声で言った。
「そして、なぜ、里見先輩が……」
蘭は、深いため息をついた。
「里見先輩は、おそらく、その『閉ざされた箱庭』の中で、自分だけの世界を作りたかったのでしょう。外部の目を遮断し、完璧な美を追求する。その過程で、彼女は精神的な閉塞感を感じていたのかもしれません。そして、その閉塞感から逃れるため、あるいは、他の誰かに自分の完璧な世界を侵されることを拒むために、この幻覚作用を持つ植物を用いた可能性があります」
梢は、顔を上げて蘭を見た。
「先輩は、いつも完璧で、誰にも弱みを見せませんでした……」
「完璧に見える人ほど、内に深い苦悩を抱えているものです。その苦悩が、『閉ざされた箱庭』という形で具現化され、貴女がそれを覗き込んだことで、幻覚という『毒』に触れてしまった」
蘭は、部室の藤棚の幻覚の真相に触れた。
「そして、華道部の部室で『藤の花の香り』がしたという幻覚。それは、イソボルニルアセテートが持つウッディな香りが、脳内で**藤の「甘さ」と結びつき、さらに幻覚作用が加わることで、実際にはない『濃い藤の香り』**として知覚されていたのでしょう。里見先輩自身も、その香りと幻覚に囚われていた可能性もあります」
それは、閉ざされた空間で、完璧を求めるあまり、自らをも蝕む「毒」を作り出してしまった、優等生の悲しい真実だった。
「榊原さん。貴女は、その『閉ざされた箱庭』から、もう出なければなりません」
蘭は、静かに言った。
「幻覚は、体が真実を教えてくれたサインです。貴女は、誰かの閉ざされた世界に引き込まれそうになっていた。これからは、自分自身の目で、真実の世界を見るのです」
蘭は、標本室の棚から、小さな瓶を取り出した。中には、乾燥したラベンダーの花弁が入っている。
「これは、神経を鎮め、心を落ち着かせる効果があります。この香りを嗅ぎながら、ゆっくりと心を休めてください。そして、里見先輩にも、この香りを嗅がせてあげてください。彼女の『閉ざされた箱庭』を、少しでも開く助けになるかもしれません」
梢は、ラベンダーの瓶を受け取り、深く吸い込んだ。その香りが、彼女の緊張した心を少しだけ和らげたようだった。
「ありがとうございます、蘭さん……」
冬子先生は、里見遥の行方と、その「閉ざされた箱庭」の中身を確認するため、足早に標本室を後にした。
蘭は一人、静かに窓の外の藤棚を見た。
藤は、古くから日本庭園を彩る美しい花だ。しかし、その根は深く、時には他の木々に絡みつき、枯らしてしまうこともある。
美しいものの中にも、毒は潜んでいる。
そして、人の心の奥底に隠された「毒」は、時として、最も無垢な形をとって現れる。
蘭の指先が、自身が抱える「過去」の標本へと向かう。
その標本は、この学園に潜む、最も根深い「毒」の象徴だった。
この閉ざされた箱庭の中で、蘭は今日も、真実という名の毒を解き明かし続ける。