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第3話:「福寿草(フクジュソウ)と偽りの春」

 《植物標本室》は、学園の喧騒が遠のく夕暮れ時、一層その静寂を深める。西日が差し込む窓辺には、埃をかぶったガラスケースが並び、その中に収められた無数の植物たちが、それぞれの生きた証を黙して語る。三条蘭は、標本台に広げられた乾燥標本を検分しながら、今日、佐伯冬子先生から聞いたばかりの、新たな「心の毒」について考えていた。


 秋月夜の「銀梅花と練り香」の一件は、学園内に微かな波紋を広げた。精神を操ろうとした教師については、決定的な証拠が見つからず、学園長も表向きは「憶測」として処理したが、冬子先生は密かにその教師の動向に目を光らせているという。蘭の植物知識が、人の心の闇を暴く力を持つことを、皆が薄々感じ始めていた。


 そんな折、学園の最高学年、高等科三年生の**花村咲はなむら・さき**が、登校中に倒れたという報せが届いたのだ。


 「花村さんは、学園でも特に目立つ生徒でしたわ」

 冬子先生は、そう言ってため息をついた。

 「成績も優秀、容姿も麗しく、常に皆の中心にいるような方。卒業を間近に控えていることもあり、皆から将来を嘱望されていました。まさか、そんな彼女が……」

 倒れた花村咲は、すぐに自宅に搬送されたが、意識は混濁し、原因不明の発熱と、体中に奇妙な発疹が出ているという。医者も首を傾げているとのことだった。


 「何か、変わったことはなかったのですか?」

 蘭は問うた。

 「それが……つい先ほど、彼女の部屋から、これが発見されまして」

 冬子先生は、小さなガラス瓶を差し出した。中には、土にまみれた、黄色い小さな花が数輪、無造作に入れられていた。


 蘭は瓶を受け取ると、その黄色い花に目を凝らした。

 「これは……福寿草フクジュソウですね」

 福寿草。春の訪れを告げる、雪の中から芽吹く縁起の良い花だ。しかし、この福寿草には、わずかに異質なものが混じっていることに蘭は気づいた。花弁の裏側に、うっすらと黒い斑点が見える。そして、鼻を近づけると、微かに腐敗した土の匂いと共に、ある種の酸っぱい匂いが混じり合っている。


 「ええ。ですが、この時期に福寿草が咲くことはありません。そして、花村さんのご家族の話では、彼女は数日前から、自室にこもりがちになり、食事もあまりとらなかったと。何かを隠しているようでもあったそうです」

 冬子の言葉に、蘭は福寿草をさらに詳しく調べた。

 「この福寿草は、栽培されたものではなく、野生のものですね。しかも、かなり無理やり引っこ抜かれたのでしょう。根に土が固くこびりついています」


 蘭は、花の根元に付着した土を指先で少し取り、匂いを嗅いだ。

 「この土には、通常の土壌には存在しない、極めて高濃度の特定の有機化合物が含まれています。これは……硝酸塩しょうさんえんですね」

 硝酸塩は、肥料として使われることもあるが、特定の工業廃水や、動物の排泄物が多く含まれる場所、あるいは分解が進んだ有機物の堆積物に高濃度で存在する。


 「そして、この黒い斑点……これは、**アルテルナリア菌(Alternaria alternata)**によるものです。このカビは、特定の植物に寄生し、アルテルナリオールという毒素を生成することが知られています。特に、ストレスを受けた植物や、不衛生な環境で育った植物に多く見られます」

 蘭は、顕微鏡で福寿草の断面を観察した。内部組織にも、菌糸が入り込んでいるのが確認できた。


 「福寿草自体にも、シマリンという毒性成分が含まれています。これは心臓に作用し、嘔吐、痙攣、不整脈を引き起こす可能性があります。しかし、今回の花村さんの症状は、このシマリンだけでは説明がつきません」

 蘭は、福寿草の葉を一枚、ピンセットで丁寧に剥がし、別のスライドガラスに乗せた。

 「発熱と発疹。そして、この福寿草の異常な状態……」


 彼女は、先ほど嗅いだ「酸っぱい匂い」を思い出した。それは、特定の化学反応によって生じる、独特の香りだ。

 蘭は、ふと思いついたように、冬子先生に尋ねた。

 「花村さんは、最近、何か新しい趣味を始めたり、あるいは、特定の場所に出入りしていましたか?」


 冬子は少し考え、ハッとした顔をした。

 「そういえば……花村さんは、卒業後に画家を志していると聞いておりました。そして最近、学園近くに新しくできた、絵の具の工房によく顔を出していたようです。そこで、新しい絵の具の調合に夢中になっていると……」

 絵の具の工房。調合。

 蘭の頭の中で、全てのピースが繋がった。


 「先生、分かりました」

 蘭は、顔を上げた。

 「花村さんの症状は、福寿草の毒性だけでなく、福寿草に付着していたアルテルナリア菌が生成した毒素と、彼女が扱っていた絵の具に含まれる特定の顔料との複合的な反応で起きているものと思われます」


 「絵の具の顔料、ですか?」

 冬子は首を傾げた。

 「ええ。特に、福寿草が育ったであろう、硝酸塩が豊富な不衛生な土壌で発生する特定の金属化合物が、鍵となります」

 蘭は、さらに説明を続けた。

 「この福寿草に付着していたアルテルナリア菌が生成するアルテルナリオールは、それ自体が有毒ですが、実はある種の**重金属(例:カドミウム、鉛など)**と結合することで、その毒性が増幅される可能性があります。また、その結合によって、体内でアレルギー反応に似た発疹を引き起こすことも知られています」

 彼女は、福寿草の根に付着した土の極微細な粒子を、もう一度顕微鏡で観察した。

 「この土には、そうした重金属が微量ながら含まれているようです。福寿草が育った環境が、非常に特殊だったのでしょう」


 そして、蘭は「酸っぱい匂い」の正体を確信した。

 「絵の具の工房で、彼女はもしかすると、黄色の顔料を扱っていたのではありませんか?」

 冬子が頷く。

 「はい、黄色い絵の具を自ら調合していると、楽しそうに話していました」

 「黄色い顔料の中には、カドミウムイエローや鉛黄など、重金属を主成分とするものが多くあります。そして、これらの重金属は、アルテルナリオールと結合することで、その毒性を飛躍的に高める。さらに、その重金属が、皮膚に接触したり、微量ながら吸入されたりすることで、今回の発疹や発熱を引き起こしたのでしょう」


 福寿草は、春の訪れを告げる、希望の象徴だ。だが、この花村咲のケースでは、それは「偽りの春」を装った毒だった。

 なぜ、花村咲は、危険な福寿草を自ら採取し、部屋に置いていたのか?

 蘭は、福寿草の根元を指差した。

 「花村さんは、この福寿草を、まるでお守りのように扱っていたのではありませんか?」

 「お守り?」

 冬子が驚いたように聞き返した。


 「福寿草は、雪解けと共に芽吹き、厳しい冬を乗り越えて春を告げます。花村さんは、もしかしたら、未来への不安を抱えていたのではないでしょうか。卒業、画家への道、そして人々の期待……それらが、彼女にとって重荷となり、まるで冬の嵐のように感じていたのかもしれません」

 蘭の言葉は、花村咲の華やかな外見からは想像もつかない、内面の苦悩を暗示していた。


 「彼女は、その重圧から逃れるために、福寿草に『偽りの希望』を求めた。それが、土の中に潜む毒と、彼女が熱中していた絵の具の顔料と結びつき、結果として彼女の身体に毒として現れたのでしょう」

 「それでは、彼女は、自ら毒を……」

 宮村雪の時と同じ構図が、再び繰り返されたことに、冬子は愕然とした。


 蘭は、福寿草の黒い斑点に、そっと指を触れた。

 「福寿草に『福』や『寿』の字を充てるのは、冬を耐え抜いた生命力への尊敬と、来るべき春への願いからです。しかし、不衛生な環境で育った福寿草は、文字通り『毒』となり得る。まるで、人の心の脆さのようです」


 蘭は、静かに結論を述べた。

 「花村さんには、まず、その絵の具の使用を中止させ、福寿草の接触も避けるべきです。そして、体内に残る重金属と毒素を排出するため、病院での適切な処置が必要です。精神的な面では、彼女が抱える未来への不安、人々の期待への重圧を、誰かが聞いてあげる必要があるでしょう」

 「私が、お話してみます」

 冬子先生は、決意を込めた眼差しで頷いた。


 蘭は、福寿草の標本を慎重にガラスケースに収めた。

 この学園には、表からは見えない、多くの「心の毒」が潜んでいる。

 それは、少女たちの純粋な心が、社会の期待や自身の重圧によって、歪められていく過程で生み出されるものなのかもしれない。

 そして、その毒は、時に植物という「無垢な媒介」を通して、具現化される。


 蘭は知っていた。

 自分がこの標本室にいる理由もまた、過去に生じた「毒」と、決して“外に出してはならない”秘密の標本に繋がっていることを。

 春を告げるはずの福寿草が、毒となり、希望を絶望に変える。

 この学園の「偽りの春」は、まだ始まったばかりなのかもしれない。

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