第10話:「鬼百合(オニユリ)と消えた姉妹」
《植物標本室》の窓からは、真夏の容赦ない日差しが降り注ぎ、室内の空気は澱みなく、しかし重い。三条蘭は、ガラスケースに並ぶ植物の標本を眺めながら、これまで解き明かしてきた「心の毒」の多様性に思いを馳せていた。少女たちの内なる苦悩や、外界からの悪意が、いかにして植物という無垢な媒介を通して具現化されてきたか。しかし、今回持ち込まれた事件は、これまでのどれとも異なる、**より根深く、そして不可解な「喪失」**に関わるものだった。
夕暮れ時、佐伯冬子先生が、これまでにないほど蒼白な顔で、標本室に駆け込んできた。その手には、一枚の粗雑なスケッチが握られている。それは、学園で最も信頼され、生徒たちの模範とされていた高等科三年生、高橋姉妹に関わるものだという。
「蘭さん、大変なのです……高橋梓さんと、妹の楓さんが、二人とも行方不明になってしまいました」
冬子先生の声は、恐怖と混乱で震えていた。
「梓さんは、優等生で生徒会長。楓さんも、病弱ながら姉を慕い、いつも寄り添っていたはずなのに。最後に二人を見たという生徒が、このスケッチを拾ったというのです。そこに、この奇妙な花が描かれていて……」
行方不明。そして、奇妙な花。蘭は、スケッチを受け取った。そこには、二人の少女の姿が、簡素な線で描かれている。そして、その少女たちの足元には、燃えるような橙色の花が、特徴的な斑点模様を浮かべて描かれていた。それは、蘭の記憶に強く残る、ある毒草に酷似していた。
「この花は……鬼百合ですね」
蘭は、静かにその名を口にした。鬼百合は、その名の通り、荒々しい美しさを持つ百合の一種だ。しかし、その球根には、ごく微量ながらアルカロイドが含まれており、特に食用にする際には、注意が必要な植物だった。だが、この絵に描かれた鬼百合は、なぜか中央に不自然なほど大きな黒い斑点があり、花びらの先が、まるで焼けたかのように、わずかに黒ずんでいる。
「鬼百合……ですか。学園には、鬼百合は植えられていません。それに、なぜ、あの二人が……」
冬子先生は、混乱した様子で言った。
「最後に二人を見た生徒によると、梓さんと楓さんは、手を取り合って学園の裏門から出ていくのを目撃されたそうです。その時、楓さんが、何かを必死に隠そうとしていた、と……」
裏門。そして、隠された何か。
蘭は、スケッチの鬼百合に描かれた不自然な黒い斑点と、焼けたような花びらの先端に目を凝らした。それは、特定の化学反応によって生じる、ある種の変異を思わせた。
「この鬼百合は、通常の鬼百合とは異なる、変異種か、あるいは特殊な環境で育ったものでしょう。この黒い斑点と、花びらの焦げ付いたような痕跡……」
蘭は、標本室の隅にある、簡易的な化学分析器にスケッチのインクの微細な粒子を付着させ、分析した。絵の具には、微量ながら鬼百合の繊維と、そして、通常の絵の具には使用されない、特定の硫化水素化合物が検出された。
「この鬼百合は、硫黄分を多く含む土壌で育ったようです。硫黄分が多すぎると、植物は栄養をうまく吸収できず、このような変異を示すことがあります。そして、この黒い斑点は、硫化水素と、鬼百合に含まれる特定の有機酸が反応し、生じた色素でしょう」
それは、まるで植物が、自らの生育環境の異常を訴えているかのようだった。
「そして、このスケッチから検出された硫化水素化合物……これは、**硫化水素を発生させる『ある種の薬品』**が、絵を描く際に周囲に存在したか、あるいは、描かれた鬼百合自体にその物質が付着していたことを示唆しています」
硫化水素は、腐卵臭を持つ有毒ガスだ。それが、二人の行方不明とどう繋がるのか。
蘭は、高橋姉妹の周囲の状況を思い出した。
梓は、生徒会長として常に完璧で、誰にも弱みを見せない少女だった。しかし、妹の楓は、幼い頃から病弱で、常に梓の保護を必要としていた。梓は、妹のために、自分の全てを犠牲にしてきた、と噂されていた。その愛情は、時に「重い」とさえ言われるほどだった。
「高橋梓さんは、妹の楓さんに対して、非常に強い**『保護欲』**を抱いていましたね?」
蘭の問いに、冬子先生は頷いた。
「ええ。楓さんの体調が悪いと、常に気にかけ、自分の勉強や生徒会活動を後回しにしてでも、楓さんの看病をしていました。しかし、最近、楓さんが、少しずつ体力をつけ、姉から自立しようとしているように見えた、という話も……」
自立。それは、梓にとって、最も恐ろしいことだったのかもしれない。
蘭は、スケッチに描かれた二人の少女の姿を見た。梓は、楓を抱きしめるように描かれているが、楓の顔は、どこか遠くを見つめ、姉の腕から抜け出そうとしているようにも見えた。
「鬼百合は、『偽りの愛』『華麗』といった花言葉を持ちます。そして、その花は、時に**『死』を暗示することもあります」
蘭は、静かに続けた。
「梓さんは、妹の楓さんの自立を許容できず、彼女を『永遠に自分の側に留めておきたい』**と願ったのではないでしょうか。そして、その『永遠の愛』の象徴として、鬼百合を選んだ」
それは、歪んだ愛情の末路。
「そして、この硫化水素化合物。それは、彼女が、**『永遠に二人きりでいられる場所』**を求めて、何らかの準備をしていたことを示唆しています。硫化水素は、密閉された空間で発生させれば、致死量に達します。この焦げ付いたような鬼百合は、その計画の過程で、何らかの薬品に触れ、変異してしまったのかもしれません」
冬子先生は、息を呑んだ。
「まさか……自殺を、あるいは無理心中を……?」
「そう考えざるを得ません。しかし、もしそうであれば、彼女たちは、どこへ行ったのか。そして、なぜ、このスケッチを残したのか」
蘭は、スケッチの裏側に目をやった。そこには、小さく、しかしはっきりと、「永遠の庭へ」という言葉が書き残されていた。
永遠の庭。それは、彼らがこの世から離れ、二人きりで過ごせる場所を意味するのだろうか。
しかし、蘭の頭には、もう一つの可能性が浮かんでいた。
硫黄分を多く含む土壌。そして、鬼百合の変異。
それは、以前、遠野光の件で触れた「忘却の庭」――学園の敷地外に広がる、古い研究施設の跡地を連想させた。そこは、硫黄泉や、地下に潜む鉱物資源が豊富で、過去に何らかの化学実験が行われた痕跡があり、立ち入り禁止となっている場所だった。
「冬子先生。高橋姉妹は、おそらく学園の裏門から、あの**『忘却の庭』に向かったと思われます。彼岸桜の件で調査した、あの硫黄分を多く含む土壌の、立ち入り禁止区域**です」
蘭は、決然とした表情で言った。
「あの場所には、硫化水素を発生させる原因となる物質が埋まっている可能性があります。そして、鬼百合が、その環境で変異していたのかもしれません」
冬子先生は、すぐさま警察に通報し、学園の関係者にも捜索の協力を求めた。
蘭は一人、標本室で、鬼百合のスケッチを静かに見つめた。
鬼百合は、その毒性ゆえに、庭園にはあまり植えられない花だ。
しかし、その強く燃えるような橙色は、どんな困難も乗り越えようとする、姉妹の絆のようにも見える。だが、その絆は、あまりにも深く、そして歪んでしまった。
蘭は知っていた。
この学園には、まだ多くの「忘れ去られた場所」があり、そこに「忘れ去られた毒」が潜んでいることを。
そして、その毒の根源は、蘭自身の「決して明かしてはならない過去」と、標本室の奥に眠る“外に出してはならない”秘密の標本に深く繋がっていることを。
消えた姉妹が向かった「永遠の庭」。
それは、本当に安息の場所なのか、それとも、さらなる毒が待ち受ける場所なのか。
蘭の心に、不安の影が差していた。
これにてお試し版は完結になります。
好評でしたら、続きの内容のプロットを考えたいと思います。