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第1話:「金盞花(きんせんか)と死神の指先」

 明治と昭和の狭間、文明開化の華やかな喧騒がまだ遠い、古き良き日本の面影を残す街。その一角に、ひときわ格式高い白壁の洋館がそびえ立つ。名門私立女学校、《白百合学園》だ。春風が萌え出る若葉を揺らす頃、きらきらと光を放つような純粋な少女たちの笑い声が、洋館の窓から、庭園の木々の間から、清らかな調べのように響き渡る。


 そんな学園の裏手、本館から一本離れた場所に、ひっそりと佇む古い木造の建物があった。蔦が絡まる煉瓦の壁、軋む木の扉。そこが、この学園で最も忘れ去られた場所、《植物標本室》である。陽光さえも遠慮がちに差し込む薄暗い室内は、土と埃と、そして無数の植物が放つ複雑な香りで満たされていた。カビ臭さとは違う、どこか厳かで、知的な、しかし同時に生命の息吹を感じさせる匂い。


 その室内の奥、古びた顕微鏡の前に、一人の女性が座っていた。

 三条蘭さんじょう・らん。二十代半ばだろうか。

 くすんだ色の着物に、いつも結い上げられた地味な髪。大きな眼鏡の奥の瞳は、まるで標本を覗き込むかのように静かで、感情の起伏が薄い。彼女は学園の植物標本室で助手として働く。その容姿も存在感も、学園に咲き誇る花々のような少女たちの中では、まるで枯れ葉のように目立たない。


 だが、彼女の指先は違った。

 細く、しなやかで、しかし驚くほど確かなその指先は、どんな植物の微細な違いも、まるで呼吸をするかのように感じ取る。一枚の葉、一本の茎、花びらの縁のわずかな波打ち。それは、長年の経験と、生まれ持った異能の賜物だった。どんな毒草も、どんな薬草も、彼女の掌に乗せられれば、その本質を瞬時に見抜かれる。


 この日も、蘭はいつものように、新しく届いた植物の仕分け作業をしていた。薄暗い電灯の下、ピンセットが白い紙の上に小さな花を慎重に置く。


「あら、蘭さん。まだお仕事中?」


 控えめな声が、背後からかけられた。振り返ると、そこには佐伯冬子さえき・ふゆこが立っていた。彼女は蘭より少し年下で、学園の教師を務めている。整った顔立ちに、知的な雰囲気をまとい、生徒たちからの信頼も厚い。しかし、どこか儚げな印象を持つ女性だった。


「佐伯先生。もうお帰りかと」

「ええ、少し急ぎの書類がありまして。それにしても、蘭さんの標本室はいつも静かですね。まるで時間が止まっているみたい」


 冬子は、室内に漂う独特の香りを吸い込み、ふと目を閉じた。

「私は、この匂いが好きですよ。なんだか、心が落ち着く。学園の喧騒から離れて、ここだけ別の世界のよう」


 蘭は黙って、手元の作業を続けた。別の世界。確かにそうかもしれない。この標本室は、学園の表舞台とは隔絶された、彼女だけの領域だった。

 そんな沈黙を破るように、冬子がふいに、ため息交じりに口を開いた。


「実は、少し困ったことがありまして……」


 いつもの穏やかな表情に、わずかな翳りが差している。

「何か、生徒さんたちの間で?」

「ええ。宮村雪みやむら・ゆきさんという生徒が、少し前から体調を崩していますの。最初は風邪かと思っていたのですが、どうも様子がおかしくて……」


 宮村雪。

 蘭の脳裏に、彼女の姿が浮かんだ。白百合学園でも一際目を引く、金盞花きんせんかのような明るい少女。太陽のように朗らかで、友達も多く、いつも笑顔を振りまいていたはずだ。


「……具体的には、どのような?」

「それが、ひどい吐き気と、体の倦怠感。それに、妙に肌の色が悪いのです。医者にも診てもらいましたが、明確な病名はつかないと。ただの心労かと……。でも、彼女はいつも元気でしたから」

 冬子の声には、心配の色が濃く滲んでいた。


「そして、今日、彼女が学校を休む直前、奇妙なことがあったと、親友の生徒が教えてくれたのです」

 冬子は、テーブルの上の、使い古された木製の箱に目をやった。それは蘭が日々使っている、植物の鑑定道具が収められたものだった。


「雪さんが、庭園の隅にある日当たりの悪い場所で、一人で何かをずっと眺めていたと。それも、金盞花の花びらを一枚、指先で潰していた、と……」

 金盞花。

 その言葉に、蘭の指先が、ぴくりと反応した。

 金盞花は、その鮮やかなオレンジ色から「マリーゴールド」とも呼ばれ、古くから薬草としても用いられてきた。消炎作用や鎮静作用があり、化粧品にも使われる。毒性はない。

 しかし、蘭の脳裏には、金盞花とは異なる、不穏な植物の影がよぎった。


「日当たりの悪い場所で、ですか」

「ええ。雪さんの親友は、少し心配になって声をかけたそうですが、雪さんはすぐに花びらを隠し、何もなかったかのように振る舞ったそうです。それが、彼女が学校を休む前日のことでした」


 金盞花の花びら。日当たりの悪い場所。そして、原因不明の体調不良。

 点と点が、蘭の頭の中でゆっくりと繋がり始めた。

「佐伯先生。一つお尋ねしたいのですが。その宮村雪さんは、最近、何かストレスを抱えていた様子はありましたか?」

 蘭の問いに、冬子は眉をひそめた。

「いいえ、むしろ逆です。彼女は学園でも屈指の成績優秀者で、近々、遠縁の資産家の方に養女として迎えられることが決まっていました。皆、羨望の眼差しを向けていたほどです。まさか、そんな彼女が体調を崩すとは……」

「そうですか……」


 蘭は、黙って立ち上がった。そして、部屋の隅にある、鍵のかかった大きな木製の棚に視線を向けた。棚の中には、この標本室にしかない、決して「外に出してはならない」とされている特別な標本が収められている。それらは、ある種の「毒」であり、また、ある種の「真実」でもあった。


 「先生、私に宮村雪さんの様子を見に行かせていただけますか」

 蘭の言葉に、冬子は驚いた顔をした。

「ええ、もちろん構いませんが……蘭さんが、そこまで」

「ええ。植物が語る『嘘』もございますから」


 翌日、蘭は佐伯冬子と共に、宮村雪が療養している別宅を訪ねた。

 部屋に通された蘭は、まず彼女の顔色を観察した。冬子の言う通り、血の気がなく、どこか土気色に近い。視線は定まらず、かすかに震えているように見える。

 そして、蘭は雪の掌に目をやった。微かに、爪の隙間に、黒い汚れが残っている。


「宮村さん、少し、お邪魔しても?」

 蘭は静かに声をかけ、許可を得て部屋の窓を開けた。春風が、ひんやりと部屋の中に入り込む。その風に乗って、微かに土と、そして何か植物の匂いがした。


「宮村さん、最近、何か変わったことはありませんでしたか? 例えば、何かを口にしたとか、どこかへ行ったとか……」

 雪は、虚ろな目で蘭を見つめた。

「何も……何も変わったことなんて、ありませんわ」


 その言葉は、まるで棒読みのように感情がこもっていなかった。

 蘭は、彼女の言葉の裏に隠された「何か」を感じ取っていた。

 そして、部屋の中をゆっくりと見回した。

 花瓶に飾られた金盞花。枕元に置かれた書物。そして、窓辺に置かれた小さな鉢植え。

 蘭は鉢植えに近づいた。そこには、背の低い、しかし生命力に満ちた緑の葉が茂っていた。


「……これは、何の鉢植えですか?」

 蘭の問いに、雪は小さく身を震わせた。

「それは……ただの、雑草ですわ。庭に生えていたのを、私が、なんとなく……」


 蘭は、鉢植えから葉を一枚摘み取った。それを掌でゆっくりと揉みしだく。

 独特の、わずかに苦味を帯びた、それでいてどこか甘く、湿ったような香りが立ち上った。

 それは、金盞花の香りではない。

 それは、もっと深い場所から立ち上る、まるで地底の底から湧き出るような、不穏な香りだった。


「雑草、ですか。これは、『死神の指先』とも呼ばれる植物です」

 蘭の声は静かだったが、その言葉には、雪の体を凍りつかせるような響きがあった。

 雪の顔色が、さらに青ざめる。

「何のことですの……?」


「この植物は、見た目は地味ですが、非常に強い毒性を持っています。特に、花や根に含まれるグリコシド系の化合物は、ごく微量でも嘔吐、下痢、倦怠感、そして心臓への負担を引き起こします。現代の科学では、その微細な成分解析は非常に難しいですが、その苦味と、微かな甘い香り、そして独特の細胞構造が、私にはわかります」


 蘭は、葉をさらに掌で転がした。

「そして、この植物は、日当たりの悪い、湿った場所を好みます。貴女が金盞花の花びらを潰していたという、庭の隅……そこに、これが群生していたのでしょうね」


 雪の目が大きく見開かれた。

 蘭の言葉は、まるで、彼女の秘密をすべて見透かすかのように響いた。

「まさか……」


「そして、その花びら。金盞花の花びらに、この植物の毒性の汁が付着していたのではないでしょうか。金盞花は無毒ですが、その花びらに毒が染み込めば、それは毒となります」

 蘭は、雪の爪の間の黒い汚れを指差した。

「その汚れは、この植物の、特に根の付近の土壌にしか含まれない特殊な微生物の代謝物です。一般的な土壌には見られません。貴女が、この植物を引っこ抜いた時に、付着したのでしょう」


 雪の全身が、わなわなと震え始めた。

「私は……私は……」


 冬子が、戸惑ったように蘭と雪を交互に見た。

「蘭さん、一体、何が……」

 蘭は、冬子に向き直った。

「佐伯先生、宮村さんは、この植物を、意図的に摂取していた可能性があります。おそらく、ごく微量ずつ、時間をかけて」


 冬子の顔から、血の気が引いた。

「自ら……毒を……?」


 雪は、顔を両手で覆い、嗚咽を漏らし始めた。

「私……私は……養女になりたくなかったの……!」


 涙が、彼女の指の間から溢れ出す。

「成績優秀者? 羨望? そんなもの、私には重荷だった! 私は、ただ、平凡に、静かに暮らしたかっただけなのに……! あの方の養女になれば、私は自由を奪われる。私の人生は、あの方のものになってしまう……」


 蘭は、静かに雪の言葉に耳を傾けた。

「だから、病気になれば、それが、なくなると思ったのですね」

「はい……病気になれば、期待されなくなる。養女の話も、取り消されるかもしれない……そう、思ったの」


 金盞花の花びらを潰していた、という行為。

 それは、彼女が「無害なもの」を媒体にして、「毒」を摂取していたことを示唆していた。

 まさか、自分を毒してまで、自由を渇望していたとは。

 「死神の指先」という、あまりに物騒な名前の植物を選んでしまうほどに、追い詰められていたのだ。


「宮村さん、この植物は、微量でも長期的に摂取すれば、心臓に深刻な後遺症を残す可能性があります。最悪の場合、取り返しのつかないことに……」

 冬子が、震える声で告げた。

「それでも、私は……」

 雪は、虚ろな目で宙を見つめていた。


 蘭は、再び鉢植えの葉を掌で転がした。

「この指先にはね、人の嘘が染みついてるの。薬にも毒にもなる、曖昧なままの真実」

 彼女の静かな声が、部屋の中に響いた。

 窓の外には、かすかに雨の匂いがした。


「宮村さん。確かに、この植物は貴女にとって『毒』だったのかもしれません。ですが、植物には、その毒を癒す力も秘められています。貴女が今、この毒から抜け出したいと願うのであれば、きっと、道はあるはずです」


 蘭は、部屋の片隅にあった水差しを取り、鉢植えの土に水をやった。

「この植物を、捨てる必要はありません。ただ、もう貴女の口に入れるのはやめましょう。そして、この葉は、もう貴女の心にある毒を映す鏡ではない。ただの植物です」


 蘭は、持参していた小さな薬包を取り出した。中には、細かく砕かれた乾燥ハーブが入っている。

「これは、レモンバームです。精神を安定させ、不安を和らげる効果があります。熱いお湯で淹れて、ゆっくり飲んでみてください。そして、心と体を休ませてあげてください」


 雪は、蘭の手から震える手で薬包を受け取った。その目には、これまでになかった微かな光が宿っていた。

「本当に、治るのでしょうか……」

「貴女が望む限り」


 蘭は、静かに頷いた。

 それは、単なる身体的な治療ではなかった。蘭は、雪の「心の毒」――つまり、自由への渇望と、それによって自分を傷つけるに至った精神状態――を、植物の知識と、そして自身の持つ「真実を見抜く眼」によって解き明かしたのだ。


 標本室に帰る道すがら、冬子が不安そうに尋ねた。

「蘭さん、本当に、雪さんは大丈夫でしょうか? あんなに追い詰められていたなんて……」

「ええ。彼女は、ご自身でその毒を選んでしまいました。しかし、その毒を『やめたい』と願い始めた。それが、回復への第一歩です」


 蘭は、空を見上げた。薄い雲の向こうから、ようやく陽光が差し込み始めていた。

「毒も薬も、紙一重です。そして、最も恐ろしい毒は、往々にして人の心の中に宿るものです。私が解き明かすのは、植物の毒だけではありませんから」


 彼女の言葉は、まるで、自身が抱える深い秘密を語っているかのようだった。

 蘭の植物標本室には、決して“外に出してはならない”標本がある。

 それは、この学園に、そしてこの街に、静かに潜む「真の毒」を象徴するかのようだった。


 「死神の指先」は、雪の「自由への渇望」という心の毒が具現化したものだった。

 だが、この物語は、まだ始まったばかり。

 この静謐な植物標本室で、蘭がこれから解き明かすであろう、少女たちのささやかな怪我、不可解な病、そして「心の毒」の物語は、まだ始まったばかりだった。

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