第1章 焦香色の男 4
西湖の北岸にあるホテルの様に瀟洒な病院で、怪奇現象が起きた。入院患者大山の枕元にあるテレビモニターに悍ましいホラー映像が流れた。大山はそれでパニックを起こし、病院内は大騒ぎとなる。
翌日、そんなことも知らず、病院の最新設備の取材のため、新聞記者孤堂駿介は病院を訪れる。風光明媚で豪華な病院を取材する孤堂。
「美也子」
女性の声に美也子が振り向くとそこに看護師の佐々木圭子と見るからに部外者と思われる中年男性が立っていた。
「間に合ってよかったわ」
圭子は安堵して後ろの男性の方を振り向く。
「どなたなの」
美也子は当惑して小声で尋ねた。
「こちら、河口湖観光局の渡辺さん。新聞社の人が来るって言ったら、ぜひ会いたいって言うから連れてきちゃった」
圭子の後ろに立っていた男はぺこりと頭を下げた。実直そうな土地の人という感じで、年は五十に達しているだろう。いわゆる田舎のおじさんといった印象だ。
「渡辺です。渡辺真一といいます。ぜひ私どものイベントも取材していただきたいと思いまして佐々木さんにお願いしました」
「そうですか、ご丁寧に。私は狐堂駿介といいます。東洋新聞社警視庁記者クラブ詰めの記者です」
結局、狐堂は圭子と渡辺に押し切られ、今夜行われる湖上祭を取材することを引き受けることになった。キャップの大森に断りを入れたのは、場違いなダイニングで普通ならまずありつけないような豪勢な昼飯を取った後だった。
「で、今夜はそっちに泊まるわけだな」
大森の口調は重い。
「ああ、そうなった。でもちゃんと病院の取材は終わったし、原稿はすぐにメールで送るから」
「判った。しかしお前、やたらと泊まりの出張してないか。上から経費削減も言われているし、大体、記者クラブの人間の仕事じゃない。地元の観光イベントなら、支局で充分、取材は事足りるだろう」
大森は納得せず文句を言う。もっとも病院の取材も本来は記者クラブとは関係がない。たまたま本社の文化部が受けた仕事だったが、ひょんなことから大森の所に回ってきただけだ。
「その支局が動いていないからおれが呼ばれた」
「判った。その代わり、絶対に問題を起こすな。喧嘩や大酒で暴れるなんて騒ぎは金輪際面倒をみないからな。おれはお前の尻拭いをするために存在しているんじゃないことを覚えとけ」
「まだ根に持っているのか」
「当たり前だ」
派手な音を立てて電話が切れたので、孤堂は大森の許可を取ったものと解釈した。狐堂の暴力騒ぎはいつものことなので、大森がどの騒動のことをさしているのかは定かではないが、後始末をしてくれていることには感謝している。狐堂と大森は小学生時代からの腐れ縁だ。優等生の大森は有名大学に進学して、そのまま就職し、順当に昇進している。かたや狐堂のほうは高校時代にぐれて暴走族に入り、紆余曲折を経て東洋新聞社に中途採用された。ブランクはあったが、彼らの腐れ縁は切れていない。傍から見れば喧嘩ばかりだが、存外仲はいい。
許可を得たということで、狐堂は渡辺に案内されて、河口湖の近くのワンルームマンションを紹介された。とりあえず荷物を置き、バイクでそのあたりの観光地を巡ることにした。本当は温泉旅館かペンションに泊まりたかったが、夏休みの上、湖上祭で込み合っているというので空室がなく、町役場が外来の視察の人間を泊めるために借り上げているマンションを、融通してもらった。
「渡辺さんもあの病院にかかったことがあるんですか」
「いや滅相もない」
大仰に手を振ってこたえる。
「働き盛りは病気になる暇もないってところですか」
「そんなことはありませんよ。私だってこれでも人間ですからね、普通に寝込みますよ。でもあそこは紹介状がなくては診てもらえないし、第一すべてが差額ベッド、一泊でも入院しようものなら、目の飛び出るような医療費がかかってしまう。あそこの患者はすべて東京のセレブで、庶民には縁のない場所です。あそこの人間ドックの値段、フルコースでいくらだと思います。二泊三日なんですけど」
渡辺はにんまりと笑ってなぞをかけてきた。
「普通なら十万か十五万ってところですかね」
答えはしたが、人間ドックに縁のない孤堂には見当もつかない。だいたい、新聞社が年に一度、社員に義務付けている健康診断ですら、忙しさを理由にさぼっている。
「百万ですって」
孤堂はほうッと思わずため息を洩らした。さすがにこんな田舎にまでやってきて、検査に百万をつぎ込めるのは普通の経済状態ではありえない。セレブという人種御用達なわけだ。
「地元には関係のない病院ってわけですか」
豪奢な内装、高級レストラン並みの食堂、すべて病院というには贅沢すぎる。
「地元の人間でも別荘地の方たちは行っているみたいですけどね。都会の方がリタイア後に定住しているんですよ。そっちには評判がいいらしい」
渡辺が説明する。厳密に言えば、別荘地の人間は地元の人間とはみなされないだろう。別荘を持ち、リタイア後、第二の人生を悠々自適に過ごせる階層はそれほど多くはない。
別世界のことをいつまでも羨ましがってもいられないので、花火大会に合わせて集合場所と時間を聴き、一旦解散することにした。四時くらいにならないと、河口湖の屋台は営業を始めないし、人も集まらないと言うことで時間はそれ以後となった。それまでかなり時間があったので、狐堂はバイクで観光をすることにした。観光記事はこの時期、欠かせない。鳴沢氷穴、富岳氷穴、青木が原樹海、本栖湖に足を伸ばし観光客になりきった。
標高千メートル、八月の暑さもここまで登ってこないのか、止まっていればともかく走っているとヘルメットの中を通る風が心地いい。道の左右に茂る木々の枝が、まるで緑の回廊のように続いている。西湖から国道に出る何の変哲もない道ですら、一見の価値がある。
氷穴も覗いてみる。鳴沢氷穴は道の端に看板があるだけで、うっかり見落としてしまいそうだ。その点、富岳氷穴は駐車場が国道に面し、土産物屋があるのでわかりやすい。もっともこちらの駐車場に車を置いて鳴沢氷穴まで歩いて行く観光客も多い。
氷穴は涼しいなどというレベルを超え、寒いくらいだ。夏でも氷が融けないということで、冷蔵庫のない時代、わざわざここから東京に氷を運んだという逸話が残っている。
青木が原樹海は自殺の名所となっているが、大地にとぐろを巻くような根の張り出しには一見の価値がある。緑の滴る生命力の溢れたそこに、死の暗さはない。少なくとも孤堂は、こんなところで自殺をする気にはなれない。ここは命が満ち溢れ、木漏れ日の中で葉の緑が美しく煌めき、羽虫が短い夏を惜しんで飛び交っている。もっとも遊歩道以外は立ち入り禁止になっているのは、中に入って迷子になって出て来られなくなると危険だからだろう。磁石が狂うという話だが、狐堂はそんなものを常備しているわけではないので確かめようがない。樹海の中がどうなっているのか興味があったが、ここで道に迷ってしまっては湖上祭の取材が出来ないので諦めた。
四時に河口湖から少し離れた駐車場で渡辺と待ち合わせをしているので、適当に切り上げて狐堂は国道に出て河口湖方面に向かう。河口湖の周りは車両が通行止めになっているためだ。ちょっと時間に余裕があったので、ハーブ館を覗いてみるが、都心の繁華街並みに人が溢れて、まともに商品を見定めることが出来ない。客の大半が女性客かカップルなので居心地が悪い。少しは観光地の取材をしておこうと思ったが、ここは自分では無理だと悟り、後で観光課の渡辺に聞いてまとめることにして切り上げた。
駐車場に戻ってみると、テレビカメラの機材を抱えた数人の男たちが渡辺とともにいた。話を聞けば地元の有線テレビのスタッフだそうだ。それぞれ挨拶をして名刺を差し出したので狐堂も習って自分の名刺を出す。
「地元のイベントは必ず放映するようにしているんですよ」
中年のリーダー格がにこやかに話す。
「兵頭病院の取材にいらっしゃったのですって。あそこはすごいですからね。もうあそこだけ東京の飛び地ですよ」
「で、あそこ、出るって噂ですよ」
若い者が口を挟む。
「何がですか」
孤堂は振り向いた。若い男は機材を暇そうに弄んでいる。
「そりゃ、病院といえばつき物でしょう。幽霊ですよ。樹海も近いし、病院だし、ばっちり出るって噂でね。それもさすがにあの最新設備に相応しく、パソコンモニターに映る死の影なんですって」
「私も聞いたことがありますよ。何でも自分の手術とかの映像が流れて、しかもそれがおぞましいおまけ付き、体の中に腐った臓物やら、猫の死体、誰かの死体の一部とかが縫いこまれてしまうんですって」
渡辺も加わって怪談話になった。八月ともなればどこでも怪談話は花盛りだが、ここも例外ではない。青木が原樹海という日本にその名を轟かせている自殺の名所のお膝元でもあり、話題には事欠かないらしい。
「まぁ、どこにでもそんな話はありますしね」
狐堂は受け流した。
「そんな眉唾物ではありませんよ。ここ数か月、この手の話がうちのテレビ局にも送られてくるんですよ。結構その話は生々しくて、しかも実名入り、証拠写真らしきものまである。でね、調べてみると本当にそれを見たって人がいる。それも一人や二人じゃない」
テレビクルーは身を乗り出して話し出す。こと細かく微に入り細に入り、饒舌に話してくれるが、狐堂は現実主義者だ。およそ怪奇現象にはかかわりのない人種で、幽霊など頭から信じていない。
「とりあえず、おれは湖上際の取材をしなくてはいけないので」
そう孤堂が切り上げると、テレビクルーもあわててそれぞれの機材を担ぎ出した。
「そうですよね。私たちも急がなくては」
「狐堂さん、申し訳ないのですが、私はこちらの方々を案内しなくてはいけなくなりまして……」
渡辺もテレビクルーと一緒に腰を上げる。別にここは誰かに案内が必要なほど込み入った場所でもない。ガイドマップはあるし、所詮花火大会だ。そう思って狐堂はお気楽に了承した。
一人で屋台を巡っているとつい、子供のころを思い出す。まだ両親と生まれ故郷の小さな村にいたときは神社の裏に住んでいた。父親が神主だったので年に一度のお祭りは彼にとってもあわただしくも楽しい思い出だ。
屋台の親父たちからは『ぼん』と呼ばれ、綿菓子やらりんご飴などを貰った。小さな村だから、村人の多くは顔見知りで、神主の子供ということで大切にされた。古い神社は村人の心の拠り所で、父は尊敬され、孤堂は可愛がられた。今となっては夢のような時代だった。
しかし、その村はダムの底に沈み、仕事を失った父は母の実家を頼って東京に出た。東京での暮らしは気位の高い父にとって過酷なものだったのだろう。仕事も見つからず、誰の尊敬も得られず、知人友人もなく、孤立していく。しまいには立ち退き費用を食い潰した挙句、女とともに家を出て行った。祭りはつい、そんな苦い思いを心の底から浮き立たせてしまう。ちょっと感傷的になったと思いながら、狐堂は屋台を覗きながら散策した。
田舎の町の祭りと高をくくっていたら見当違いだ。規模はかなり大きなものだ。行けども行けども屋台の列は途切れないし、花火を見る客たちが場所取りをしている。地元の人間ばかりではないだろう。都会からの観光客もきっと多いに違いない。浴衣を着た若い女性たちが、人の間を金魚のように泳いでいく。小腹の減った狐堂は懐かしさもあって屋台を覗き焼きそばを買い、縁台で食う。道連れがいるとそれはそれで楽しいのかもしれないが、取材のついでに来たわけだし、だいたい取材も誰かと組んですることは少ない。
夕方になったというのに、人ごみでかえって暑くなる。ライダースーツの上を脱ぎ、腰に括りつけて上半身はTシャツのみになる。そのほうが涼しい。手元にカメラだけを持ち、お気楽にふらついていく。
気の緩みは犯罪に付け込まれる。
河口湖の花火大会の取材を頼まれた孤堂駿介、さて気の緩みで犯罪につけ込まれるとは?事件は孤堂を逃さない。これからどんな事件に巻き込まれるのだろう。