第1章 焦香色の男 3
西湖の北岸にある瀟洒な病院で、モニターに悍ましい画像が流れた。入院患者の大山がそれで錯乱し、当直の医師や看護師が総出で大騒ぎになった。その翌日、新聞記者、孤堂駿介はその病院の最新設備などを取材するために訪れた。
西湖は富士五湖の中でもひっそりとした落ち着いた雰囲気の湖だ。夏休みに入って観光客の姿は多いが、それでもごった返しているとまではいかない。狐堂はホテルと見まごうばかりの瀟洒な四階建ての建物の中に着替えを持って入った。さすがにライダースーツで取材できるわけがない。入り口近くのトイレに入り個室で着替えを済ます。ライダースーツを脱いで、アルマーニのスーツを着る。ダークブラウンのスーツは狐堂の陰りのある顔とあいまって、一筋縄でいかない剛毅な性格を浮かび上がらせる。いつもはゆるく結ぶネクタイもこんな場面なのでしっかりと結ぶ。それはエルメスだが、彼が締めるとブランド狂いの軽薄さに見えないのは、彼の眼光の鋭さのせいかもしれない。洗面台で簡単に髪の毛をとかし、相手に最低限悪い印象を与えないような気配りだけはした。隣でひげを当たっている男が声を掛けた。
「あの、ここは職員用で、外来の方のトイレは入り口、右にありますよ」
男にしては柔らかい口調だ。年恰好は三十半ばから四十手前くらいか、中肉中背のめがねをかけた理知的な男だが、冷たい印象はない。口調同様に柔和な感じの優男で、白衣を着ていることから、ここの医者だろう。
「悪い。間違えたかな」
「申し訳ありません。患者さんや外来の方にわかりやすいように大きく表示しておくべきでしたね。ここは職員用のトイレで、清潔にはしていますが、患者さん用よりかなり設備が悪いんですよ」
腰の低い医師だと狐堂は思った。ひとまずライダースーツとヘルメットをバイクの荷物入れに戻し、カメラとICレコーダーを持ち、受付に向かった。
「東洋新聞社の狐堂といいます。約束の時間に遅れて申し訳ありませんが、早乙女さんをお願いいたします」
受付ではすでに話が通っていたらしい。すぐに連絡が行き、白衣の男が現れた。
「あ、あなたがそうなんですか」
開口一番、白衣の男が答える。
「狐堂といいます。よろしくお願いします」
「こどうさん。鼓動、ですか。心臓の拍動とは、病院に似つかわしい名前ですね」
「いえ、狐の堂、祠のことです。もともと家が稲荷神社の神主だったんですよ」
「そうですか。申し遅れましたが、私は早乙女直人、ここの外科医です。本来ならば広報担当の理事長が話をするべきなんでしょうが、今、ちょっと、仕事で出かけておりまして、私のような若輩者で申し訳ありません」
穏やかに挨拶をする好青年に連れられて、狐堂は病院を案内された。その道々、簡単な説明を受ける。
「もともと兵頭総合病院は都心の病院だったのですが、周りがどんどん建て込んできましてね。とうとう南側に大きなビルが出来て、まったく日が差さなくなってしまったんですよ。患者さんには辛いでしょう。うちの病院は高度医療を目指していますからね、当然入院期間が長いんです。そんな患者さんに日の当たらない部屋で一日中、ずっと過ごさせるなんてちょっとね。それで、ここに移転したんです。もともとホテルだったんで、風光明媚だし、空気はうまい。水は日本百名水の一つだし、こんな環境だと術後の回復も早いんですよ」
CTスキャン、MRIなども私立の病院にしては最新設備を備えているのだそうだ。狐堂にそんなものを見分ける目などない。ただ、かなり設備に力を入れていることだけは判る。
「移転して以来、総合病院ではなくなってしまったので、何とか努力して設備を増やしているところです」
「外科とか内科とか、いろいろ整っているじゃありませんか」
孤堂は受付の後ろのボードに目をやった。多くの科の欄のマスと、その担当医の名札が下がっていた。十ほどのマスがあり、複数の医師の名前がそれぞれのマスに書かれているところを見ると、相当規模の大きな病院だとわかる。喧嘩沙汰の絶えない孤堂にとって形成外科にしか厄介になっていないから、ほかの科の中身はイメージしにくいが、総合病院といってもいいはずだと思った。
「いえいえ、まだ小児科と産婦人科がないんですよ。どちらも重要なものなんですが、こんな田舎だとつい、患者さんが集まらないんじゃないかと、開業に踏み切れないんです」
そのためか、病院内は静かで大人か老人しかいない。
「でも必ず開設しますよ。そのためにあの別棟を確保しているんですから。現在は少しずつ設備も搬入して、緊急の対応くらいは出来る状態になっています。NICUとかはなんとか稼働できるようになっています」
早乙女は並びの建物を指差した。レンガ造りのしっとりとした三階建てで、入り口はこの本館とは別になっている。
「あの、NICUって、それは何ですか」
「新生児のための集中治療室のことですよ。周産期医療です。そのための設備を整えておかないと、せっかく授かった赤ちゃんの命を守れませんからね」
孤堂も新聞記者だから、その手の問題を耳にしている。耳にはしているが、独身の男である孤堂には今一つ、実感がない。
「それとここは終末医療にも力を入れているんです。ホスピスのほうも案内すべきですが、若い方だとちょっと辛い場所でしょうから、割愛しましょうね」
早乙女は建物を外から案内しただけで、中に入ることはためらった。白い瀟洒な別棟で、もとのホテルの時には長期滞在の客のためのコンドミニアムであったという。
「あそこの死亡率は百パーセントなんですよ。だから普通の病院ではあまり開設するところは少なくて、でもね、人って必ず死ぬでしょう。死に場所くらい自分で選びたいじゃないですか。こんな富士に抱かれた場所で最後を迎えたい、そういう方もいらっしゃるでしょう。そのため、あそこでは痛みを和らげることを最優先にして、医療というにはちょっと意味の違う病棟なんです。むしろ病棟ですらない」
早乙女は意味深なまなざしで白い別荘のような建物を見ている。
「どういうことですか」
「病気を治すことをしないんですよ。そのための薬も手術も一切しない。あそこはより穏やかに死を迎えるための場所なんです。医療行為はしない病棟なんておかしいでしょう。ただ痛み止めだけ」
しばらく案内してもらっていると、受付の女性が呼びに来た。
「早乙女先生。大山さんがまたショック症状を起こして、南先生がヘルプを求めていますが」
「判りました。すぐ行きます。あの、狐堂さん、申し訳ありませんが急患なので、後の説明は赤城さんにお願いします。彼女はよく判っている人なので、何でもお聞き下さい。赤城さん、お手数ですがこちらの方をお願いします」
早乙女はにっこり笑って少し頭を下げると急いで行ってしまった。
「すいません。後は私が説明しますわ」
美也子が先に立って歩いていく。
「良かったわ。病棟や手術室、機材の説明はすでに受けていらっしゃるんですね。あれをきちんと説明することが出来るほど、私、本当は熟知してないんです。でも後は食堂や中庭などでしょう。温室やハーブ園、菜園とか、今でしたら百合の群生も見事ですし、そこをご案内しますね」
美也子は看護婦ではなさそうだ。もっとも今は看護師というのが正式なのだろうが、ここには男性の看護師がいないようだ。患者も看護婦と呼んでいる。タイトスカートに半そでの白のブラウス、よくある事務員の服装だが、足元はナースシューズをはいている。機能重視というところか。
「こちらは食堂になります。歩ける方はこちらで食事をしていただくようにしています。そのほうが運動になりますし、気分も変わって食欲も出ますから」
案内されたところは広々としたダイニングだった。多分ホテルだったときはメイン食堂だった場所だろう。インテリアはそのまま使っているらしく、ゴージャスな雰囲気の食堂だ。まさにレストランといっていい。コーヒーを出してもらったが、そのコーヒーカップはウェッジウッドのワイルドストロベリーだ。
「ここの食事はシェフや、中華、和食の板前さんなど、もともとホテルで働いていた人たちに頼んでいるんです。勿論ただおいしい料理ではなくて、管理栄養士の方と一緒になって栄養のバランス、カロリー等、ちゃんと計算されたものを出しています。お昼ごはんを食べていらっしゃいませんか。納得していただけますわ」
確かに野の花を飾った居心地のいいダイニングでフランス料理を出されたら、病気も治ってしまうに違いない。普段気取ったものを食べていない狐堂にとって、逆にこんな場所は居心地が悪い。写真を撮り、患者にインタビューし、他の医師にも話を聞いた。
「でも不思議ですね。こんな田舎、といっては悪いのですが、都心の病院ならともかく、山梨の中でも辺鄙な場所で、高度医療の設備を備えてそれを維持管理し利用できるスタッフがよく集まりましたね」
「それは早乙女先生のおかげです」
美也子は満面の笑顔で答えた。
「早乙女先生はただのお医者様ではないんですよ」
「何者なんです」
「あの方はアメリカで高度な医療技術を習得され、大学病院でも天才、神の手といわれた方なんです。早乙女先生のお知り合いや、先生を慕う医師の方々がここに集まってきてくださったおかげで、日本でも有数の高度医療が可能になったんです。院長先生はご高齢でいらっしゃるんで、もう患者さんを診ることできませんから、早乙女先生が院長みたいなものですよ。ここの最新医療機器もすべて早乙女先生の采配で導入したんですって。メカにもすごく強くて万能ですよ。もう最高のお医者様、名医の中の名医です。でもそんな肩書きなんか欲しいとも思わない無欲な方なんですけど」
狐堂は早乙女の顔を思い浮かべた。穏やかな話し方、物腰は柔らかく、気さくで笑顔を絶やさない。好人物を絵に描いて額に入れたような人物だ。
田舎の観光地にふさわしくない、高度医療の総合病院に、名を知れた天才医師がいた。早乙女直人、彼が一医者として務めるこの病院に何があるのか。孤堂駿介の活躍を乞うご期待。