第1章 焦香色の男 1
西湖の北側に建つ瀟洒なホテルのような病院で、入院患者のベッドの脇のテレビモニターに、悍ましい画像が流れた。それは手術風景だったが、腹の中に腐った手首が縫い込まれていたものだった。
これは事件の始まりなのか。
「大山さん、落ち着いたかしら」
受付の赤城美也子が看護師の佐々木圭子を捕まえて聞いた。
「どうなのかしら。落ち着いたことは落ち着いたわよ。鎮静剤も効いたし、早乙女先生がついているから大丈夫だとは思うけど」
美也子は午前中、受付当番だ。本来はコンピューターのオペレーターとして管理ルームに詰めるのだが、それだと地下室に一日中拘束され、職場環境としては悪いということで、受付事務と兼務することになっている。受付は九時の開業時間より三十分前に用意しなければならないので、あまり条件は良くないのだが、その分早く帰ることができる。
「それでどうなったの」
「どうしたの、ってまあ、どうもこうもないわ。昨日の夜中よ。私が夜勤に入ってすぐだったか、大山さんが大騒ぎしてね。自分の腹の中に腐った手首が入っているって怒鳴るのよ。そんなことはないって説得したんだけど、ぜんぜん聞いてくれなくて。暴れまわるから早乙女先生を呼んだの」
「早乙女先生は大山さんの担当医なの」
「違うわよ。でもこんなときには一番頼りになるから。それでね、呼び出して診てもらって、納得してもらうまでCTスキャンも撮って、真夜中よ。担当の技師もいないから早乙女先生と夜勤の看護師が総出で大騒動。山ほどの映像を見せてそれから鎮静剤を注射して何とか収まったわけよ」
圭子は眠そうな目をこすりながらぶつぶつと文句を言った。小太りの腹周りがナース服の中でたるんでいる。ただでさえ太い足が、長時間の立ち仕事でむくんで辛そうだ。
「看護婦さん。診察はまだ始まらんのかな」
外来の老人が尋ねた。
「まだですよ。九時になったら各科で呼び出しをしますから、受付のボックスに診察券を出してロビーでお待ち下さい」
眠いといっても看護師としての立場は護っている。今は看護婦というより、看護師と呼ぶべきなのだが、この病院には女性の看護師しかいないので、皆、まだ看護婦と呼んでいる。圭子はこの病院の移転前から継続して勤めている古参の看護師で、姉御肌、そのためこの病院に勤めて半年の美也子はわからないことを何でも聞けると、圭子を頼りにしている。新人の美也子はまだここの制服も馴染んでいないし、社会人としても一人前ではないと自覚している節がある。履歴書によると都内のコンピューターの専門学校を卒業している。すぐにここに勤めた。ロングの黒髪をまっすぐ伸ばし、白い肌の際立つ古風な風貌とはマ逆の最先端な分野が大好きな女性で、黒のタイトスカートに白のブラウスといったシックな、ありていに言えば時代遅れの服装が気に食わないらしい。スレンダーな体つきで何を着ても一応さまになるが、彼女の好みはもっと現代的でコケティッシュなもので、病院の制服を改善してほしいと文句を言っている。
「でも良かったね。大事無くて」
「そうでもないわよ。なんか、テレビのモニターに恐ろしい映像が流れたんだって」
圭子は声のトーンを落として美也子に囁いた。
「またなの。困ったわ。どうしてそうなの」
「そう言ってもね、私にだってわからないわよ」
二人は見詰め合ってしまった。この病院のテレビは単なるテレビではない。コンピューターの端末のモニターにもなっている。それを管理しているのがコンピューター管理ルームであり、美也子の所属する部署でもある。この数ヶ月、散発的にそのモニターにホラー映像が流れるようになった。しかし、美也子たちがいくらコンピューターの履歴を調べてもそんな映像が流れた形跡はないし、外部から進入した痕跡もなかった。
「何でそんなものが流れるのかしら。本当にお化けのわけないし」
美也子が呟いた。
「ここは病院だもの。怪談の一つや二つ、あってもおかしくないわ。病院の怪談ね。まぁ、まだそれで死んだって人が出ていないんだもの、どうってことないわ。でもこれでこの病院の評判が悪くなったらことだわ」
圭子の悩みは深刻だ。看護師の待遇はどこの病院でもさしてよくはない。白衣の天使とは名ばかりで、奴隷のような扱いをするところも多い。この病院は医師、早乙女直人のおかげで役職のない看護師にもまずまずの待遇が保証されていた。
「ほんと、困ったわ」
「佐々木さん、それってお化けが出るのが困るの、それともここに患者さんが来なくなるから困るの」
「そんな、お化けなんてこの現代社会にいるわけないわよ。でもね」
圭子は思案気に頬に手を当てる。
「噂なんて大したことないって。何であんな映像が流れちゃうのかしら、困ったものね。原因も掴めないし。でも少々怪談話があったとしても、ここのお医者さんの腕はいいし、食事も環境も抜群なんだもの。そう簡単に評判が落ちるわけがないと思うけど」
美也子は圭子の心配を打ち消すように明るく言った。確かにお化けは病院のつき物だし、そんな噂はどこの病院でもある。患者の多くがそれを信じないだろうし、結局はただの噂話だ。
「そうあって欲しいよ」
女のおしゃべりに穏やかな声が割り込んだ。
「あら、早乙女先生。お休みになられたんですか」
「ちゃんと仮眠しましたよ。それより、今日は東京の新聞社から記者の方が取材にいらっしゃるんです。お手数ですが準備をしていただけませんか」
「あ、はい。勿論です。で、何を取材するんですか」
「この病院の最新医療と、人間本位の医療のあり方ってところですか。宣伝みたいなものですけど、院長命令でね。丁重におもてなししろとのことです。ここもようやく軌道に乗っていたところですし、宣伝は必要なんでしょう」
「判りました。それでしたらお花でも、買ってきましょうか」
「それより、山の野草でも飾ったほうが、気が利いてませんか。都会の方でしょうし、花屋で買うよりここらしくていいでしょう。うちのハーブ館のラベンダーが終わってしまったのは残念ですが」
早乙女は穏やかに笑って指示した。
この病院は富士五湖の一つ、西湖の北の岸に建っている。もともとホテルだった建物を改装して病院にしたもので、客室を病室にしているため、全室が富士山を望める絶好のロケーションで、全体にゆったりしている。
「今すぐ摘んできます。それで何時ごろお見えなんです」
「九時にアポイントメントを入れてあるのですが、それまでに私もひげくらい当たっておかなくてはみすぼらしいかな」
一晩中、大山に付き添って検査に没頭した早乙女は、いくら仮眠したといっても寝ぼけ眼だ。それでも元々のハンサムでかっこいい姿形が、一晩くらいの徹夜で色褪せるわけではない。
「東洋新聞社の方がいらっしゃったら私に連絡をしてくださいね」
早乙女はそう言い残してロッカールームに消えていく。きっと髭をそって着替えるのだろう。
「新聞社の取材かぁ、いいなぁ。私もお化粧、直してこようかな」
「あら、佐々木さん。夜勤明けで帰るんじゃなかったの」
「いいじゃない。たまにはさ、ちょっと残るだけよ」
「でも、残業手当は出ませんよ」
美也子はくすくすと笑うが、圭子はもしかしたら新聞に写真が載るかもしれない、そんな淡い期待で舞い上がっていた。
東洋新聞社の孤堂駿介は、騒動が起きている西湖の病院に向かう。暴走族上がりの型破りの新聞記者はなんの事件に巻き込まれるのか。乞うご期待。