第2章 湊鼠の湖 5
西湖の北岸にある病院で怪奇現象が起こっていた。入院患者の大山源蔵はそれを目撃して錯乱した。
そんなことは知らずに新聞記者孤堂駿介は病院の最新設備の取材に訪れた。その日はたまたま近くの湖で花火大会が行われるというので、その取材の依頼も受ける。
その夜、大山は失踪し、翌日水死体で発見された。警察は自殺と処理したが、孤堂は腑に落ちないものを感じる。調べてみると、その病院は3年前、保険金で騒がれていた。
小一時間ほどコーヒーとタバコでブレイクを取っていると、メールが来た。開封してみると兵頭総合病院の東京での規模と診療状況がまとめてあった。かなりしっかりとまとめてあったので不審に思ったが、その答えはすぐ判った。この病院の看護婦長と理事長、事務長が乗った車が事故に会い、多額の保険金を巡って保険会社と病院側がもめた事があったからだ。そのために事故を追っていた記者がこの資料をまとめていたわけだ。
三年前、事故は起こった。三人に掛けられた保険金が総額十数億円にも及んだことから、報道も加熱し、関係者を追いかけたが、確たる疑惑が出てこなかった。大病院の幹部に掛けられた損害賠償保険が、相場の範囲内であったこともあって、報道は尻すぼみになったまま、保険金は支払われた。ただ、疑惑の塗りこめられた病院は経営がしづらくなったのか、移転が決まり、現在の西湖の新病院が翌年開業した。このあたりは早乙女の話とは食い違う。もっとも早乙女にしても、わざわざ病院の暗い過去になるようなことを喧伝することもないと思ったのだろう。資料によるとかつて兵頭病院が立っていたあたりに、高層ビルが乱立しているのは確かだから、早乙女が嘘を言ったわけではない。
狐堂は送られてきた資料を読みながら、心のささくれを納めることが出来なかった。事故と今回の自殺には何の関係も見当たらない。場所も違えば、関係者も違う。状況も違うし、大山の水死体は保険金に絡むこともない。関係があるとすれば、兵頭総合病院に係わりがあるということだけだ。
まだ資料は入り口だ。事故についてのことも報道の範囲内だし、追加の資料を待つしかない。また知りたかったこの病院の前身のホテルについては資料が来ていない。事件がらみのものではないのか、ラボで調べられなかったに違いない。このあたりにも不況のあおりでシャッターの下りたままの店が目につくから、その類のものかもしれない。そうなったら調べようがない。狐堂は手持ち無沙汰になって、ふと、美也子のことが気になった。彼女のマンションは歩いていける範囲内だし、見舞いに行くつもりで出かけた。
途中、花でも買おうと思いついたが、花屋はない。道すがら店を探していると、薬屋の店先に植木鉢が並べられている。しかもその鉢には値札がささっている。
「ここは薬屋だよな」
店の看板は立派に薬局の文字が掲げられている。確か通り過ぎた肉屋の店先にもキャベツやトウモロコシが並んでいたと思い出した。田舎は都会では思いつかないようなことを平気でする。狐堂はアスターの植木鉢を買い、それを下げて美也子のマンションを訪ねた。もっとも、孤堂にその花の名前はわからなかったが。
「あら、何でしょう」
インターフォンを鳴らした途端、美也子がドアを開けた。
「無用心だな、ドアのレンズを覗いて確認をすることをしないのか」
「あ、そうだった」
笑って照れ隠しをする。
「田舎はうらやましいな。疑うことをしないでもいいらしい」
「いえ、そんなことないわよ。ついうっかりよ。それに私は地元の人間じゃないわ。まぁ、上がってください」
ゆっくりと足を引きずりながら赤城は部屋に通してくれた。ゆったりとしたワンルームマンションで、折りたたみベッドを美也子は何とか畳もうとしている。
「かせよ」
言葉を出す前に、手を出しベッドを椅子にする。美也子は微笑んでコーヒーメーカーをセットした。
昨日は夜中に女性の部屋を訪ねるという居心地の悪さで、部屋をまともに見ていなかったが、午前中、明るい時刻での訪問で、見舞いという大義名分もあれば、気楽に過ごせる。質素ではあるが整理された室内、パソコンが目立つがごくありふれた女性の一人暮らしだ。時々友人でも泊まりにくるのだろうか、クッションやキッチンの食器は数が多い。
「地元の人間じゃないってどこの人だ」
「東京」
「おれもだ。おれは練馬に住んでいる」
「二十三区内ね。私はずっと外れの西東京市。なんか変な名前よね。西の東なんてさ」
けらけらと屈託なく笑う。
「就職のためにわざわざこんな田舎にやってきたのか。他にいい働き口はなかったのか」
「あら、これでもいい就職だと思ったわよ。だってコンピューターのオペレーターって、なかなか働き口がないの」
オペレーターとは思わなかった。白衣を着ていないから看護師や技師ではないのはわかるが、たぶん事務だと思い込んでいた。
「事務員じゃないのか」
「残念でした。これでも専門学校では結構いい成績だったんだから。病院でも本当はコンピュータールームで、病院の医療や事務を管理するのが仕事なの」
「ふーん」
そういえば早乙女の説明でも最新のコンピューター管理のシステムで、誤診をなくし、薬剤投与も管理されて、過剰投与の危険を回避していると言っていた。そのためにはそれを操作する人間が必要不可避なのだろう。
それからしばらく、狐堂は美也子と雑談をしたが、さしてめぼしい内容は聞き出せなかった。コンピューター専門学校を卒業したのはこの春、そのままこの病院に入ったので、それ以前のことは何も知らないと言う。年は二十三歳、まだ学生気分が抜けないと自嘲気味に話す。
「でも、ここのところ、仕事が大変なのよ。同僚の一人が出産で三ヶ月くらい前からお休みしているの。困っちゃう」
「仕方ないだろ」
「判っているわよ。協力しなくちゃいけないってことくらい。少子化だものね」
美也子はニコニコと笑う。都会から来たというが、地元の人と同様の、ゆったりした笑い方をする。
「もう生まれたのか」
「ええ、二週間前にね、可愛い男の子だわ。そのために別院の一部に、無理やり産婦人科の設備を入れて、彼女、流産しやすいたちだとか、あれ、切迫早産だったかな、何せ危ない体質らしくって、それで大騒動だったのよ」
確か、早乙女も産婦人科や小児科を新設したいと言っていた。設備も搬入しているとか、それの先駆けと言うことなのだろうか。そうでなくてはたかが一人の出産のために科を新設するとは思えない。しばらく話して狐堂の携帯にメールが入ったので、部屋を出た。
メールは大森からのもので、中身はさっさと仕事を済まして帰れとある。後、もう少し病院の取材を詳しくしろとあった。
孤堂は聞き込みがてら、赤城美也子を訪ねる。日本風美人の赤城、さてどんな関係になるのだろう。乞うご期待?