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喫茶星の雫  作者: shade
9/13

喫茶星の雫 -case09- 扉の前の記憶

 朝の店内は、まだ少し冷たい。

 薪ストーブにくべた火がゆっくりと燃えはじめ、鉄瓶がことことと音を立てる。


 さくらは黙々と開店準備を進めていた。

 床を掃き、カウンターを拭き、コーヒー豆の瓶を並べる。


 その奥で、マスターはコンロの前に立っていた。

 小鍋の中には、玉ねぎ、人参、セロリ。トマトと赤ワイン。

 コトコトと煮込まれるその香りが、静かに店内を満たしていく。


「……いい匂い」


 さくらはふと手を止め、鼻をくすぐる香りに意識を向けた。

 野菜の甘さに混じる、少し酸味のある匂い。

 初めて嗅ぐはずなのに、胸の奥がふわりと揺れた。


 頭の中に、断片的な映像が浮かぶ。

 木のテーブル。温かい湯気。子どもの目線。

 でも、それは霧のようにすぐ消えてしまった。


「……あれ?」


 自分でもよくわからないまま、さくらは首をかしげる。


 通りかかったママさんがちらりと視線を向け、柔らかく言った。


「その香り、昔から変わらないのよ。マスターの煮込みはね」


「……昔から?」


「そう。開店当初から、気まぐれでね。でも、あの香りだけはいつも一緒」


 マスターは黙ったまま鍋をかき混ぜている。

 何も語らない背中。でもその動きが、不思議と懐かしく感じた。



 やがて、マスターが無言で扉の前へと向かう。

 ドアを開けた瞬間、小さく——チリン。


 石畳に打ち水をする音が、しずかに響いた。

 そして、入口横のランタンに火が入る。

 かすかな炎が、朝の光と重なって揺れる。


 さくらはその背中を見送って、ひとつ深呼吸をした。

 そして、自分の手で扉を開ける。


 チリン。


「……いらっしゃいませ」


 まだ何も思い出せない。

 でも、きっと何かが、少しだけ近づいた朝だった。

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