喫茶星の雫 -case09- 扉の前の記憶
朝の店内は、まだ少し冷たい。
薪ストーブにくべた火がゆっくりと燃えはじめ、鉄瓶がことことと音を立てる。
さくらは黙々と開店準備を進めていた。
床を掃き、カウンターを拭き、コーヒー豆の瓶を並べる。
その奥で、マスターはコンロの前に立っていた。
小鍋の中には、玉ねぎ、人参、セロリ。トマトと赤ワイン。
コトコトと煮込まれるその香りが、静かに店内を満たしていく。
「……いい匂い」
さくらはふと手を止め、鼻をくすぐる香りに意識を向けた。
野菜の甘さに混じる、少し酸味のある匂い。
初めて嗅ぐはずなのに、胸の奥がふわりと揺れた。
頭の中に、断片的な映像が浮かぶ。
木のテーブル。温かい湯気。子どもの目線。
でも、それは霧のようにすぐ消えてしまった。
「……あれ?」
自分でもよくわからないまま、さくらは首をかしげる。
通りかかったママさんがちらりと視線を向け、柔らかく言った。
「その香り、昔から変わらないのよ。マスターの煮込みはね」
「……昔から?」
「そう。開店当初から、気まぐれでね。でも、あの香りだけはいつも一緒」
マスターは黙ったまま鍋をかき混ぜている。
何も語らない背中。でもその動きが、不思議と懐かしく感じた。
⸻
やがて、マスターが無言で扉の前へと向かう。
ドアを開けた瞬間、小さく——チリン。
石畳に打ち水をする音が、しずかに響いた。
そして、入口横のランタンに火が入る。
かすかな炎が、朝の光と重なって揺れる。
さくらはその背中を見送って、ひとつ深呼吸をした。
そして、自分の手で扉を開ける。
チリン。
「……いらっしゃいませ」
まだ何も思い出せない。
でも、きっと何かが、少しだけ近づいた朝だった。