喫茶星の雫 -case04- 答えのない注文票
「ランチ、ひとつ」
カウンターに座ったサラリーマン風の男性が、メニュー表を見ることもなくぽつりと言った。
さくらは思わず聞き返しそうになる。
が、声が出なかった。
メニューには、こう書かれている。
「ランチ 1200円」
──それだけ。
内容も、説明も、写真もない。
(……何が出るの? どうすればいいの? 注文って、これで成立してるの?)
頭の中がざわつく。
けれど、ママさんは慣れた手つきで伝票に「ランチ ひとつ」とだけ記入する。
「……これでいいんですか?」
「ええ、それでいいのよ。あとはマスターがやるから」
厨房の奥で、マスターは黙々と仕込みを進めていた。
特に何も聞いていないはずなのに、もう動いている。
(心読めるの? 予知能力?)
さくらは伝票を見つめた。そこにはただ、「ランチ」とだけ書かれている。
そのとき、ドアのベルがチリンと鳴った。
「こんにちはー」
入ってきたのは、小さなお客様。
赤いリュックを背負った女の子が、当然のようにカウンターに腰かける。
「いつものください」
また、それだ。
“いつも”って何? 誰が何を覚えてるの? 注文ってこういうもの?
ママさんが「はいはい」と笑顔で伝票に「ランチ」と書く。
「……これも、ランチ?」
「そうねぇ。あの子は毎日食べに来てるから、“その日出るもの”を“その子に合う形で”出してる感じかしら」
「お子様ランチ……?」
「とはちょっと違うけどね。マスターなりの“出し方”があるのよ」
そう言って、ママさんはさくらに目配せした。
「見てなさい」という無言の合図。
やがて、マスターが黙って料理を運んできた。
大人には、とろとろに煮込まれたビーフシチューとこんがり焼かれたバゲット。
そして少し遅れて、小さなカップに注がれたコーヒーが添えられる。
子どもには、色とりどりのプレート。
鶏肉のソテーに、カボチャのサラダとミニトマトのマリネ。
グラスには、冷たいオレンジジュースが静かに光っていた。
誰も文句を言わない。
誰も確認しない。
食べるだけ。そして、どこか満足したように、静かに帰っていく。
「……すごいですね」
さくらはぽつりとつぶやいた。
「何が出るかわからないのに、誰も聞かないなんて……」
「聞く必要がないのよ。おいしいって、もう知ってるから」
ママさんが笑う。
さくらは、空になった器を拭きながら思った。
──答えなんて、最初からなかったんだ。
でも、この店では、それがちゃんと成立している。