喫茶星の雫-case03-猫には猫のルール
店の前の石畳に、今日もあの猫がいた。
白と灰の混じった毛並み。細身で、目だけが妙に賢そうな猫。
薪ストーブの煙突から立ちのぼる煙の下、日だまりの真ん中で堂々と丸くなっている。
「……おはようございます。えっと……会長さん?」
さくらが声をかけると、猫はちらりと目を開けた。
だがそれだけ。あとはすん、と顔を背けて、前足で顔をぺろぺろ舐めはじめる。
「無視……。昨日は“シロ”って呼ばれてたと思うんだけど……」
猫は店の中に入ってこない。
誰に飼われているわけでもない。でも、いつもいる。
まるでこの店の空気の一部みたいに、当たり前に。
さくらが掃除を終えてカウンターに戻ると、ママさんが笑っていた。
「あの子ね、うちの猫じゃないのよ」
「えっ、違うんですか?」
「最初に見かけたのは……もう十年くらい前かしら。ふらっと来て、帰らなくなったのよ。だから、みんな勝手に名前つけてるの」
「じゃあ、“会長”も?」
「ええ、“会長”、“ゴロー”、“班長”……最近じゃ“チーフ”って呼ぶ人もいたわねぇ」
「役職ばっかり……」
ふたりでくすくす笑う。
その間も猫は、店のドアの前から一歩も動かない。
ちりん。
ドアのベルが鳴り、小さな来客が入ってくる。
「こんにちはー」
ママさんが「いらっしゃい」と笑顔で応え、さくらもぺこりと頭を下げる。
猫は目を細め、ちらりとだけ振り向いて、また寝たふりをする。
「中に入ってこないんですね」
「そうねえ。ドアが開いても、決して入ってこないのよ。不思議と」
「ルール……ですかね」
「猫には猫のルールがあるのかもね。人間にはわかんないけど」
その日の営業が終わる頃、さくらはふとドアの外を見た。
もう陽は傾き、石畳の上には猫の影がのびていた。
そのとき、厨房の方でマスターが静かに立ち上がる。
無言のまま、手にしていたのは——小さな器。
中には、ごく薄いスープに、細かく刻まれた鶏肉と人参が浮かんでいた。
マスターはそのままドアのすぐ外、猫がいつもいる場所にそっと器を置いた。
そして、何も言わずに戻ってくる。
ドアの向こう。猫は、のそのそと近づき、器の中をのぞき込む。
ぺろり。
それから一口、もう一口。
「……やっぱり、ここの常連なんですね」
さくらはつぶやいた。
マスターは何も返さなかったけれど、その背中はほんの少しだけやさしく見えた。